戦争と平和 第3巻・第2部(27−2)ナポレオンの作戦計画に対するトルストイの考察。 | 気ままな日常を綴っています。

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(物語)

もしナポレオンに対する迷信的恐怖を捨ててこの命令を見るなら、極めて曖昧で要を得ぬこの作戦命令は、4つの点、つまり4つの命令を含んでいます。

これらの命令は1つとして実行され得ぬものでありましたし、現に実行されなかったのでした。

 

①作戦命令に述べられている第1の点は、ナポレオンが選んだ陣地に配置された砲兵隊は、その両翼に進出するはずのベルネッティととフーシェの砲兵隊と並んで、全部で102門の砲が砲門を開きロシア軍の突角堡と堡塁に砲弾を浴びせる、という事です。

これは実行不可能でした、というのは、ナポレオンによって指定された位置からは、砲弾がロシアの陣地まで届かず、現地の指揮官がナポレオンの命令に背いて砲兵隊を前方へ進出させない限り、この102門の砲は無人の野に砲弾を打ち込む事になるからでした。

 

②第2の命令は、ポニャトスキイが村から森へ入り、ロシアの左翼を迂回する事でした。

これも実行不可能でしたし、現に実行されませんでした、というのは、ポニャトスキイが村から森へ進む途中で、その進路を塞いでいたトゥチコフ軍と遭遇して、ロシア軍陣地を迂回することができなかったからであり、現に迂回しませんでした。

 

③第3の命令は、コンパン将軍が第1の堡塁を占領する為に、森の中を移動する事でした。

コンパン師団は、第1の堡塁を占領出来ずに、撃退されました。

それは、同師団が森を出た所で、激しい砲火の下で隊列を整えなければならなかったからであり、それをナポレオンは知らなかったのでした。

 

④第4は、副王は村を占領し、モランとフリアンの両師団(この両師団については、いつどこへ移動するのか言われていない)と並んで同じ台地を進撃し、3箇所で橋を渡る、両師団は副王の指揮の下に堡塁を目指し、他の諸部隊との連携に入る、という事です。

この訳の分からぬ命令文からではなく、与えられた命令を実行する為に副王によって為された諸々の試みから理解し得た限りでは、副王は村を通って左方から堡塁へ進まなければならなかったし、モランとフリアンの両師団は同時に正面から前進しなければならなかった訳でした。

 

こんな事は、作戦命令の他の諸項目と同じように、実行されませんでしたし、される訳が無かったのでした。

ボロジノを通過して、副王はコローチャ河で撃退され、その先へ進む事が出来なかったのでした。

モランとフリアンの両師団も、堡塁を攻略する事が出来ずに撃退されました、そして堡塁が奪取されたのはもう会戦が終わり近くなってから騎兵隊によってでした。(これはおそらく、ナポレオンの予見せぬ事で、全く意外な事だったでしょう。)

 

以上述べたように、作戦命令の項目は1つとして実行されませんでしたし、されるはずも無かったのでした。

しかし、作戦命令には、戦闘に入って後は、敵の動きに応じて命令が与えられる、とあったので、戦闘の最中は全ての必要な命令がナポレオンによって与えられたと考えられるかも知れません。

しかしそのような事はありませんでしたし、有り得なかったのでした。

後で分かった事でしたが、戦闘の間ナポレオンは終始戦場からあまりにも遠くに位置していた為に、戦闘の経過が彼には知りえなかったし、戦闘の間を通じて彼の命令は1つも実行される状態に無かったからでした。

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(解説)

はい。

素人目には簡潔で分かりやすいと思われたナポレオンの作戦命令について、トルストイ先生は痛烈な批判と分析を見せています。

戦局に応じての適切な命令が肝要という当時の戦争の常識にもかかわらず、この時のナポレオンは無責任にも戦地から遠く離れた場所でぼ〜としていた(❓)様子が描かれています。

 

しかし、トルストイ先生は次のチャプターでナポレオンは従来の会戦と同じように司令官としての役割を演じていた、と分析しています。

言わんとする事はなんとなくわかりますが、トルストイ先生は一般に言われているナポレオンの天才的な指令能力については、後世の歴史家たちが作り上げた虚像ではないのか❓。。という疑問は常に強く持っておられるように思います。

それは少し前のアンドレイ公爵のセリフ『勝たんと強く念じた者が勝つのだ』というセリフにも通じるものがあるように思います。