(物語)
この8月25日は終日、伝記作家の語るところによれば、ナポレオンは馬上で過ごしました。
彼は地形を視察し、元帥達が進言する作戦計画を検討し、親しく将軍達に命令を与えたのでした。
コローチャ河に沿うロシア軍陣地の最初の線は崩れ、その線の一部、つまりロシア軍の左翼は、24日のシェヴァルジノ堡塁奪取の結果、後方へ下げられていました。
この部分は強化されていないし、もう河によって防御されていないし、この前面だけが最も見通しの良い平垣な地域でした。
この部分をフランス軍が攻撃すべきである事くらいは、軍人であるか否かを問わず、誰の目にも明らかでした、これを決定するには多くを考える事はありませんでしたし、さほど頭を悩ます必要も無かったはずでした。
ところが、この事件を記述した歴史家達も、当時ナポレオンに随行していた人々も、ナポレオン自身も、それとは違う考え方をしていたのでした。
ナポレオンは馬で予定の戦場を回り、深く想を練りながら地形を熟視し、1人で良しと頷いたり、否々と頭を振ったりしていました、そして彼の決定に至る深慮の歩みは周りの将軍達に知らさずに、最終的な結論だけを命令の形で彼らに伝えたのでした。
ロシア軍の左翼を迂回すると言う、エクミュール公と呼ばれるダヴーの提案を聴き終えると、ナポレオンは、なぜその必要は無いのか、理由は説明せずに、その必要は無いと退けました。
突角堡を攻撃する事になっていたコンパン将軍(※当時のタヴー軍の第5歩兵師団長)の師団を、森の中を進めると言う提案にはは、ナポレオンは、エリヒンゲン公と呼ばれるネイ将軍(※ボロジノ戦でフランス中央軍である第3軍を指揮、ナポレオンにより「モスクワ公」の称を与えられた)が、森の中を移動させるのは危険であるし、部隊を分散させる恐れがあると直言したにも関わらず、同意を表明しました。
シュヴァルジノ堡塁の前面の地形を観察すると、ナポレオンはしばらく黙考して、ロシア軍陣地を砲撃する為の2つの砲兵陣地を明日までに構築する位置を示し、それと呼応する平地の砲兵陣地の位置を示しました。
こうした命令を与えた上で、彼は自分の幕舎に戻りました、そして彼の口述で作戦命令が作成されました。
フランスの歴史家達が感動を持って語り、他国の歴史家達が深い尊敬を持って語っている作戦計画は、次の様なものでした。
『夜間にエクミュール公の軍団が位置する平地に構築された新しい2つの砲兵陣地は、夜明けと共に、正面の敵の2つの砲兵陣地に対して砲撃を開始する。
それと同時に第1軍団の砲兵指揮官ベルネッティ将軍は、コンパン師団の大砲30門と、デッセ、フリアン両師団の榴弾砲全部を率いて前進し、敵砲兵陣地に対して榴弾砲劇を加える。
この砲撃に参加する砲の数は次のとおりである。
近衛師団砲兵連隊 24門
コンパン師団 30門
フリアン、デッセ師団 8門
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計 62門
第3軍団砲兵指揮官フーシェ将軍は、第3軍団と第8の榴弾砲全部、計16門を、左翼堡塁攻撃の任務を持つ砲兵陣地の両側に配置する、従って同堡塁に向けられる砲数は計40門となる。
ソルビエ将軍将軍は、命令があり次第、近衛師団砲兵連隊の榴弾砲全部を率いて、二堡塁のいずれの攻撃にも出勤できる様に待機する。
砲撃の間に、ポニャトフスキィ公爵は村へ向かい、森の中を移動して、敵陣地の後方へ迂回する。
コンパン将軍は第1の堡塁を占領する目的を持って、森を前進する。
隠して戦闘に入った後は、敵の動きに応じて命令が与えられる、左翼における砲撃は、右翼の突撃を合図として開始と共に開始される。
モラン師団と副王(※ナポリ王と呼ばれたミュラーを指す)の師団の狙撃兵部隊は、右翼の突撃開始と共に、猛烈な援護射撃を開始する。
副王は、村(※ボロジノ村)を占領し、モランとジュラールの両師団と並んで同じ台地の進撃し、3箇所で橋を渡る。
両師団は副王の指揮の下に堡塁を目指し、他の書部隊との連携に入る。
以上、全ての行動は規定に基づき、整然と行われ、出来るだけ予備軍を温存しなければならない。
1812年9月6日(※ロシア暦8月25日) モジャイスク付近の大本営にて 』
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(解説)
これはもう、戦争のプロではありませんのでなんとも書けません。
印象としては、流石にナポレオンは戦場をよく見ているな、と言う印象を持ちました。
そして簡潔な指示の様に見えて、具体的かつ分かりやすく指示が記載されていると思います。
誰が読んでも、全体像が浮かび上がる様な気がします。
しかし。。。
次にトルストイ先生の、この作戦に対する欠点❓がシビアに展開されます。