戦争と平和 第3巻・第2部(19−2)ボロジノの会戦におけるトルストイの考察② | 気ままな日常を綴っています。

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(物語)

さらにロシア軍は、1812年8月25日までに、会戦がこの地域(ボロジノ)で行われるかも知れぬなどとは夢にも思っていなかったのでした。

この会戦後かなり経過して、ボロジノの会戦の全般的な戦闘詳報が書かれた時に(おそらく、正しくあるべき総司令官の誤謬を訂正する為でしょうが)、シェヴァルジノ堡塁が前哨地点であり(実際には左翼の強化された1拠点であったのに)、ボロジノ会戦は我が軍によって予め選ばれ強化された陣地に於いて行われた(実際には全く予期されぬ、ほとんど無防備に等しい地点で行われたのだが)とする様な正しく無い奇妙な証言が考案されたのでした。

 

実情は明らかに、次の様なものでした。

陣地は、大街道を直角にでは無く、鋭角に横切っているコローチャ河の線に沿って選ばれたものでした。

だから左翼はシェヴァルジノ付近に、右翼はノーヴォエ村付近、そして中心はコトーチャ河とヴォイナ河の合流点にあるボロジノに置かれました。

コローチャ河に守られたこの陣地の線は、スモーレンスク街道をモスクワに進撃する敵を阻止する事を目的にする軍にとっては、実際に戦闘が行われた経過を忘れてボロジノの地形を眺めた場合、誰の目にも明らかでした。

 

ナポレオンは、24日にワルーエワに向かって軍を進めましたが、歴史の語るところによると、ウチーツァからボロジノに至る線にロシア軍を認めなかったし(そんなものは無かったのだから認める訳が無かった)、ロシア軍の前哨陣地も認めませんでした、そして、ロシア軍後衛部隊を追って進むうちに、たまたまロシア軍陣地の左翼に当たるシェヴァルジノ堡塁を発見し、自軍にコローチャ河を渡河させ、ロシア軍の意表を突いた形になりました。

その為にロシア軍は、全線に渡る邀撃態勢(ようげきたいせい)を取る間が無く左翼軍をその予定の陣地から下げて、予定もしていなかったし構築もしていなかった新しい陣地に移したのです。

ナポレオンは、コローチャ河を渡り、大街道の左側へ軍を移す事によって、以後の全ての戦闘を、ロシア側から見て右から左へ展開し、洗浄をウチーツァとセミョーノフスコエとボロジノを結ぶ平野に移したのでした。

そしてこの平野で26日の会戦の全ての戦闘が行われたのでした。

 

シェヴァルジノ堡塁の陥落後、25日早朝には、我が軍は左翼を無防備のまま的に晒す形になったので、急遽左翼軍を下げて、どこにでも良いから大急ぎで陣地を構築させり必要に迫られたのでした。

しかも、8月26日には、ロシア軍は作りかけの脆弱な堡塁に頼らざるを得なかったばかりで無くーーこの状況の不利は、さらに次の様な事態によって増大されたのでした。

それは、ロシアの司令官達が、左翼の陣地が落とされ、今後の戦闘の舞台が全て右から左へ移されたという既成の事実を十分に認識せずに、ノーヴェエ村からウチーツァに至る長い陣地の線にそのまま留まり、その結果、会戦最中に、自分の部隊を右から左へ移動させなければならなかった事でした。

 

この様にして、ボロジノの会戦は、書かれているものとは全く様相を異にしていたのでした。

(史家達は、我が司令官達の誤りを隠そうと努めて、その為に却ってロシア軍とロシア国民の名誉を落としているのです。)

ボロジノの会戦は、選ばれて強化された陣地で、ロシア側から見てわずかに劣勢な兵力をもって行われたのでは無く、ボロジノの会戦は、シェヴァルジノ堡塁を失った結果、陣地らしい陣地も無い見通しの平野で、ロシア軍が半分にも満たぬ劣勢な兵力でフランス軍を迎え撃ったのでした。

それは10時間も戦ってなお勝敗を決しかねさせる事など、到底考えられないばかりか、ロシア軍をわずか3時間で完全に崩壊させて敗走させうる様な条件下で行われたものだったのでした。。

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(解説)

ま。ここもトルストイ先生のボロジノ会戦の考察ですね。

この会戦は、一般に認識されている様に、ロシア側の作戦によりフランス軍をここにおびき寄せて宣戦布告させ行われたものでは無く、偶然フランス軍がロシア軍の左翼に当たるシェヴァルジノ堡塁を発見し、攻撃を仕掛けた異に応戦せざるを得なかったものだった事が述べられています。

 

しかも、その時の戦力はフランス軍に対し、ロシア軍は半分にも満たぬ兵力であり、急遽陣地とせざるを得なかった戦場には全く適していないボロジノで相当頑張って戦闘状態を続け、結局両者勝敗がつかなかった経緯が述べられています。

(ボロジノの会戦では、ロシア軍は劣勢にも関わらず持ちこたえ、両軍甲乙つけがたかった。➡︎クトゥーゾフの命令によりロシア軍戦略的撤退をする。➡︎フランス軍モスクワ入場➡︎アレクサンドル、講和を拒否➡︎フランス軍9月に入って軍を撤退せざるを得ず、その際に寒さで全滅。。という流れらしい。)