(物語)
皇帝がモスクワを去ってからは、モスクワの生活はは従来の普通の流れに戻りました、そしてこの生活の流れは平常と少しも変わらなかったので、先頃の愛国心の高揚と熱狂の日々を思い出す事は難しいものとなっていました。
皇帝のモスクワ滞在中に全部を熱狂させたあの愛国的気分を思い起こさせるものは、人員と寄付の要求だけで、それは決議後熱の冷めぬうちに大急ぎで法的に成文化されて、もう避けられぬもののようでした。
敵がモスクワに近づくにつれて、迫って来る危険を見る人々によくあるように、自分達の状態に対するモスクワ市民達の考えは、深刻にならないばかりか、反対にますます軽薄になって行きました。
危険が迫ると、人間の心の中では2つの声が同じ様な強さで語るのが常です。
1つの声は、危険の性質そのものと、それをよく考える様に極めて理性的に呼び掛けるものです。
そして、もう1つの声は、事態の全般的な推移から免れる事は、人間の力の限界を超えるものである時に、危険を考えるのは余りにも辛く苦しい事なので、実際にそれが来るまでは苦しい事から頭を背けて楽しい事を考えた方がましだ、と言う考えです。
人間は1人でいる時はたいてい第1の声に従うものですが、仲間と一緒に居ると、反対に第2の声に従うものです。
今のモスクワの住民達もそうでした、今年は久しく無かった程モスクワ中が浮かれていました。
クラブの角部屋は、モスクワを落とそうとするナポレオンの風刺ビラを読む人々の溜まり場でした。
フランス人は無論のこと、他の外国人までことごとくラストプチンがモスクワから追放しましたが、その中にはナポレオンのスパイや密偵どもが交じっていたと言う事がしきりに噂されました。
しかしこれは主として、彼らを追放する際にラストプチンが吐いたと言われる名文句を伝えたい為でした。
外国人達は、平底荷船でニージニイへ送られましたが、その時ラストプチンが彼らにこう言ったと言う事でした。
マモーノフは、1連隊を提供して8万ルーブリほど付いたらしいとか、べズーホフは自分の民兵部隊にそれ以上の金を使ったけれど、べズーホフの行為の最高傑作は、自分で軍服を着込んで、馬上の英姿で自分の連隊の閲兵を行なったそうだが、その見物の席料を取らない事だ。。等が話題にされていました。
「貴方は誰の事も容赦なさいませんのね。」と、ジュリィ・ドルベツカーヤは指輪をゴテゴテ付けた細い指で、ガーゼにする解木綿を集めて小さく固めながら言いました。
ジュリィは翌日モスクワから疎開することにしたので、お別れの夜会を開いていました。
「べズーホフは滑稽ですけれど、とても善良で優しいお方ですね。そんな悪口をおっしゃって何が楽しくあるのですか❓」
「罰金ですね❗️」と、義勇兵の軍服を着た青年が言いました、この青年はジュリィが『私のナイト』と呼んでいて、ニージニイへ一緒に連れて行く事にしていた青年でした。
ジュリィの集まりでは、モスクワの多くの集まりと同じ様に、ロシア語だけを使う事が決められ、誤ってフランス語を口にした者は罰金を払い、それは募金委員会へ納められる事になっていました。
「もう一つ罰金ですよ、フランス風の言い回しに対して。」と、客間に居たロシアの作家が言いました。
「貴方は誰にも容赦なさいませんのね。」と、作家の指摘に耳を貸さないで、ジュリィは言葉を続けました。
「悪口は私の失敗ですから、罰金を払いますわ、でも。。払っても構わない気持ちですけれど、言い回しに対しては責任を取りませんわ。」と、彼女は作家の方へ顔を向けました。
「私にはゴリーツィン公爵の様に、先生を雇ってロシア語を習う様な金も暇も御座いませんもの。。あら、そらいらしたわ。」と、ジュリィは言いました。
「噂を。。あら、ごめん」と、彼女は義勇兵に言いました。
「これ、無しよ。噂をすれば。。影とやらね。」と、愛想よくピエールに微笑を投げかけながら彼女は言いました。
「私達、今、貴方のお噂をしていたところですのよ。」と、社交界の婦人に特有のけろりとした顔で嘘をつきながら、ジュリィは言いました。
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(解説)
フランス軍がスモーレンスクを占領して、さらにモスクワへと向かっているその時のモスクワ市民の様子を描いた箇所ですね。
皇帝が先日モスクワを訪れた時は、みんな感激して国を挙げて陛下の為に戦おうじゃないか、モードだったのですが、陛下がモスクワを去るといつもの日常に戻ります。
クラブや社交界では、モスクワを狙うナポレオンの風刺画を眺めフランス人をあざけり、社交界ではフランス語は禁止となっていました。
ジュリィは、ナポレオンが落とそうと迫って来ているモスクワからニージニイに疎開するにあたってお別れの夜会を開きますが、相変わらず他人の噂話ばかりしています。
あの平和主義者のピエール・べズーホフでさえ、民兵部隊を自己資金で編成し、自ら軍服を着て馬上の人になり、自分の連隊の閲兵を行う。。と言う笑い話でみんな持ちきりです。(似合わないんですね、そんな格好は。想像しただけで可笑しくて仕方ない様ですね。)
そこへ、噂の当人ピエールが現れます。。