18世紀、フランスが誇る王立セーヴル磁器窯設立にあたっての立役者は、ブルボン王家の国王ルイ15世の愛人として艶名を謳われたポンパドール夫人でした。
彼女は、1721年12月、摂政オルレアン公の執事フランソワ・ポアソンとパリの裕福な肉屋の娘マドレーヌ・ドゥ・ラ・キットとの間に生まれました。
子供の頃から周りの人を魅了する天性の美貌に恵まれ、やがて文学や美術を好み、才智に富んだ会話を得意とする女性でした。
(ポンパドール夫人)
20歳の時彼女は、エティオールの領主シャルル・ギョーム・エティオールと結婚し、セナールの森に近い館にすみましたが、この森が狩り好きのルイ15世との運命的な出会いの場となりました。
彼女の美貌と才気に一目惚れしたルイ15世は、早速彼女を宮廷に召し出し、道徳的教育を除くあらゆる事を彼女に学ばせて、ついに彼女をパリ社交界の第一の花形仕立て上げました。
1745年、彼女が24歳の時でした。
さらに、王の寵愛を受けた彼女は、フランス中部のポンパドールの領地を拝領し、同時に侯爵夫人の爵位を授けられました。
それ以後、彼女は1764年の死に至るまでの20年間、文字通り「王とフランスとヨーロッパ」に君臨しました。
(アルナック=ポンパドゥール)
「私の支配する時代」とは、彼女自身の言葉ですが、それが思い上がりとも噂されなかったのは、彼女の人柄によるものでした。
その言葉は事実で、才気あふれる彼女は、王を巧みに操縦し、国政にまで関与して大臣や官吏の任免、外交方針の決定、軍の指揮統帥に至るまで大きな役割を果たした、と言われています。(※ルイ15世は、政治能力がパッとしなかった模様。)
このように、ポンパドール夫人の政治的、社会的な活躍は目覚ましかったのですが、同時に彼女は芸術家や思想家を保護し、彼らに年金を与えたばかりではなく、文芸の擁護に積極的でした。
その為、彼女のサロンには当時の代表的な人物が多く集まり、その中には彼女の肖像画を数多く描いたド・ラ・トゥールを始め、アカデミーのプーシェ、ナティエ、建築家のガブリエル、思想家のヴォルテール、さらには医師であり経済学者でもあったフランソワ・ケーネらの錚々たる人々がいました。
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