ウイーン磁器工房(2) デュ・パキエ、経営困難の為国家に売り渡しマリア・テレジアの支援を受ける。 | 気ままな日常を綴っています。

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しかし、マイセンから見れば、シュテルツェルが色絵の天才ヘロルトを送り込んだ事によって生み出されたマイセン磁器の高度な絵付け芸術を省みた時、磁器焼成の秘法がデュ・パキエ工房に洩れた事のツケは、十分な利子を上乗せして返済されたと言うべきものだったのです。

 

シュテルツェル、ヘロルト、そしてフンガーが去った後のウイーンの製作所には、10名程の従業員が残り、1721年には20名に総員されましたが、経営は依然として困難でした。(フンガーはイタリアへ行き、そこで磁器製造の秘宝を教えたらしい)

マイセンのように国王の経済援助を受ける事が出来ず、単なるベンチャー企業を続けるしかないデュ・パキエの製作所には、順当な資金繰りなどそもそも無理な話でした。

デュ・パキエは。早くも1723年に製作所の売却さえ試みたのでした。

 

確かに、デュ・パキエの製作所も植物や風景画、「黒絵」を得意とした絵師は居ましたが、ヘロルトにははるかに及ばなかったのです。

また、彫刻に至っては、マイセンのケンドラーに例えられる優秀なモデラーの存在は一切知られていませんでした。

このように、ウイーンの製作所の置かれた状況は、国家に支えられたマイセンの恵まれた状況からはほど遠いものでした。

 

黒絵:よくわかりませんが、こんな感じのものだと思います。この作品は現代物のオーストリア・アウガルテンらしい。)

黒絵式(くろえしき、: black-figure)は、紀元前7世紀からあらわれた古代ギリシア陶器の壺絵の技法の一つである。黒像式(こくぞうしき)とも呼ばれる。・・ウイキペディアより。

(参考:黒絵式アンフォラ。紀元前6世紀(ルーヴル美術館蔵))

 

1735年以降、より深刻な経営危機に瀕したデュ・パキエの製作所は、そこからの脱却を果たす事も叶わぬまま、ついに設立時にカール6世から与えられた25年の特権の満期を1743年に迎える事になったのです。

それを機にデュ・パキエは、翌1744年に磁器発明の秘法を含めて製作所を国家に売り渡しました。

 

同年以降は、1740年に即位したクランツ1世の妃マリア・テレジアが製作所を財政支援する事になり、ウイーン磁器製作所は莫大な資金を投入して金彩による豪華で装飾的な作品を製作するようになりました。

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