マイセン(30) 王侯貴族の為のセルヴィス。 | 気ままな日常を綴っています。

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しかし、ケンドラーの、磁器による大きな動物像は、1733年アウグスト強王の逝去に伴い打ち切られる事になりました。

強王の没後に即位したアウグスト3世の賛同を得られなかったからです。

ケンドラーは、自らの実力を披露しうる大作に着手する事が出来ず、当面の中心課題にスワン・セルヴィスのような閣僚や貴族の為の食器セットの受注製作と定められました。

 

小型の磁器彫像(フィギュア)の製作には、こうしたネガティブな転機の直後、1736年頃に始められました。

ケンドラーは有り余る創造力を巧みに操り、尽きる事なく多様な彫像や食器の新しい原型を生み出し、貴族達の間に賞賛の輪を広めて行きました。

キルヒナーが製作所を立ち去った1733年以後、新しいモデラーが続々と採用され、ケンドラーの部下として指導を受けながらその補佐を務めるようになります。

 

モデラー達は、蓋付スープ鉢や燭台を含む大規模な食器のセルヴィス(=セット)や、デザート用のセルヴィス、朝食用のセルヴィスなど、浮彫や彫刻的技法からなる豊かな装飾を伴う立体的なフォルムのセルヴィスを次々と発表しました。

もちろん、ケンドラーの入所以前にも正餐用の食器のセルヴィスが制作されたという記録は、1726年から見られています。(黄色い狩猟文のセルヴィス)

 

(ケンドラー以前のマイセンのセルヴィス)

 

下の3枚の写真は、ヘロルトの絵付けに依るセルヴィスです。

赤いナンバーは、後日整理の為につけられたものですが、同じ番号が打ってあります。

双剣マークと金彩のサインが同じです。

全て八角に面取りしてある食器です。

ドレスデン国立美術館蔵。

 

 

 

 

ただし、規模が大きく彫刻的な造形のセルヴィスが数多く作られるようになるのは、明らかにケンドラーの入所以降の事でした。

即ち、前回に述べた通り、ケンドラーはろくろ引きではなく「型抜き」という方法を考案したからです。

この「型抜き」技法により、多くのピースの食器を正確に均一に作成する事が出来ますし、複雑なレリーフを伴う装飾パターンを有するセルヴィスを作成する事が出来たのです。

 

例えば、1735ー37年には、ズルコウスキー伯爵の為の大規模で有名なセルヴィス「ズルコウスキー・セルヴィス」。

1737ー43年には、ブリュール伯爵の為のセルヴィスで史上最も名高く豪華で点数も多い「スワン・セルヴィス」。

1739年アウグスト3世の妃であるマリア・ヨーゼファ王妃の為に、その後大人気の意匠となる「スノーボールの花のセルヴィス」(スノーボールはドイツ語で紫陽花に似た「がますみ」の花を指します)。

1745年には、アウグスト3世の娘マリア・アマリア王女とシチリアの国王カール4世の婚礼のプレゼントとして注文された「緑のヴァトー・セルヴィス」が完成しました。

 

(1739年頃 スワン・セルヴィスのコーヒーポット ドレスデン国立美術館蔵)

 

 

(1739ー1741頃 スワン・セルヴィス マイセン磁器工場附属博物館蔵)

 

(1739ー1741年頃 スワン・セルヴィス ハンブルグ美術工芸博物館)

 

(現代物 スワン・セルヴィスのプレート)

型抜きをする事によって、複雑なレリーフ文様と大きさの食器を数1,000単位で作成する事が可能となりました。

白鳥の表情に迫力がありますよね。。

 

(1900年頃 緑のヴァトー・セルヴィスのプレート)

 

(年代不詳:おそらく18世紀 スノーボール かなり高価な物のようです。個人蔵)

 

(18世紀後半ー19世紀前半 スノーボール)

コーヒーポットとミルクジャグにおいては、「カンボク=がますみの花」装飾の上に、ほとんど丸彫りに近いような薔薇状の花枝と鳥を張り巡らせています。ところどころ丸く瘤のように盛り上げて、器の表面はまるで彫刻的な小宇宙です。こうした自然の動植物を巧みに取り入れて、客人の目を楽しませ、時に驚かせる趣向の背景には、中世以来、ヨーロッパの饗宴でしばしば行われたもてなしの伝統があります。この過剰なまでの装飾が全て「手作業」で行われているのは、この時代ならではのものです。

 

(18世紀前半 スノーボール カップ&ソーサー ハンブルグ美術工芸博物館蔵)

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今日はここまでです。

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