マイセン(5) アウグスト強王、シャルロッテンブルク宮殿の高価な磁器を譲り受ける(染付の開発へ | 気ままな日常を綴っています。

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アウグスト強王は、以前プロイセンの宮殿シャルロッテンブルクを訪れた際、フリードリヒ1世が収集した高価な磁器の壺に目を留め深い羨望を覚えたのです。

しかし、フリードリヒ1世は1713年にこの世を去り、後継者のフリードリヒ・ウイルヘルム1世は清教徒的、軍国的主義指導者で、陶磁器を集めるよりも、もっぱら戦場で勝利を収める事に関心がある人物でした。

 

アウグスト強王は、これはチャンスとばかりに使者を送って、フリードリヒ・ウイルヘルムがザクセン軍の騎兵隊と所蔵品を交換する気が無いかどうかを打診したのです。

そして1717年4月19日、アウグスト軍に属する600人からなる連隊が取引の代価として引き渡され、シャルロッテンブルクの18個の大きな壺と小さ目の蓋付き壺が7個、広口コップ5個、色絵皿20枚、大碗37個、染付けの大皿16枚、同じく深皿24枚ーー総計127点が念入りに梱包され、ドレスデンに送られました。

 

 

しかし磁器を勝ち取って嬉々とした王は、同時にベトガーへの失望感を深めたのです。

なぜなら、騎兵隊の壺は、目も眩むばかりの見事な染付けで飾られていたからです。

そして、マイセンで作られる製品は、ベトガーの約束にもかかわらず、その技術の足元にも及ばなかったのです。

 

これに対しアウグストは、誰でもあれ、染付けの技術を発見した者に1,000ターレルの報酬を与えるとおふれを出しました。

工員達は、この莫大な賞金に惹かれ競争に加わり、その中のいサムエル・シュテルツェルとダーフィッド・ケーラーが居ました。

ケーラーは、有能な土の調合師でしたが、シュテルツェルに協力するのを拒んだ為、染付けの青絵具の研究は全体的に遅れてしまいます。

 

それでも1717年、ケーラーは青色の顔料で装飾した作品を焼き、色は焼成の間も安定していました。

しかし、これはまぐれ当たりだった様子で、ケーラーはその後2年間賞金を要求する事は無く、2年後にシュテルツェルが自分も発見に寄与したとして報酬の分け前を要求したのです。

 

不都合な誓約を思い出させられたアウグストは、金を出し渋り、二人が知識を分かち合って研究を進めれば「正当な報酬」を与えると約束しました。

寡黙なケーラーにとって共同作業は悪夢であり、結局二人とも約束の1,000ターレルは貰うことが出来ませんでした。

しかし、兎に角マイセンは、ようやく染付けの技術を解明する事に成功した様でした。。。

 

今日はここまでです♪

いつも読んで頂きまして誠に有難うございます♪

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(追記)

アウグスト大王は、シャルロッテンブルグ宮殿の陶磁器の方が、人間(騎兵隊)よりも大事だったとは驚きですね。