海を渡った古伊万里   ⑨ー(2)「個人貿易」と古伊万里の輸出の実態。 | 気ままな日常を綴っています。

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しかしVOCには、「公式貿易」のほか、「個人貿易」と呼ばれる非公式の貿易も存在していました。

こうした個人貿易は、VOCの会社の職員たちによって17世紀中頃から行われ、1667年からは公認すらされていました。

個人貿易は、オランダ人の間では、商館員の給料の不足を補い、また日本に来航する船の船長の経費を保証する目的の為に認められていました。

特に、1685年以降、日本との貿易に関わったオランダ人にとっては、厳しい貿易制限による所得の減少分を補い、生活を維持するだけでなく、過酷な海外赴任や航海に相応しい報酬を獲得する為、個人貿易はある意味で当然な自己防衛手段でした。

 

磁器は、こうした個人貿易品のメジャーな品目でした。

膨大な数の磁器が、個人ルートでオランダへ運ばれて行きました。

一説によると、1661年から1723年までに個人貿易で長崎から出荷された古伊万里の磁器は、アジア内貿易向け商品品を含めて全体で約360万個を上回ると推定されています。

これには、公式貿易で仕入れられなかった商品が個人貿易に当てられたケースと、もとから個人貿易用として注文された品があったものと考えられています。

 

さらに驚いた事に、日本側の史料には、1709年に88,070個の磁器をオランダに販売したと記されていなすが、(非公式とはいうものの)VOCの記録ではこの年の購入数量は9,820個、1710年も、1711年も、日本の記録はオランダ側の記録をはるかに上回っているのです。

この日本側とオランダ側の数量の差が、個人貿易の購入数量を意味していると考えられますが、これはとてつも無い数量であり、この期間における磁器の個人貿易は公式貿易の10倍近く、あるいはそれを上回っています。

途中の中継地で積み替えられ、イギリスなどオランダ以外の国へ運ばれた可能性も考えられます。

 

このように、公式貿易で日本からのオランダ向け磁器輸出が途絶える1684年以降も、個人貿易によってオランダへ磁器がもたらされたのは確実なのでした。

 

また、VOCの記録では、個人貿易の方が公式貿易よりも優れた質の美しい磁器を輸出しているとの報告があります。

また、日本の注文書には、個人貿易には(例えば、プロイセンのフリードリヒ1世のような)熱心な購入者が居た事が明らかにされています。

すなわち、フリードリヒ1世ほどの大物国王が、船が到着する頃、自ら船の着く場所へ赴き、磁器を購入していたという事です。

この一件は、東洋からの新着磁器を誰よりも早く見て品物を選びたいという、熱心な顧客の存在と、その手に東洋の磁器が直に渡る特別な販売ルートがあった事をはっきりと物語っているのです。

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(追記)

実際に解禁令解除後の中国磁器と当時の古伊万里を比較した場合、(個人的感想ですが)はるかに当時の古伊万里の造形・デザイン・装飾の方が優れているような印象を受けました。

これは、ハウステンボスのポルセレインミュージアムの展示品を見た率直な感想です。

当時のヨーロッパの王侯貴族たちは、「安い日用品としての磁器」が欲しかったのではなく、「高くても芸術性が優れた美しい磁器」を渇望していた事を思えば、このような個人貿易にて芸術品といいうる磁器がたくさんヨーロッパに渡ったことは頷けます。

 

それから、この個人貿易による輸出量から推定するに、当時日本で作られた有田焼(古伊万里)は少なくとも1日100個以上だったと思われます。(登り窯での焼成の成功率が低いことを思えば、もっと膨大な数の磁器が窯にいれられていたと推察できます。)

芸術的なフォルム、透かし、色絵などを施した凝った古伊万里がそのレベルで焼成されて居たとなると、当然その技術的水準も上がっていっただろう。。と思われます。

 

今日はここまでです。

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