海を渡った古伊万里  ⑦オランダ東インド会社 | 気ままな日常を綴っています。

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オランダ東インド会社(略号VOC)の仲介によって、1650ー1653年頃、有田のオランダ貿易が始まりました。

 

そもそもオランダ東インド会社は、16世紀末にスペインから独立したオランダで1602年に設立されました。

オランダ東インド会社は、急速にアジア市場に進出し、1619年にジャワ島のパヌヴィア(現在のジャカルタ)を東インド総督の拠点とし、東南アジアの香辛料貿易を押え、ポルトガル・イギリスの勢力を排除し、台湾、スリランカ、マラッカなども占領しました。

さらに1623年には、平戸に商館を開設していたイギリスを日本からも撤退させ、東アジア市場における貿易の優位を確立しました。

日本では、徳川家康の死後「鎖国」が始まり、ヨーロッパ諸国と日本の貿易は禁止されてしまいました。

しかし、オランダだけは貿易を引き続き許されていました。

それは「島原の乱」鎮圧の援助として、幕府に武器の提供を行った為です。

実際の貿易は、出島内に限定されていたものの、ヨーロッパ諸国で唯一、日本との貿易を独占するに至ったのでした。

 

伊万里港と出島の関係:伊万里は江戸時代には佐賀藩の領地で、佐賀藩による有田焼の積み出し港として重要な位置を占めていた。有田磁器は長崎出島を経由して欧州へ輸出され、本港の名から「古伊万里(オールド・イマリ)」とも称された。)

 

オランダ東インド会社は、当初から磁器を貿易商品として強い関心を持ち、中国磁器の貿易を盛んに行いました。

ところが1644年、中国の明・清王朝交替に伴う内乱で、中国磁器がほとんど輸出できなくなります。

 

1653年には、会社の代表が広東に赴いてこの地で取引が出来るよう清朝政府の許可を願い出ましたが、許可を得る事は出来ませんでした。

結局1657年をもって、明朝磁器のヨーロッパ輸出は終わったとされます。

 

しかし、オランダ東インド会社はかなりの中国磁器の在庫を所有していたようであり、1659年肥前有田磁器の本格的な輸出を手がけるまで中国磁器の在庫を取り崩していたであろうと推定されます。

また、日本への磁器注文にそうした中国磁器を見本として提供していたと考えられます。

 

オランダの記録によると、オランダ本国向けの磁器の注文が直接あった場合、オランダを1月に出発すると、ケープタウン経由でパタヴィアに6月頃、長崎に8月頃到着します。

磁器注文や見込み生産品の取引が行われ、分類、荷造り、積み込みが行われ、10月頃長崎を出港し、ケープタウン経由で翌年の9月頃オランダ本国に到着します。

即ち、1年9ヶ月位かかったようです。

注文生産の場合は。さらに1年くらいかかり2年9ヶ月位かかっていたようです。

オランダ本国に着いてから、さらに競売にかけられ、顧客からの注文品以外はヨーロッパ各地に運ばれました。

 

今日はここまでです。

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