さて、日本の磁器の焼成は、有田周辺の陶器窯の中で行われ、陶器・陶磁器両方の生産が活発となり国内市場に流通し始めます。
当時、有田焼は、伊万里港を積み出し港としていたため、伊万里焼とも呼ばれていました。
当時の伊万里焼と現代の伊万里市内で焼かれているものを区別する為に、かつてのものを「古伊万里」と呼びます。
磁器については、当時未だ品質的に優れた中国景徳鎮磁器が輸入されていた為、景徳鎮磁器の供給量の不足を補う形で肥前有田磁器は国内に流通し始めていたのでした。
ところが1644年、明朝から清朝への王朝交替の内乱で、中国磁器の輸出が激減します。
それに追い打ちをかけるように1661年清王朝は遷界令を公布し中国磁器の輸出を停止しました。
中国景徳鎮の磁器は、日本にもほとんど輸入されなくなってしまったのです。
このチャンスに有田は生産量増大の工夫をして、国内の磁器市場を一気に独占することになりました。
この中国事情は、日本が磁器の輸入国を脱する大きな転換点となったのです。
中国の内乱は、明の遺臣が南部に逃れながら清朝に抵抗を続けた為であり、南部の江西省景徳鎮窯や福建省漳州窯(しょうしゅうよう)などの世界的大産地が戦乱に巻き込まれ、ほとんど輸出が出来ない状態になりました。
当然、仕事を失う陶工も多く、陶工が海外に流出しやすい状況であったと推測されます。
そして景徳鎮などの陶工が肥前に来て技術をもたらしたと推測されます。
ここで肥前有田磁器は、中国の技術を導入し、朝鮮的技術から中国的技術へと著しい技術革新を果たしました。
この技術革新により、景徳鎮並みの薄手でシャープな器を作る事が出来るようになったと推定されます。
有田肥前磁器は、オランダ東インド会社による厳しい品質基準の注文を受けてさらにその技術を高め、景徳鎮磁器に勝るとも劣らない品質の磁器を作り出しました。
そして、1659年から本格的にヨーロッパに向けた伊万里港からの輸出が始まりました。
(1660−80年頃の古伊万里の染付雲龍荒磯文碗)
(1655ー70年頃の古伊万里の染付寿字鳳凰文皿)
(1660ー80年頃の古伊万里の染付牡丹文合子)
(1735年頃マイセン 上記の古伊万里の影響を伺う事ができる。)
(1660−80年頃の古伊万里の染付窓絵山水文鉢)
(1735年頃のマイセン 窓を開けて中に絵付けする方式は古伊万里の影響をうかがわせます。また、ハンドルがない碗は日本の古伊万里の影響。当初、マイセンではハンドルの無い碗の方が高価とされていた模様。)
(1660ー70年頃の古伊万里の青磁雲龍文合子 ヘラでレリーフ文様をつけているのか❓型抜き技法は有していないと言われている。)
今日はここまでです。
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