不登校支援の立場から・池田市のフリースクールパーソナルアカデミーのblog
  • 12Nov
    • フリースクールに携わっている動機 (最終回)

      さて複数回にわたって、私の経験を書いてきました。今回はそれを踏まえて、どうして私が今もフリースクールで、不登校の子どもたちと関わっているのか、まとめていきます。まず私は、学校に行けない、行かない時期があったとしても、それ自体は良いとも悪いとも考えていません。不登校は子どもたちの成長過程における、単なる状態のひとつに過ぎないし、それを経験する子もいれば、経験しない子もいるというだけです。そして安易に不登校という言葉で一括りにするのも、どうなのだろうと考えています。ひとりひとりの事情が異なるのですから。学校に登校していないという今の状態で、子どもたちは何ができるだろうか。大人たちはどんなサポートができるのか、どうすれば子どもたちの可能性を拡げてあげられるのか。そうした点を冷静に見ていないと、子どもに向かって「学校に行け‼」とどなってしまうかもしれません。繰り返しますが、私たちが不登校と呼ぶ子どもたちの状態は、どんな子ども、どんな家庭にも起こりえるし、正しいとか間違っているとか、そういったことではないと思います。だから、結局は学校に行かないことで何が出来なくなったか。学校以外の場所で何が出来て、それが将来にどう繋がっていくのか。まるで損得勘定のようですが、そういったことを冷静に考えることが本当は大切なのだと思います。でも実際に私が不登校の当事者だった時、そんなことを考えることはありませんでした。そして私の両親も、そんな冷静に事態を受け止めることはできていなかったと思います。そういった時に、フリースクールのような存在が、場と情報を提供できればとても素敵だと考えています。そうしたフリースクールという存在の中で、私にできることは限りがあります。「自立して生活できる人」「気持ちを表現できる人」「自分と他人を大切にできる人」そんな大人に子どもたちにはなってもらいたいと最初の頃に書きました。そして私は、高校、大学、それ以降の期間でそういったことをうまくできませんでした。私自身の経験なんて、そこまで役立つものではありません。しかし学校に行く、行かないに関わらず、どの子どもにとっても、進学することや就職することはゴールでなく、そこで楽しく充実した時間を過ごすことこそが大切なはずです。私はこれまで、それを痛感してきました。そして、「この子は、これから進んだ先で大丈夫かなあ」「私と同じような部分で、しんどい思いをしないかな?」おせっかいにも心配してしまうことは多々あるのです。そうした子どもたちが目の前にいて、今何か一声かけなければ、いつか後悔してしまいそう…。杞憂に終わればそれで構いませんし、私たちと関わることで、子どもたちがちょっとでも良い方向に変化することができれば、それはやっぱり嬉しいことです。出来ることと言ったら、子どもたちが今感じていること、考えていることを聞くこと。知っていることを「もしかしたらこうすればいいかも…」と自信なく差し出すこと。それくらいですけれど…。中学、高校に行けず苦労した末に、めでたく大学に進学することになったはずなのに、なぜか泣きそうな顔で帰っていく子がいます。私には、なぜその子がしんどいのか、はっきりとは分かりません…。それでもその子がしんどいというのは痛いほど分かるし、追いかけて何か声をかけてあげないといけないということはよく分かります。「しんどいよな。ぼくも同じくらいの年齢の時はしんどかった。進学した後もしんどかった。だから、これからもここに来てな。進学しても、絶対に相談に来るんやで。」もっと早くから、少しずつそういうことを伝えておけば良かったのに。でもその子が大学生になっても、時々相談に来てくれて、そして数年後に就職活動もしてしっかり社会人として働いていると教えてもらえると、本当に嬉しいです。昔の自分には出来なかったことを、その子は成し遂げたのだなあ、とホッとします。たまたま縁があってフリースクールで活動しているわけですが、子どもたちが成長している場面を見ていると、とても嬉しいです。きっと救われているのは私の方なのだろうな、と思います。

  • 28Oct
    • 不登校から進学したけど、大学生活で大失敗した話

      私は結局、一年間浪人した後に立命館大学の文学部に入学しました。不登校の経験がある人間としては、それなりに「頑張ったね」と周りから言われる学歴です。でも別にそこに入学したかったわけではありません。文学部で哲学を専攻していました。でもそこまで哲学に興味があったわけではありません。予備校の模擬試験では志望校を記入しますが、志望校一覧表の立命館大学の欄で一番上が哲学だったというだけです。とっても斜に構えた、なんだか思春期や反抗期が遅れてやってきたような、面倒くさい大学生になってしまいました。自分を大切にしない人間になっていました。そのくせとても傷つきやすいのです。大学生活では、親元を離れて一人暮らしを始めました。頑張ってみたのは少しの期間だけで、すぐに生活リズムが崩れて、学校の授業もしばしばサボるようになりました。例えば友人と遊びまわって自堕落になるのなら、まだ良かったのにと思います。私はただゲームをして映画やアニメを見ていました。楽しくないわけではないのですが、それ以上に惰性で時間を浪費することの方が多かったと思います。楽しい時間や、充実した成果を産み出さず、ただ何かを消費し続ける生活でした。私は大学ではサークルや部活にも参加しませんでしたし、学外でも誰とも人間関係を築けませんでした。ますます大学に登校する意義を失い、単位もたくさん落としました。結局、四年間で友人もできず、学業でも失敗し、就職活動もしないまま、ただ卒業しただけの大学生活でした。大学にせよ専門学校にせよ社会人にせよ、主体的に自ら行動することこそが大事であったはずです。しかし私はそれが全くできないのに、そこへ飛び込んでしまいました。人間関係を拡げていくという作業に、とてつもないエネルギーが必要なので、身が竦んでしまう一方で、私には独りでいることへ強い耐性が出来上がっていました。だから必ずしも一人暮らしをすることも、大学のキャンパスで独りぼっちでいることも、不可能ではなかったのです。結局、自分から一歩を踏み込むことができず、大抵の場合は消極的な選択をして、誰かが何かをしてくるのを独りで待ち続けるというスタイルになってしまったのです。もともと人見知りで、他人の顔色を伺うような傾向はあったと思います。しかし不登校によって自分の進路が社会や世間の中心から一度それてしまったこと。「もしかしたら」の話にすぎませんが、そのせいで「自分から他者に積極的に関わることの大切さ」を学び訓練する時期を失ったのかもしれません。大学進学は確かに若者が通過する進路においてど真ん中の道だと世間では考えていると思います。しかし私はそのメインストリートにあっても内に引きこもっていたのだと思います。     中学生時代、学校に行かず「世間の外で孤独でいる」不登校の状態から、大学に行って「世間の中で孤独でいる」状態となっただけで、結局のところあまり大差はなかったのです。もちろん不登校の生徒のみんながそうなるわけではありません。しかし頑張って大学に進学、あるいは就職した後になって、大きな困難に直面する人は少なくないと思います。私の場合は、人とのコミュニケーションを面倒くさがって、社会に関わることに冷めた意識を持っていました。そして何事にも投げやりな態度を取り、自分自身を大切にしない生き方をしてしまいました。その結果、『進学しただけ』になってしまい、苦労して手に入れた学歴と払った学費が無駄となったような、大きな罪悪感を今も抱えています。不登校になったことはそこまで悔やんでいません。でも大学時代以降の自分の生き方は、今でも後悔しています。次回まとめに続きます。

  • 22Oct
    • 不登校からの大学受験浪人生活 

      しばらく投稿の期間が空いてしまいました…。私がフリースクールに携わっている理由の核心部分に入っていければと思います。前回までは、定時制高校を卒業後、両親に頼み込んで一年間大学受験浪人をさせてもらうところまでを書きました。結論から言えば、大手予備校で1年間勉強して成績は伸びました。そして周囲が当初考えていたよりも高いランクの大学に合格することができました。しかし今の私にはその時期の過ごし方が、その後の大学での『失敗』に繋がっているように思えてなりません。当時の一般的な浪人生と同じく、予備校の校舎に通い、朝から夕方まで勉強していましたが、そこでは他人とのコミュニケーションが全くありませんでした。朝に校舎へと行き、映像授業を夕方まで見て、自習をして帰宅するその間に、へたをすれば誰とも話さないような生活になっていました。変な表現になるかもしれませんが、それは「勉強している引きこもり」のようなものに近いのではないでしょうか。そうした生活では、つらいことも楽しいことも誰かと共有することはなく、気持ちは内へ内へと向かって行きます。自分の将来に思いを巡らせても一向に結論が出ないままで、思考はいつも同じところを堂々巡り。受験生というのは、自分の空間に籠って黙々と勉強していれば、誰からも文句は言われない立場です。ですから、ひょっとすると世間一般の受験浪人生たちも、多かれ少なかれ私と同じように孤独なものかもしれません。そして大学に進学することだけを目標にするのなら、それで何も問題はないのでしょう。 受験勉強自体は本来独りで淡々とこなすものですが、それでも人との関りがなくなると、寂しくて、つらくて、不安になる人もいるのかもしれませんね。しかし世間一般の浪人生と異なり、不登校を経験していた私にとってはそうとも言えませんでした。孤独な状況の中で生活していても、居心地は必ずしも悪くはなく、すでに慣れ親しんだ状態なのかもしれません。私は結局、一年間予備校に通いながらも、そこで一人の友人もできませんでした。スタッフの方や先生方とも業務上のやり取り以外はほとんど会話がありませんでした。それでも勉強にまったく支障はなく、寂しさを感じることはあっても耐えられないほどではありませんでした。むしろ勉強に頭を割かねばならない時期だから、新しく人間関係を築く勇気を捻り出して、そこに気遣いをかけることはハードルが高い。そうしたわずらわしい作業をするくらいなら独りでも構わないな。そう考えてしまうのです。結局そこに落とし穴があったように思いました。淡々と独りで勉強して、大学に入学したものの大学生活でも主体的に動くことが出来ず、与えられるもののみを独りで消化してしまうことになるのです。大学以降の話は次回にするとして、もう一つ浪人時代に悔いが残ることがあります。大学選びをとてもいい加減に決めてしまったことです。正直なところ、「偏差値の高い大学」「有名な大学」という基準しか持っていませんでした。学部も専攻も「どうでもいい」という態度でした。大学進学という希望は持ってはいたものの、それは「行かなきゃカッコ悪いよな」くらいの意識です。そうした見栄っ張りな側面が強い一方で、大学で何か学びたいことがあるわけでもないし、将来への青写真があるわけでもありません。また、大学ってこういった場所だよな、といったイメージがないので、楽しそうな大学生活も思い浮かびません。バイトとかサークルとか、友だちと遊んだり恋愛したりといったことを何も望んでいないのです。大学には何も期待していないのです。大学生になること自体が目的になっています。だから大学に期待することは、ある程度自尊心を満足させることが出来て、世間に対してもそれなりに押し出しが効くであろうネームバリューがあることだけでした。本当に情けない話で、とても後悔しています。そしてそんな動機で進路を選択した人間が、大学入学後にどうなったかを次回以降に書きたいと思います。

  • 13Sep
    • 不登校から大学受験を決めた時(両親と相談した時の思い出)フリースクールに携わっている動機11

      ところで私の通っていた定時制高校では、通信制高校の授業にも参加できました。また大検(今の高卒認定試験)の受検もできました。その通信制と大検の結果を、定時制の単位として認定することができるようになっていたのです。 ですから4年で卒業のところを、3年で卒業していく生徒も結構いました。 私も3年間で卒業できたのですが、三年生終了時点で高校卒業後の進路が何も決まっていませんでした。たぶん大学に行くのだろうなあ、とずっと思いつつ、どこのどんな大学に行きたいのかは考えていませんでした。大学受験の勉強も三年間でほとんどしていません。 進路については目を背けてきた高校生活でしたが、3年生が終了しようという時点で、ついに家族で話し合う機会が設けられることになりました。 実は3年生卒業の時点で、周辺のいくつかの私立大学を受験して、合格してはいたのです。しかし私はその時に合格した大学には行きたくありませんでした。別にそこに入学したくて受験したわけではなく、とりあえず受けてみなさいと言われたから受験しただけだったのです。 それも踏まえての家族会議でした。 高校3年間でほとんど勉強せず、のんびりしてきた私が一体何を考えているのか、両親としても計りかねているようでした。とはいえ、これから私がさらに一年、受験勉強を頑張るとも思えなかったのでしょう。両親としては、今回合格した大学に、このまま進学してもよいのではないかという意見でした。 しかしそれ以上に両親としては、この際に私の本音が聞きたかったのではないでしょうか。「あなたがどのようなことを考えていて、今後どうしたいのか、いい加減正直に打ち明けて欲しい」そんな姿勢を両親から感じました。むしろもっと早い段階で、進路のことを話し合っておくべきところを、両親も遠慮していたのか一歩踏み出せず、私がそれに甘えて先延ばしになっていたのです。 そのことに私はひどく動揺して、追い詰められた気持ちになりました。 実は今でもそういった傾向があるのですが…。私は、重大なことを決めなければいけない時、例えば自分の進路とかそういった場面で、「あーはいはい、もうどうでもいいよ」と自棄になってしまいそうになることがあります。そして大事な局面であればあるほど、意地を張ったり、そっぽを向いたり、ひねくれた態度をとってしまいます。あるいは陽気な態度をとって茶化してみたり。 いずれにせよ、真剣に向き合わず、適当にその場から逃げようとしてしまうのは、本当に悪い癖です。 しかしこの時は、さすがに逃げることはできそうにありませんでした。私が大学受験に対してどのように考えていて、何を望んでいるのかを、両親に誠実に話すべき場面でした。 私が話し始めるまで、少し時間がかかりました。いつもは隠していた本音を、うまく言葉にできなかったのかもしれません。自分自身でも、そこまで根深いものだとは思ってもいませんでした。 顔をゴシゴシこすったり、首の後ろをマッサージしたり、挙動不審な行動を一通り終えた後、ようやくポツリと両親に質問しました。「中学2年生の夏に、僕が学校に行けなくなったときに、二人はどう思ったのか?」その場のテーマから外れているように思える質問でした。 両親は少し面食らったようですが、「当時はどうしてあげたら良いのか分からず、とても心配した」としっかり答えてくれました。 そうしてようやく、私は隠していた本音を両親に話すことになります。 「自分は不登校になるまで小学校からずっと優等生をやってきた」「勉強やスポーツで周りから優れているのが当たり前で、それを期待されていると感じていた」「だから学校に行かなくなって、途端に自分から価値がなくなったように感じた」「お父さんお母さんは失望して、僕のことを見捨てるんじゃないかと思った」 話し始めた途端に、ボロボロ泣き出して、堰を切ったように気持ちがあふれ出してきて、自分でもどうしようもなくなってしましました。小さな頃から、私は怒ったり泣いたりといったネガティブな感情を、あまり表に出さないタイプでしたので、私自身も両親もこの展開にはとても驚いてしまいました。 結局のところ、中学2年生の夏から高校3年生の終わりまで、不登校になって4年以上の時間が経っていても、私の中では感情の整理が出来ていなかったのです。相変わらず両親への負い目を感じ、自分への自信を喪失したまま、周りの様子を伺っていたのです。 投げ遣りで、将来のことを考えないのも、自分の本音を打ち明けられないことの反動だったのでしょう。私が何事にもいい加減な態度をとるために、周りはそうした私に呆れて、お互い真剣に向き合う機会が先延ばしになっていきました。 私は結局、不登校になって以降の自分の本音を誰かに打ち明けることが怖かったのです。そして、両親をはじめとした他人からの、正直な気持ちを聞くことが怖かったのです。 「大学への進学をどうするの?」という質問から思いがけず自分の殻が一つ破れたわけです。 私は続けて、両親にお願いすることになりました。「一年間、大学受験浪人させてもらいたい。」 理由は簡単で、少しでも有名な大学へ進学したかったのです。興味のない振りをしていたけど、実は人一倍、ランクや学歴にこだわりがあったこと。自分はやれば出来る、と何の根拠もなく密かに思い込んでいて、それが気持ちの拠り所の一つでもあったこと。でも、今こうして何も結果がないままだと、本当に自分がどうしようもない人間になってしまいそうだ。一年後の結果がどうであれ、それで諦めがつくと思います。勉強に真剣に向き合うチャンスをください。 大体そんなことを両親には話しました。不細工で身勝手で、お金もかかるお願いでしたが、両親は了解してくれました。こうして私は、大学受験予備校に通いながら、浪人生活を送ることになりました。

  • 02Sep
    • 定時制高校の思い出③ 部活と友達関係のこと

      折角ですから、定時制高校時代の人との関りについて、いくつか書きますね。その後にも関係する内容なので。当時、私は部活にも入っていました。夜間が開校時間の定時制にも部活はあって、ちゃんと大会もあります。私の学校には、当時バスケと陸上部がありました。(他にもあったけど、活動しているのはその二つだけだったのかな)私は陸上部に入っていました。なぜ陸上部を選んだのかはよくわかりません。足は速い方だったけど、陸上競技が好きだったわけでもないし、走ること自体が楽しかったわけではないのですが…。強いてあげるなら中学生の時、サッカー部が居心地悪くて、「やっぱりチーム競技は自分に合ってないなあ」と考えていたのかもしれません。ところが、陸上部は二人だけ。もう一人の同級生もそこまで乗り気ではなく、活動内容もグラウンドでランニングするくらいしかすることがなくて、退屈なものでした。そこで、体育館のバスケ部の活動に混ぜてもらうことがよくありました。正直バスケの方が面白かったですね。ゲームする時に人数が足りなくて、バスケ部の子が誘ってくれることもあったんです。もうバスケ部に変わっちゃえばいいのに、どうしてかそういうことはしませんでした。そして例えば「ゲームの時だけでも混ぜて」とか「人数足りなかったら呼んでな~」といったアプローチも出来ませんでした。そのくせ、いつも誘ってもらえることを、ソワソワしながら待っていました。その頃から、人との関係は常に受け身でした。もちろん友人との間でも同じです。定時制高校では(年上だけど)同級生の友人も出来て、遊びに誘ってくれたりしました。しばらく友達と遊びに行ったりすることに縁がなかったので、とても楽しかったし嬉しかったです。しかしそういった友達との遊びについても常に誘ってくれるのを待っている形になります。こっちから誘ったり、これしよう、あれしようと提案することはありませんでした。私は、寡黙でもなければ、奥ゆかしいタイプでもありません。実際にバスケをみんなとしたり、友だちと外出したりすると、他の人よりもはしゃいでしまい、うるさいくらいでした。本来はみんなと楽しんで騒ぐのが好きなのだと思います。しかし、自分から誘うのは出来ないのですね。提案したり、自分の気持ち、自分のしたいこと、相手にしてもらいたいことを表現することが、とてもしんどいのです。しかし誰かと一緒に遊びたい気持ちもとても強いわけです。すごく矛盾があるというか、気持ちが反対方向に引っ張られているというか…。私は幼いころから、引っ込み思案で、しかもカッコつけでした。ですから、失敗したり恥をかくことを極端に苦手にする子供でした。とは言え、そういったことは小学校で少し改善したはずです。小学校の5・6年生の頃は、結構友達を誘って自転車であっちこっちに行くような、小生意気な男の子でしたから。それが中学校で色々上手くいかないことがあって、しかも不登校になって、もしかしたら大きく後退したところはあったと思います。失敗すること、恥をかくことがますます怖くなり、引込み思案で体面を気にするところもそれに引っ張られて強くなりました。本当に欲しい結果のためには、不細工でも覚悟の上で飛び込んでみる。泥臭く粘ってみる。周りの人を頼ったり、信頼して委ねる。ダメだったらそれはその時。そういうことが出来なかったのです。恥ずかしい思いをすることや、相手に拒絶されることが、怖くてしょうがないのでしょう。受動的で、自分から関係を押し広げていくことはありません。そしてそれが、クセになってしまったのだと思います。高校生時代は、好きな女の子もいたのですが、結局卒業まで自分の気持ちを伝えられず、当然そのまんま何もなし。私の人間関係は、(相手方が動いてくれない限り)そうした「何も始まらない」状態でズルズル時間が経過していくものになってしまいました。こういった、人への受動的な関わり方のせいで、大学に進学してから高校時代以上にみじめな思いをするのですが、それはまた今度書きましょう。次は大学をどうやって選んで、どうやって進学したかを書いてみます。

  • 30Aug
    • 定時制高校の思い出➁ 「勉強はしなかった」

      さて定時制高校へ進学してから、楽しんで通っていた私ですが、勉強の方はどんな感じだったのでしょうか。定時制高校では、勉強はそこまで難しいことはしません。どうしても進むペースはゆっくりで、どの科目も簡単なことしかしませんでした。色んな事情を持った人が集まる都合上、仕方のないことです。そのため、大学に進学したい生徒には、学校の先生がわざわざ時間を確保して、授業時間外で指導してくれていました。本当にありがたい話です。私もその中に混じって、英語などをよく見てもらっていたのですが、私の参加する態度はどこか不真面目でした。本気で取り組まないだけではなく、時にはわざと間違えたり、周りを茶化したり。随分と幼い態度でした(恥ずかしい…)。そんな態度をとる理由は明らかで、勉強の出来ない自分、カッコ悪い自分を正面から受け止めるのがイヤだったのでしょう。不登校になり、中学校の半ば勉強をせずに過ごし、定時制に入ってからも自習をするでもなく…。「単純に学力の面で言えば、落ちこぼれじゃないか…。」勉強に向かう時、私の自尊心はボロボロだったのでしょうね。そういった「格好悪い自分」とどのように付き合うのか、選択肢はそれほど多くありません。「出来ない自分」を直視した上で、泥にまみれながらでも前進していく人がいるはずです。一方で、「まあ、自分はこんなもんだ。」とほどほどで妥協する、あるいはすっぱり諦める人もいるでしょう。さて当時の私ですが…。とても宙ぶらりんで、なんとも言いづらい状態でした。自分を必要以上に卑下して見せる一方で、内心では「自分はこんなものじゃない」と鬱屈しているんです。「まだ本気を出していないだけだから…、やればできるんだから…」じゃあやれよ、という話です。そのくせ外面では道化を演じているんです。必要以上に出来ないアピールをしたり、無気力な振りをしたり。興味や野心のない振りをしている。もう本当にしょうもない‼(恥ずかしい‼)自分はダメな奴だと吹聴しながら、心の中では「まだ本気出してないだけだし…」としっかり予防線を張っている。失敗してしまうことが何よりイヤだし、実際に手を付けて、出来ない自分を見るのも怖くて仕方ない。本当になりたい理想像を隠したまま、ずっと燻っているわけです。そのくせ、こっそり隠れて頑張ることも決してないわけです。結果として、成果は得られないし、いつまでも燻ったままです。謙遜した振りをして、実はもっと褒めろとねだっているんです。自己評価をわざと低くアピールしてるくせに、実際その通りに扱われるとへこむんです。いやぁ…、厳しい。でも15歳くらいから18歳くらいまでの私の「勉強」に対する姿勢の正直な姿だと思います。そんな学生が、さて高校卒業と大学受験の段階になってどうなるのか、次回(次々回かも)書くと思います…。

  • 20Aug
    • 夏休み明け、学校へ行きたくない皆さんへ。

      こんにちは。私たちは、大阪の池田市でパーソナルアカデミーというフリースクールをしています。フリースクールは学校に行けない、行きたくない子どもたち、若者が勉強したり、お話をする場所です。 大阪と兵庫でも、もうすぐ、来週くらいから夏休みが終わり、それぞれ学校が再開します。これを読んでいる皆さんの中には、学校に通うことを考えるとつらい気持ちになる人はいませんか? 眠れない、お腹が痛い。教室に入るのが怖い、学校までの道がとてもつらい。会うのが怖い人がいる。これ以上はもう耐えられない。もういっそ死んでしまいたい。 もしあなたが、こういったつらい思いをしているのなら、無理をして登校しないでください。 もしかしたら『学校に行かないことは、悪いことだ』と思っているかもしれません。でも学校というのは、登校するのがしんどくて、つらくて、怖くてたまらない時には、行かなくてもいい場所です。 お父さんやお母さん、学校の先生は、学校に行きなさい、と言うかもしれません。でもあなたのしんどい気持ちを、本当に分かっているのは、あなただけです。 あなたの心や体、命は絶対に守らなければいけません。これ以上は耐えられないと感じたら、勇気を出して「学校を休む」と決断してください。 これからのことは、また後で落ち着いてから考えれば良いのです。 そして、もし学校以外に行く場所がなければ、パーソナルアカデミーに来てください。 8月の残りと9月の最初の頃は、平日は毎日9時半から教室は開いています。予約とかいりません。通学路の途中で、行きたくないなあ、と感じたらフラッと来てくれて大丈夫なんです。 あなたが勇気を出して私たちに会いに来てくれたなら、これほどうれしいことはありません。私たちは、あなたにお会いできることを心待ちにしています。https://personal-academy.jp/access/tel 072-753-7203

  • 18Aug
    • 定時制高校の思い出 ① (フリースクールに携わっている動機8)

      私は中学校を不登校のまま卒業して、愛媛県の公立の定時制高校に入学しました。ちょうど2000年くらいのことです。 定時制高校に進学することになったものの、私自身は定時制高校のことはそれまでほとんど知りませんでした。山田洋二監督の『学校』という映画を鑑賞したことがあって、定時制中学校が舞台でした。定時制高校だから、あの映画の高校バージョンのような学校生活なのだろうか、と何となく考えていたくらいです。 定時制高校では、主に夕方以降の夜間に授業があります。一日当たりの授業時間は全日制普通科の高校に較べてかなり少ないです。ですから三年間ではなく、四年間で卒業となる場合も多いです。 元々は、様々な事情から昼間は働いている人が、仕事が終わってから夜間に学ぶための学校として認知されていたようです。他にも、若いころは高校に通う余裕のなかった人が、大人になってから通うことも多かったそうです。 今でこそ定時制や多部制の高校は、中学校に行けなかった人の選択肢になっていますが、もしかしたら昔は、不登校の中学生の進学先としては、あまり重視されていなかったのかもしれません。私が入学した時は、そうした意味では定時制高校の過渡期のような感じだったのかもしれませんね。 定時制高校に入学した私の同級生や先輩には色んな人がいました。メンバーの構成割合としては…、うーん…。 ・なんか理由あって不登校だったのかな、という大人しい人。・ちょいとヤンチャしていたのかな、という元気な人。・家庭や仕事を持っている大人の人。 で三等分といった感じだったのかな? 私服でしたし、髪色もバラバラ、バイクで通学したり、トイレでタバコ吸ってる人もいて(途中から喫煙は禁止になったけど)、なかなか面白いとこに来ちゃったな、というのが第一印象。ひとクラスの人数も20人くらいだし、色々と緩くて適当な感じでした。 それまでの私にとって、全日制高校に行けなかった人たちは、自分も含めて「落ちこぼれ」なのではないのか、という気持ちがどこかにありました。しかし実際に定時制高校で色んな人に接していると、そういった考えはなくなりました。 みんな頑張って仕事や生活をしているし、学校でも時に楽しそうに遊んだり、困っている同級生にちゃんと気配りをしたり。これならこれでいいじゃないか、と思えたのです。 何より多くの人が私にはない魅力を、それぞれ持っているように感じました。「生活する」「人と関わる」「きちんと収入を得る」「主張する」「みんなで楽しむ」きっと全日制高校に通っていても、定時制高校の同級生のように、社会で生きていく底力は身につかなかっただろうと思えました。すごいなあ、と感じたのです。 ある時、ヤンチャ系の男子(昔で言うヤンキーっぽい)が気の弱そうな男子の胸倉を掴んで怒鳴り上げ、一触即発、という場面がありました。突然で、原因も分からなかったので、私は咄嗟に何もすることができず「なんや?」と呟くことしかできません。そんな時、普段はのんびりしていて目立たないクラスメイトが、「おい、やめな」と言って、スッとヤンチャ系男子の身体を抱えて、気弱な男子から引きはがしました。興奮している相手に有無を言わさない態度や、咄嗟のタイミングや呼吸がすごく印象的で、同時に同じことができない自分がひどく情けなく感じました。 勉強ができるとか、運動ができるとか、そういったこと以外で、「いいな」と感じる部分を持っている人が、たくさんいたのです。 今でも連絡を取り合ってくれる友人たちも出来ました。年齢の違う、いろんな人と会話が出来て、友人も出来て、今でも定時制高校に入って本当に良かったと思っています。 そんな自分でも「良い学校だな」と感じる定時制高校でしたが、しかしそこに通いながらも、私には相変わらず大きな弱点がありました。それが高校卒業、大学進学に伴って顕在化してくることになります。

  • 29Jul
    • フリースクールに断固通わなかった話(フリースクールに携わっている動機⑦)

      今回は、私が定時制高校に進学した時のことを書こうかなあ、と考えていたのですが、その前にひとつ書き忘れていたことが。「不登校だった中学生時代に、私がフリースクールなどに行っていたのか」という話をしていませんでした。私は不登校になってから、定時制高校に進学するまでフリースクールには通っていません。また保健室登校や別室登校もしていませんでした。「フリースクールというものがあるから、行ってみない?」実は当時、母からそう提案されたことがありましたが、強く拒否した経験があります。当時の私には、そういった学校以外の場所に行くことは考えられなかったし、学校でも保健室や別室に通うことはあり得ない選択肢でした。このことに対しては、とても頑固で、感情的でした。一体どうしてそこまで嫌がったのでしょう。まず、どうも当時の私は、「自分は不登校ではない」と思っていた節があります。いやいや、どこからどう見ても不登校でしょ、とツッコミを受けそうですが。中学生の私は、学校に行けなくなった動機というか、原因やきっかけに強いこだわりがあったのだと思います。そして、そういったことにこだわる背景には、決して表には出しませんでしたが、『不登校』という状態、『不登校の生徒』という人たちに、ステレオタイプの偏見を抱いていたことがあると思います。ちょっとしんどいですが、当時の私の持っていた偏見と向き合っていきましょう。私の友人には、不登校の子ども、学校に行かない、行けない子どもがいませんでした。そのこともあってか、不登校は「いじめ」や「家庭の事情」、「学力・体力の遅れ」など自分には縁のなさそうなことが原因で起こるものだと漠然と考えていたのだと思います。そして、学校に来れない不登校の人は、「可哀そうな人」、「ダメな人」、「変な人」、そして何より「落ちこぼれ」といつの間にか思い込んでいたのでしょう。そして私は、自分がその仲間入りはしたくないと強く思っていました。私が学校に行けなくなった直接のきっかけが「パニック障害」だったことは、以前から書いていますが、このことが当時の私には都合がよかった面もありました。中学生の私は、学校に通っていない自分の状態を、以下のように位置付けていました。『自分は「パニック障害」という病気が理由で、一時的に学校を休んでいるのであり、他の不登校の子どもたちとは違うのだ』……。なんとも言えないですね。滑稽であり、そして哀しいです。そもそもなぜ、私は中学二年生の時、パニック障害になったのでしょうか。それは、当時の学校生活のしんどさが、自分のキャパシティを越えてしまったからに他なりません。(中学校の何がしんどかったのかは、またいつか書くかもしれません。)中学二年生から三年生にかけての私の状態は「不登校」そのものであり、そしてその時の私は、どこにでもいる典型的な「不登校の生徒」の姿です。しかし私は、「オレは他の不登校の人たちとは違うんだ、だからフリースクールなんかに行って、そういう人たちと一緒に過ごすなんて受け入れられない。」そんな風に思っていました。どこまで本気でそう思っていたのか。あるいは半ば虚勢を張っていただけなのかもしれません。自分の経験からは想像もできない、フリースクールという場所へ、思い切って飛び込むことが怖かったのも事実ですから。また私は、もし学校に行くのなら「1限目から終業まで、登校する。」「ちゃんと教室でみんなと同じ授業を受けるんだ」と身構えていました。ですから保健室や別室に登校したり、放課後課題を取りに行ったりもしませんでした。遅刻して登校してみたことは何度かあったのですが、続きませんでした。そして、そのようにきちんと(完璧なかたちで?)登校できないなら、家にいたほうがましだ、と意固地になっていたようです。弱みを見せず、少しでもいいカッコをしたい、自分は特別だと思いたい。その一方で好奇の目で見られたり、他の人と違う扱いを受けることは怖い。どう見てもズレているのですが、こういった理由からフリースクールといったものには断固通いたくなかった、中学生時代の私です。紆余曲折あって、フリースクールで子どもたちを迎える大人の側になった私ですが、そういった自身の経験があるからでしょうか。フリースクールに来てくれる、子どもたち。保健室登校してきた子どもたち。ひとり一人に「やるじゃん」と言いたくなります。少なくとも、昔の私には出来なかったことですから。

  • 26Jul
    • 不登校から高校進学した時の話(フリースクールに携わっている動機⑥)

      中学三年生になって、私は相変わらず登校はしていませんでした。不登校になって半年が過ぎた頃ですし、学校に行かず自宅にいる生活にも慣れて、その点ではしんどさを感じなくなりました。パニック障害の発作もほとんどなく、強い不安感を感じることも少なくなります。外出も少しずつできるようになりました。近所のレンタルビデオ屋で(当時はネット配信とかなかったので)洋邦新旧を問わず映画を色々借りてきたり、アニメを色々観始めたり、新しい楽しみもできました。1999年(多分)の愛媛県松山市でのことです。さて中学三年生になると、高校への進学を検討しなければいけません。今、フリースクールで子どもたち(と保護者たち)と話していても、高校受験について、志望校の決め方や合否の判定方法など「ほとんど何も知らなかった…。」という場合はしばしばあります。当時の私もまさしくそうでした。その頃住んでいた愛媛県の公立高校の受験に関して、何も知識はありません。そもそも、「え、住んでる県によって、何か違うの?」「公立と私立ってどう違うの?」というレベルの話です。小学校から中学校へ進級する時もそうですし、中学生から高校生に進学する時も同じです。進学先なんて、自分で選ぶものではないと感じていました。大人たちが、さらに言えば学校の先生が、「来年からここに通うんだよ」とそのうちに言ってくるもんだと、どこかで甘く考えていたのではないでしょうか。実際、もし私が中学生で不登校にならず学校に行けていたとしても、そこまで高校受験に対する姿勢は変わらなかったのではないかと思います。恐らく学校の先生の指導に従って、あの高校は無理、あの高校なら受かるかも、と親を交えて相談しながら、なんとなく決まったはずです。もしかしたら、なぜその高校に進学することになったのか良く分からないまま、高校に通い始めたのではないでしょうか。中学3年生の、いつ頃だったか分かりませんが、私は母親から「全日制の高校へ進学するのは難しくなった。」伝えられます。内申書(調査書)というのがあって、中学校での成績が高校受験の際に大事になってくる。あなたは2年生の秋から全く出席していないし、受験できないみたいだよ、と教えてくれたのです。(受験できない、ではなく受験しても到底合格できない、というのが正しいと思いますが)高校受験をほとんど意識していなかった当時の私でしたが、それでも少しショックでした。学校に行っていなかったので、高校受験のことを忘れていた(意図的に見ないようにしていたのかな?)こともあって、突然選択肢が無くなったような気持ちでした。「学校に行かなくなってから、勉強をサボってるし、きっとたいした高校には行けないだろうな。たぶん学力低めの高校に通うんだろうなあ。」それくらいの認識だったと思います。ですから、「イヤ、そもそも普通(全日制)の高校にはもう行けないんだよ」と言われると、少しびっくりしたわけです。中学校に登校していないことが、高校受験でそこまで不利になるなんて、今まで誰も言わなかったじゃん、という気持ちも少しだけありました。(内申がなくても、当日のテストで何とかなるんじゃろ? と考えていたのかな)しかし一方で「あ、そう」という気持ちもありました。実は不登校が半年、一年と経過していく内に、投げ遣りな態度で色んなことを見るような癖が身についていたのです。ですから、「あ、そう。それじゃ仕方ないわ。もうなるようにしかならんね。」となりました。この気持ちの後ろには「どうせ自分は、もう駄目なんだ。落ちこぼれなんだ。」という気持ちが隠れているわけですが…、それが表面に出てきて悩むことになるのは、この時から3年後くらいの話です。日常の些細なことから、大事な決断の場面まで。『投げ遣り』という姿勢は、この後も長く自分の悪い癖になっていくことになります。さて話は戻って、とにかく私は全日制の(全日制という言葉自体知りませんでした)高校以外の高校から進学先を探すことになりました。母から、愛媛県には公立高校で定時制と通信制があること、そこなら私でも進学できることを教えてもらいました。次回は、私が定時制高校に進学するまでを書きたいと思います。

  • 19Jul
    • 私が不登校になった時の私の家族・後半(フリースクールに携わっている動機⑤)

      私が不登校になった時の、私の母の反応を前回書きました。今回は父と姉のことを思い出して書いてみたいと思います。父は私が不登校になっても、平日は仕事に行くわけですから、母に比べると私に関わる時間は少ないものでした。それでも夕飯は皆で一緒に食べていましたし、学校に行かない私に対して怒ったりもせず、それまで通りに接していました。父は少し気分屋なところがあり、不機嫌になると近づきづらいところがあります。また自分のこだわりや好悪をはっきりと表に出す人で、私の性格とは正反対かもしれません。予定を立てて動きたい。無駄を嫌う。こういったことも父の特徴であり、私が持ち合わせていない部分です。家族のため、何かをしてあげたいという気持ちは人一倍強い人なのですが、ちょっと空回りすることが多いかな、とも思います。私が学校に行けなくなり、父は当然心配してくれました。とりわけパニック障害の影響で外出できなくなったことを、どうにかしてやりたいと感じていたように思います。私の父は、スポーツをするのが好きですし、休日に車を運転して家族で出かけるのも好きな人です。ですから外出できない私の様子は、とても不健康(不自然、かな?)なものに映ったのではないでしょうか。我が家では、父しか車の運転が出来ません。そのこともあって、「父さんと一緒に○○まで行ってみないかい?」と良く誘ってくれました。(もちろんある程度、私のパニック障害の不安感が弱まってからです。)「マンガ喫茶にでも行ってみないか?」「ちょっと遠くの大きなレンタルビデオ屋、本屋に行ってみないか?」「埠頭にテニスの壁打ちしに行かないか?」このような感じで、なんとか私の外出するキッカケを作ろうとしてくれました。外出することが怖い、外で発作が起こることが怖いという、パニック障害の症状を、最初はうまく呑み込めていなかったかもしれません。「家族と一緒でもダメなものなのかい?」「父さんの運転だから、いつでも停めて休憩できるのに、何が怖いの?」理屈でうまく説明できない私の恐怖心や不安感に、不思議そうな顔をすることもありました。正直、色々誘ってくれる時に、「鬱陶しいな」、「なんかちょっとズレてるんだよな」、と思う時もありました。それでも父は、自分が理解できない私の行動や気持ちを目の当たりにしても、首を傾げたり、素直に「えー?」と驚いたりするくらいで、決して怒ったりはしませんでした。親の意見をガンガン押しつける、子どもを馬鹿にする、そういった態度をとられたこともなかったと思います。学校に行けていない時は、それだけで十分だったし、父の性格やもともとの価値観などを考えると、とてもよく見守ってくれたのだと思います。さて私には姉がいます。年齢も近いですし、私が学校に行けなくなると、よく世間話の相手になってくれました。兄弟の誰かが不登校になると、他の兄弟が「あいつだけ学校休んでずるい」「お前なんで学校行かないんだ」と揉めることもあると聞きます。しかし私の姉は私の前ではそういった態度をとったことはありませんでした。むしろ私が不登校になって、姉は色々不利益を被っていたように思います。当時住んでいたマンションの間取りの都合上、一人部屋を確保できるのは姉弟のうち一人だけでした。私は不登校になり、生活リズムが乱れ昼夜逆転になりました。するといつの間にか私が一人部屋になりました。その間の経緯は良く覚えていません。私がそこまで余裕がなかったということもありますが、結果として姉と父が譲ってくれたことになります。姉は母と寝室を共有することになります。高校生の女の子としては、とても窮屈な思いをしたはずです。また実は当時、姉自身も高校でうまくいっていなかったそうで、随分としんどい思いをしながら、それでも登校し続けていたそうです。母はどちらかと言えば私の対応を優先せざるを得ない状況でした。姉はどれくらいフォローしてもらえていたのでしょう。弟が不登校になり、家庭の中がなんだか落ち着かない様子で、ここで自分までも学校を休むわけにはいかない。姉はそんなことを考えていたのかもしれません。また長期休暇の実家の帰省など、外出が苦手になった私は同行しなくなりました。さらに、私は不登校のことを祖父母などの親戚に言いたくなくて、親戚づきあいを避けるようになります。そういった時にも、姉は私の知らないところで、とても頑張ってくれたそうです。弟の分まで、おじいちゃん、おばあちゃんに元気なところを見せないと、と一生懸命だったそうです。私が不登校になったことで、姉にも大きな負担をかけてしまっていたことは、随分と後年になって知りました。当時の姉には感謝の気持ちで一杯です。次回からはそんな中学生の私が三年生になり、高校の進学をどうしたのか、という内容です。

  • 16Jul
    • 私が不登校になった時の私の家族・前半(フリースクールに携わっている動機④)

      私が「フリースクールに携わっている動機」を書くつもりが、なぜか私の中学生時代のことを長々と書くことになっています。なにか特別なきっかけや出会いがあったわけではなく、長い時間の積み重ねの上での選択ですので、つい冗長になることは許してください。さて今回からは、私が中学生で不登校になった時に、私の家族はどういった反応をしたのかを思い出してみます。これも長くなりそう…、複数回に分かれるかもしれません。とはいえ、当時中学2~3年生の子供の目線ですし、また自分自身のこと以外に目を配る余裕がほとんどなかった時期なので、とても狭い視野になりますけれど。私には、父と母、姉が一人の四人家族です。父の仕事で転勤があるので、小・中学生の間は2~3年ごとに他県に引っ越ししていました。小学生の6年間で四国の愛媛県から香川県、徳島県と移動して、中学2年生の際にまた愛媛県に戻りました。引っ越しが多く、自営業でなかったことも関係するのでしょうか。学問が財産ということで、両親(とりわけ母が頑張っていましたね)はとても教育熱心でした。引っ越したら、一生懸命にどの学習塾の評判が良いか調べてくれていました。またスポーツも好きな家族で、私もサッカーチームにずっと所属していました。年齢の近い姉との姉弟仲も良い方だったと思います。家族それぞれに欠点はありながらも、恐らく平均的な(?)家族だったのではないでしょうか。私が不登校になったのは、先述した通り徳島県から愛媛県松山市に引っ越しして、半年くらい経った時でした。父も母も姉も、土地勘もなく、頼りにできる知り合いも少ない中で、今にして思えば良く色々してくれたのだなあ、と感謝する気持ちです。まずは母のことを。専業主婦だった母は、私の中学校とやり取りして、病院を探して、不登校やこころの病気のことについて勉強して、色々頑張ってくれました。母はもともと心配性で、過保護っぽいところもあるので、当時はずいぶんと不安だったようです。しかし息子のことが心配な一方で、母には苛立ちと焦りもあったはずです。教育熱心で、子供たちをできるだけ良い高校、できるだけ良い大学に進学させたいと、これまで頑張ってきたのですから…。それなのに息子が突然不登校になってしまい、ショックは大きかったでしょう。この当時は、私の家族は、・学校は行って当たり前・勉強は頑張って上位の成績を取ろう。・大学も行って当たり前で、その中でもより有名大学に進学しよう!こういった意識でした。それが私の不登校によって、一番の前提である「学校には行って当たり前」が崩れたわけですから、母はとてもしんどかったし、できれば学校に戻ってほしいと(当初は)強く願っていたはずです。母親に連れられて、何度か通学路を一緒に学校まで歩いたけれど、結局校内に入ることができず、何とも言えない気持ちで二人トボトボ家まで帰ったことを覚えています。心療内科の病院に行こうとしてタクシーを呼んだけれど、私は外出することが怖くて、タクシーになかなか乗れず、思わず母が声を荒げてしまったこともありました。自宅も一戸建てではなく、父と同じ職場の家族が住む集合住宅の形式でしたから、ご近所さんの目もとても気になったはずです。不登校の期間で、私が最も多く会話をしたのは母だったはずです。私の性格上、キレることはありませんでしたが、悲観的なことを言って母を悲しませたことはあるはずです。また、私は母には嘘をつきました。都合のいいように、大げさに話を膨らませたこともありました。そんな中でも、母は毎日食事を用意してくれて、私の世間話に耳を傾けてくれました。不登校になってから数か月が過ぎたころには、「今はもう仕方ない、しばらく好きなように過ごしなさい」といった姿勢で見守ってくれるようになりました。本当にありがたいことでした。

  • 13Jul
    • フリースクールに携わっている動機③ (不登校当時の私の生活)

      さて私は中学二年生の夏休み明けくらいから、学校に登校できなくなりました。しかしその当初、学校に戻る意欲が全くなかったかというと、そういうわけでもありませんでした。「少し」休んだらまた登校しようと考えていたと思います。ただ、どうすれば自分が登校できるようになるのかわかりませんでしたし、「学校に行くの嫌だなあ」、という気持ちもありました。学校に行くのが嫌な理由はいくつかありました。パニック障害のことだけではありません。学校の授業から遅れてしまって、そのことが恥ずかしい。周りのクラスメイトに休んでいた時のことをどう説明したらいいのか分からない。そもそも当時在籍していた中学校の雰囲気が息苦しかった。そして一週間、一ヶ月と私の休みは伸びていきました。その間、全く登校しなかったのかというと、そうではなかったと思います。何度か授業に参加した記憶がありますので、挑戦したことはあるのでしょう。しかし、どうにもフワフワした記憶です。いつの間にか学校に登校することが、非日常的な体験になってしまっていたのでしょうか。奇妙なほどに明るく振る舞って、クラスメイトに強がりを言っていたような記憶があります。クラスメイトはどちらかと言えば親切で、気を使って受け入れてくれていましたが、それでも居心地の悪さと、劣等感はなくなりませんでした。結局また学校を休み続けることになりました。休みながらどのような生活をしていたのかというと、当初は家に閉じこもっていました。パニック障害で心身ともに不安が大きかったことが理由です。外出することへの恐怖感が何よりも大きかったのです。ただ、このことについては自分自身でも何とかしないとまずい、と危機意識を強く抱いていました。少しずつでいいから、何とか家の外に出かけようと、色々自分なりに工夫して、挑戦していたと思います。外出することへの恐怖心は消えませんでしたが、それでも今日は近所の散歩、あっちのレンタルビデオ屋まで、こっちの本屋まで、と行動範囲は広がっていきました。半年から一年もしないうちに、外出することへの恐怖心は、ほとんどなくなりました。(事前の準備と、タイミングを計ることは必須でしたが。)一方では、昼夜逆転をして、テレビゲームばかりをしていました。当時、私は一人部屋を貰えました。古いブラウン管のテレビを、その部屋に置いて良いことになりました。家族も私の不登校という状況に直面して、どう対応していいのか困り果てていたと思います。少しでも私の気晴らしになればと、そういった環境を整えてくれたのでしょう。しかし、そうなってくると、どうしてもゲームや深夜テレビに熱中してしまいます。インターネットがまだ十分に普及しておらず、もちろんスマホもなかった時代です。これまで制限されていた娯楽が、突然自由に与えられたのです。時あたかも初代プレイステーション全盛期。昼間家族がいない時は自室でゲーム。夜みんなが寝静まってからは深夜テレビとゲーム。もちろん夕食などは一緒に食べますが、家族と顔を合わせる時間帯は少なくなります。それに、ゲームをしている姿を家族に見られるのは、どうしても後ろめたい気持ちになるものですから、家族から隠れてゲーム、テレビ、漫画を楽しむことがクセになっていきました。当時の自室は、ふすまで廊下と仕切られていたのですが、ふすまの敷居の上に「つっかえ棒」のように敷布団を、むぎゅっと詰めていました。家族がすぐに開けることが出来ないようにしているわけです。夜中にテレビを見る時は、左手をテレビ本体の電源ボタンに添え、右手にリモコンとイヤホンを携え、家族がトイレに行くために廊下に出てこないか、聞き耳を立てながら視聴していました。もしドアの「ガチャ」という音が聞こえたら、左手で電源を切り、右手にイヤホンを収容し、寝たふりをするのです。コントのようですけど、それだけ家族にバレたくなかったのでしょう。でもやっぱりバレてたんじゃないのかな? (機会があれば聞いてみようかな)自宅にいる時間帯が増えたけど、家族との距離感とか、何か変化があったようには思いません。私は自分を取り繕っていたし、家族も私にどう接していいのか、一生懸命考えながら、手探りだったと思います。その時期に、私の不登校について、家族で腹を割って話したという記憶もありません。とりあえず、私の不登校の時期、中学2年生後半と3年生の一年間の自宅での生活は、「ゲーム、マンガ、深夜テレビ」がメインでした。勉強は全くしていません。さて、そんな私に家族はどのように接していたのでしょうか。ちょっとそんなことを次回振り返ってみたいと思います。

  • 09Jul
    • フリースクールに携わっている動機② (中学でパニック障害になったとき)

      ①の続きになります。私は中学2年生の2学期から学校に行かなくなり、その後、不登校のまま中学を卒業しました。期間にすれば1年8か月くらい学校に行っていません。学校に行けなくなった直接的な原因は、パニック障害になったことです。近年は芸能人やスポーツ選手でもパニック障害で悩んでいる人が多いようで(おそらくは表立って告白できないだけで、昔からあったのでしょうけど…)、そういった記事を目にする機会も増えました。私の場合は、中2の運動会の本番で、大きな発作が起こりました。それまでは体調に何の問題もなく、リレーも走って、クラスメイトとふざけあって過ごしていました。気が付いたら、突然、色んな感覚が遠いものになり、目の前の風景の現実感がなくなっていることに気が付きます。筋肉が強張っていて、足や手はブルブル震えて力が入りません。そして何より、とにかく怖いのです。理由もないのに、自分の体の状態が恐ろしい、周囲の何もかもが恐ろしい、冷静な判断ができません。その後どうなったのか、実はあまり記憶にありません。ただどうやってか、校舎の休憩室で横になって、体の震えが収まるのをじっと待っていたのは覚えています。(運動会をサボっていた、ちょいワルの生徒が話しかけてくれたのは今でもなぜか覚えています)母親が連れて行ってくれた内科での診察は異常なし。心電図その他、健康そのものでした。しかし後日に同じようなことが、学校の休み時間の教室で起こりました。そして、私はまた同じようなことが学校で起こるのではないかと思い、学校に行けなくなりました。今度は心療内科の先生に診てもらい、しばらく学校を休むことになりました。自分としては、症状が出てきた時への恐怖感が薄れれば、また学校に行くつもりでした。長期間休むとは思いませんでしたし、それはダメなことだと思っていました。しかし学校を休んでいる時期に、気晴らしに外出した際に、とても大きな発作がありました。古本屋さんへ一人で買い物に行ったときのことです。「あ、これはまずい!」と思った時には体が震えだし、一歩も動けなくなりました。家からは少し距離があって(3~5キロくらいかな)、まずいことに当時は携帯電話を持っていません。誰も助けてくれないし、どうやって助けを呼んでいいのかも思いつきません。河川敷のベンチで横になったまま、ブルブル震えて動けなくなってしまいました。「もう立ち上がることができないし…、横に転がって移動して、川に落ちよう…。」「そうしたら、きっと誰かが気がついて、救急車を呼んでくれる。」怖くて怖くて、考えつくのはそんなことばかり。「きっとこのまま死ぬんだろうな」「こんなにしんどいのが続くなら、このまま川に飛び込んで死んでもいいな」そんなことまで考えていました。私の考える、パニック障害の発作の厄介なところのひとつに、一番しんどい時を過ぎると、身体自体は健康というところです。私は内臓も血管も脳も、異常はまったくありませんでした。(むしろ健康そのもの、運動好きな子どもでした)事情を知らない人からすると「何バカ騒ぎしているの?」となるかもしれませんね。(ベンチに横になっていると、泣いているように見えたのか、何かの勧誘の女性が二人、「あなたはお困りのことがありますか~」みたいに話しかけてはくれました。でも「体調が悪い」と伝えると、「あ、そうですかー」とスルーされたのは、なぜか覚えています。)つまり、自分ももちろんですが、周囲の人も基本的には何も出来ない、ということなのです。発作が収まるのを、しんどい思いをしながら、じっと待つことが基本です。分かってはいるのですが、外出先でいざという時「(自分も含めて)誰も頼りにならない」ということは、当時の私には重たい事実でした。30分ほどでしょうか、ベンチで横になっていたら発作は収まりました。意を決して自転車に乗り、自宅に帰りついても、何があったのか、どれだけしんどかったのか、家族にうまく説明できませんでした。それ以来、私は家から外出することができなくなりました。自宅の目の前にあるスーパーに買い物に行くのもできなくなりました。「外出先で倒れたら、誰も助けてくれないじゃないか!」頭にあるのは、そればっかりでした。他にも色んなことへの不安感が強くなりました。夜就寝するときに、心臓の鼓動が気になってなかなか眠れません。のどに何か詰まっているような気がして、水ばかり飲んでいました。そうしたことがしばらく続いたため、私自身も両親も「しばらく学校には行けないかもしれない」と諦めがついたのだと思います。そうした学校に行かない生活の中で、私がどのように生活して、家族はどのように接していたのか、次回は書いてみたいと思います。

    • フリースクールに携わっている動機①

      私はフリースクールで働きながら、不登校の子どもたちと接してきて10年くらい経ちます。パートタイムで手伝いをしたり、学習塾っぽく勉強を教えたり。自分が、どれくらい子どもたちの手助けができているのか、今でもあまり自信はありません。「もっと色んなことを勉強しないといけないな」「熱意を持って自分から動かないとダメだよな」そんなことをいつも考えています。周りの人に頼りっぱなしです。同じように不登校に関わって奮闘している、色んな人の姿を見ると、ついつい自分と較べてしまい、後ろめたさや劣等感を感じます。そんな私ですが、何か子どもたちの役に立てればいいな、と思い今でもこうして、パーソナルアカデミーのスタッフを続けています。何故、そういうことを続けているのでしょう。子どもたちにどうなって欲しくて、どのようなことを伝えたくてそうしているのでしょう。私は、色んなことに自信がなくて、引込み思案な人間です。面倒くさがりで、他人に気持ちを伝えることが苦手です。そうした自分の欠点に納得していないし、それなのに何もチャレンジをしていない大人です。ですから私自身の成功体験や、他では聞けない貴重なエピソードを通して、子どもたちを前向きに引っ張りあげることはできません。その代わり、私のこれまでの失敗を通して「もう少しこうしたらどうだろう?」と言ってあげられることはできます。このままでこの子は大丈夫だろうか、と思った時に「ちょっと立ち止まって、考えてみない?」と声をかけることはできると思います。「自立して生活できる人」「気持ちを表現できる人」「自分と他人を大切にできる人」そんな大人に子どもたちにはなってもらいたいです。そしてそう思うのは、そのような大人になれなかったときのしんどさを、私自身が体験したからです。今回から複数回に分けて、私が中学生で不登校になって、そこから大学に進学して、そこからの私の失敗などなど、連続して書いてみようと思います。(だいぶ昔のことですので、記憶違いもあると思いますが)

  • 18Jun
    • 不登校の子どもが、勉強に『逃げる』

      「学校に行けていない子どもたちは、勉強に逃げることが多かった気がするなー。」長年、不登校に関わっている人から、そんな意見を聞きました。『勉強から逃げる』ならわかるけど、『勉強に逃げる』って何か聞きなれませんね。(ここでの勉強は、学校の授業で教わること、テストで良い点を取るための学力アップですね。ホントは『勉強』とか『学習』ってもっと広い意味があると思いますけど)勉強を頑張る(頑張っているポーズをとる)ことで、不安感や劣等感を打ち消そうとする。こういうことは、不登校に関係なくあることです。不登校の子どもたちと接していると、そういった子どもたちは、確かにいるような気がします。真面目な子、勉強に重きを置いている家庭の子どもに多いのかな?学校に行けなくなって、勉強で周りに遅れをとることが、すごくイヤだ。自分の存在する価値がどんどん損なわれていくような気がする…。そんな表現をする子も中にはいます。周りから馬鹿にされないために、テストで良い点を取るんだ。高校受験、大学受験の結果で見返してやるんだ。良い学校に入学すれば、不登校だった居心地の悪さもなくなるはず。そういった悲壮感を漂わせている子もいます。そういった勉強への向き合い方が、必ずしもダメだとは言えないのですけれど…。大学受験の予備校や、家庭での自学自習は黙々と予定を消化できる人はとても評価されます。でも時折、「勉強している引きこもり」のような状態の人もいます。人とのコミュニケーションをめんどくさがる、自分の人生に投げやりな態度をとったり社会に関わることに冷めた意識を持ったままだと、結局は『進学しただけ』になってしまうこともあるんです。大人になった時に、自分のしたいことが出来るようになっていますか?主体的に行動ができていますか?他者と積極的に関わることが出来ていますか?好きなことを好きと、正直に表現できていますか?10代、20代のころは、そういったことの大切さを身に着ける時期でもあるはずです。そういった他者とのコミュニケーションや、自分の表現に極端に苦手意識を持ってしまった時に、『勉強に逃げる』ということが起こるのかもしれませんね。

  • 11Jun
    • 不登校になった時、なぜ昼夜逆転になるの?

      不登校になった子どもの多くは、生活リズムが崩れてしまいます。多くの人は、いわゆる昼夜逆転の時期を経験します。学校に通っていた頃のように、朝起きて夜は早くに寝る、といった模範的な生活を維持できる人のほうが少数派なのではないでしょうか。原因はいろいろ考えられます。そもそも、その日の予定がなければ誰だって早起きしたくないですよね。これは大人だって同じです。学校、仕事や家事など、やらなければいけない予定があるからみんな頑張って朝起きているのです。それが毎日続いているから朝きちんと起きるという習慣が保たれているのだと思います。学校に行けなくなると、その習慣を維持する必要がなくなってしまいます。ただでさえ気持ちの上で落ち着かず不安定になっている時期ですから、そのまま朝起きにくくなることは、良くあることなのです。また、朝という時間帯に起きていることが精神的につらい、ということも考えられます。朝は家庭も近所も慌しく動き出す時間です。親、兄弟は出勤や通学のために準備を始めます。自分は不登校で家に残るのに、「いってらっしゃい」、とそれを見送ることになります。居心地の悪さを感じて当然ですよね。さらに朝起きていると、外からは通学途中の子どもたちの声も聞こえます。本来はその中に自分もいなければいけない(と思い込んでいる)、同年代の子どもたちの元気な笑い声です。なんとなく罪悪感や後ろめたさを覚えるかもしれません。朝、周囲から感じる雰囲気が、しんどいのです。夜は夜で、布団の中でいろんなことを考えてしまい、なかなか寝付けなくなってしまうことがあります。目をつぶりじっとしていると、これからどうなるのだろう、明日はどうすればいいのだろう、と不安になることもあるでしょう。ネガティブなことばかり考えて、自分を責めたりするかもしれません。逆に静かになった深夜だからこそ、安心できる人もいるかもしれません。家族と顔を合わす心配もなく、周囲の顔色をうかがう必要もありません。自分の時間を作れたような気になります。また本来、寝ていなければいけない時間帯に夜更かしをしていることは、非日常的な体験です。そうすることで現実から目を逸らしていられる、という人もいるかもしれません。このように考えてみると、不登校なった子どもたち、とりわけ不登校になりたての子どもたちは、昼夜が逆転する動機がたくさんあることに気付きます。ご家族が、「学校に行かなくても、せめて生活リズムだけは崩さないようにしようね。」と言ったとしても、それができる子と、難しい子がいるのです。しんどい時期が過ぎ去ってから、乱れた生活リズムを整えることは、決して容易なことではないのは確かです。今後のことを考えると、ご家庭の方針として、厳しく叱ってでも早寝早起きをさせるということも、一概に間違ってはいないと思います。ただ、いずれの場合でも忘れないでいただきたいのは、多くの不登校の子どもたちにとって生活リズムを維持し続けるのはとても難しいということ。かといって昼夜が逆転してしまっても、精神的にはしんどいままだということです。不登校になると、どのような生活を送っていたとしても、『自分はこんな状態でいいのだろうか』という不安を、感じてしまうものなのです。

  • 04Jun
    • 不登校のときの『外出』について

      不登校と言っても、学校に行かずにどういった生活を送っているのかは、人それぞれ違います。学校に行けていなくても、外出して、友達と遊んだり、習いごとをがんばる人もいるのです。しかし、多くの不登校生は外出することに苦手意識を感じてしまいます。とりわけ学校に行けなくなった当初はそうです。学校に行ってない事への「引け目」のようなものがそうさせるのでしょう。外出すれば、他人の目を意識せざるを得ません。私が不登校のころに、一番イヤなことは学校の同級生に会うことでした。ですから当然、彼らと会わないような時間帯を選んで外出しようと考えるのですが…。しかし平日の真っ昼間に、小学生や中学生が外出していたら、それはそれで目立ってしまうのではないかと、気になって仕方有りませんでした。一時的にではありますが、自宅から道路を一本隔てたスーパーに行くことすらできない時期もあったほどです。私が、他人の視線を意識せずに、開き直って外出することができるまでには少し時間がかかりました。それでも私が外出できるようになったのは、「外出したい」理由があったからだと思います。(本屋に、雑誌の立ち読みに行きたかったのです。ただそれだけです。)くだらない理由ですが、それは当時の私がとてもしたいことだったのです。ありがたかったことは、両親がそのことについて何も言わなかったことです。ただ「いってらっしゃい」、そして「おかえり」と言ってくれたことです。もしも両親に、「みんなが学校に行っている時間に、本屋で立ち読みなんてみっともない。」といったことを言われていたら、家の中に引きこもっている時間がもっと長くなっていたと思います。不登校になると、外出するだけで勇気がいるものです。そういったとき、それでも外でやりたいことがある、家の外のほうが楽しめることがある、ということは大きな力を持っています。「家の中にばかりいてはいけない」「社会との接点を持たなければいけない」そんな理由では体が動かないときもあります。がんばって外に出るのだから、イヤなことだけをするのではなく、やりたいことや楽しいことをする。まずはそういったことから苦手意識を取り除いていくのも良いかもしれません。

  • 28May
    • 20年前の不登校の体験と比べて

      私が不登校になったのは中学生でした。1998年ですから、今、不登校で悩んでいる十代のみなさんは、まだ生まれていない頃です。20年も前のことですね。当時を振り返ると、今とは大きく変わっている所もあれば、そんなに変わらないなあと思えるところもあります。まず思いつく違いは、インターネットや携帯電話が今ほど普及していなかったことです。私の実家がインターネットを導入するのが少し遅かったのもありますが、私が不登校になった時期に、ようやく自宅でインターネットを利用するようになりました。youtubeなんてなかったし、ネットゲームもなければ、ネット経由で何かを購入することも、まだまだ一般的ではありませんでした。ですから私が不登校になった時、不登校や進学についての情報を調べるための手段は電話を使うか直接足を運ぶことに限られるわけで、今にして思えば、両親はずいぶん苦労したのではないかと思います。今では大抵の人がインターネットを利用することで、たくさんの情報を入手できます。パーソナルアカデミーに来ていただく方も、多くはインターネットでの検索からお問い合わせを貰っています。うまく活用すれば、不登校に悩む家庭の心強い味方になってくれるかもしれません。携帯電話が始めて我が家にやってきたのも、私が不登校になってから、しばらくたってからだったと思います。当時はスマホなんてありません。たしかまだメールすら利用できない携帯電話だったような気がします。どこでもだれとでも、いつでも連絡を取り合える。今では当たり前のことが当時は考えられないことでした。当時の私は外出先で調子が悪くなる場合があったので、もし当時、携帯電話を家族全員が持っていれば、ずいぶんと安心できたのではないかと思います。一方で20年経っても、当時も今もあまり変わっていないところもあるでしょう。すぐに思いつくのは、不登校に直面したときに、本人や保護者、学校も、そのことに対して基本的には無力であるという所でしょうか。最近では、かつてに比べて、いくらか不登校に対して理解が進んだように感じます。(もちろんまだまだですが…)学校も含めて、社会全体で取り組もうとする意識が出てきていると思います。しかしそれでも不登校に対する「特効薬」のようなものはないのでしょう。学校がなんとかしてくれる、親がなんとかしてあげる。そんな簡単な問題ではないのです。あらゆる不登校生の悩みを取り除ける、万能の解決策はありません。はっきりとした正解のない中で、本人と保護者が悩んだり失敗しながら、自分たちの進む道を探していくのでしょう。こればっかりは、どれだけ世の中が便利になっても解決できないような気がします。でも、そうした親子をサポートしようとする人も確実に増えてきました。そしてフリースクールだけではなく、不登校に悩む親子が相談できる場を、もっともっと増やさないといけないと感じます。

  • 17May
    • 学校に行けない時の『体感時間』

      最近、「あの出来事はもう十年前か~、早いなー」と感じることが増えています。大人の人はみんなそうなのかもしれませんけど。阪神タイガースがもう15年以上優勝していないと言われて、「嘘やろ?」となります。2005年だから、そうか…そんなに。そろそろ優勝してもらわんと。15年前となると、当然ですが今の小中学生のほとんどは生まれてもいません。これまた「嘘やろ?」となるのですが、当たり前の話です。実は私が生まれた年に近い、1985年に阪神タイガースは優勝しています。掛布選手とか、バース選手たちが主軸で活躍した年。15歳の頃の私からすれば、リアルタイムでプレー観たことない、どの選手も神話の中の住人たち、遥か遠い遠い昔のことです。なんの話か分からなくなってきました。体感時間のお話です。大人の時間の流れと、子どもの時間の流れって随分と違うはずです。イヤなことをしている時と、好きなことをしている時で時間の流れも違うはずです。よく私たちは「ちょっと休みなよ」とか「いつか勉強に追いつけるよ」とか言います。<ちょっと><いつか>この言葉でイメージしていることはきっと大人と子どもで違うんだろうなあ、と思います。学校に行けなくなった最初の一週間、毎日がプレッシャーでお父さんお母さんもバタバタして、何だか一日一日、気疲れしてしまってこの後どうなってしまうんだろう。しんどい時間を長く感じるかもしれません。一週間後には、つい最近まで自分が学校に通っていたなんて、随分昔のことのように思えるかも。学校に行けない期間が長くなると、毎日が単調かもしれません。気づけば一日が終わり、あーあ何にもしなかったなあ。そんな時に「来年、高校どうする?」と言われると急に時間が加速するかもしれません。保護者もきっと、こういうのはあると思います。不登校に子どもがなった当初の、あのつらくて忙しない日々は何だったのか、とか。大人の側からすれば、「もう3日連続で休んでる!」となるとしても、その三日間、子どもたちがどんなことをして、どんなことを感じて過ごしたのか。本人にしか分からんないのだと思います。待ち合わせで待たされている側にとって、その時間は随分長く感じるでしょう。「もう十分遅れとるぞ‼」でも後からすれば、「あそこまで怒ることなかったよな…」と反省したり。何が良いたいのか分からなくなってきました。子どもたちに、「ダラダラしてる」「遅い!」と叱ったり、逆に「なんで焦ってるの」「イライラせずのんびりしたら」と言ったり。そんな時に子どもたちには子どもたちの時間の感じ方があるんだということ。学校に行けていない子にも、それぞれ時間の感じ方があることを忘れちゃいかんな、と思います。コロナウイルスの緊急事態。子どもたちも色々我慢しています。例えば2年連続でゴールデンウィーク帰省できなかった子どもたち。去年は中学生1年生。今年2年生も行けなかった。来年の3年生は、もう受験勉強で行けないかも。こんなとこにも、出てくるのかなあ、と感じています。

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