☆世界を変える、世界は変わる。
~リアルプレゼント~ 第4回
主体性の秘密(道徳の成功法則)
人が生きて行くためには、決まりを守らなければなりません。誰もがやりたいことをやったら、集団生活の維持はできなくなりますし、個人や集団の能力を伸ばすにも、集団内での秩序が必要になります。
いわば、私たちが普通に前提としている生活に、守るべき道徳の根拠はあって、そこに私たちの可能性も掛かっています。
道徳が必要になるのは、私たちが生きるためであって、あるべきものを抑え込むためではない。
それは、順序よく考えればわかる話しですが、一方で、よく生きるために必要な道徳的なあり方が無用なものに思えたり、役に立たないお飾りに思えたりもする。
それは、よく語られる「道徳」が、個人のあり方に閉じ込められ過ぎるものだからだと思います。
個人を律すれば道徳を実行することができるというのなら、それは永遠にムリでしょう。
そんな期待すら、抱くのがむなしく思える。
道徳は、人という存在が自分の生きる環境に接する時に問題となって来ることです。個人のあり方にあるのではなく、社会との関係のあり方にあるのです。
個人のあり方だけを見ていても、道徳は道徳になり得ません。
そもそも、何があって、何をすればいいのか、そうした生きる基準は、時代や習俗によって変わり続けるものです。
自分で勝手に決めた道徳の取り決めなど、むしろ求められる道徳には適さないということにもなってしまう。
そうした、道徳に反することが道徳になってしまうことも、自分だけの責任という内に向かう観点によってでは、それが正しいかどうかもわからないはずなのです。
対して、健全な道徳心を持つ人は、うまく周りの社会や集団と歩調を取っているのではないでしょうか。
そうした健全性は、社会との繋がりによって得られるものです。
また、道徳の問題が難しいのは、様々な主張を持つ宗教や文化間のようなイデオロギーの対立が、人々の歩調を合わせるのに難しく作用するということがある。
しかし、集団生活の秩序にまず必要なのは、参加の精神です。
ある集団の秩序に参加するのなら、そこでの決まりは守らなければならない。
日本に住むなら日本の法に、アメリカに住むならアメリカの法に従わなければなりません。
小さな集団でも、そこなりの取り決めや規律は決められています。
そのルールを守れないなら、出て行くしかありません。
集団生活の維持と、私たちの生活の向上には、そのためのルールがいる。
この当たり前の態度が、道徳的態度であり、主体性が求められるところになります。
ここには、集団内の意思の統一が必要となりますが、先に言ったイデオロギーや主張の対立をどう乗り越えればいいか。
また、不正や犯罪への対処は、どれだけ自分の責任となるのか。
それを知るには、私たちがすでに知っている哲学を使うだけです。
あるいは、もう社会が当たり前に実践しているやり方と同じことをします。
それは、プラグマティズム的なやり方であって、現代の科学技術世界の成功法則を道徳にも持ち込むものです。
そもそもプラグマティズムが現代の哲学だと言っても、プラグマティズムが現代の科学世界を導いたということなどではなく、プラグマティズムの方が近現代の科学技術世界の発展によって形作られて来た哲学だと言える。
自由と責任の問題には、同じく現代の思考の系譜である資本主義の思想、自由放任主義を使います。
主体的に生きる時、人は、自由と責任の問題をどう考えればいいのか
責任を取ることができるから、自由が許されるのか。自由があるから、責任を任されるのか。
自由と責任は、どちらかが先に考えられるべきかということもありますが、自由放任主義の世界では、自分が自由に選んだことだから、自分の自由には責任が生じるということになります。
経済活動を始めるのは自由ですが、自分が始めた活動には責任を持たなければならない。
私たちが生きているのは、こうした世界なのだから、私たちの道徳もこうした現実の倫理観に従うことが求められることになる。
ただこれは、自由放任主義の立場だから言えることです。
自由が責任を決めるとは言っても、私たちの世界にはすでにルールがあり、それを守らなければ自由も得られません。
だから、主体にとっての自由と責任は、どちらが先ということはないでしょう。
どちらが先で後であろうが、常にどちらも必要になるのです。
そして、この自由も責任も、それは個人が社会との関わりを意識することにとって、初めて実行的な形を取ることになります。
それは主体に表れる「現実」であって、それらは、自由と責任を持つ主体が充分に道徳的な態度を取るにはまだ未知の姿を取ることになる。
つまり、道徳の始まりは主体が持つ認識の「現象」として表れ、この現象が、まだ何がどうあるべきかもわからない世界のあり方への始まりとなる時、本当の道徳のあり方は、社会との繋がりの広がりにとって見えて来るものなのです。
自分がどうあるべきかは、社会がどうあるかに掛かって来る。
この主体と社会環境との繋がりの中に、私たちが実践する道徳のあり方は見えて来るものとなります。
主体が主体性を発揮するのは、当然、社会との関係になるからです。
つまり、個人のあり方にのみ焦点を当てた道徳や倫理の論調には、やはり始めから窮屈さや不徹底の予感などのムリがある。
そもそも社会が要求して来る基準の問題を、個人のあり方に置き換えるのは不合理です。
いかなる基準が必要になるかも、社会のあり方や問題点があって、明らかになるのです。
それを個人の頑なな態度に見い出そうということだから、そこにはある種の幼稚さもあるのです。
社会は、一人の個人の思惑で片づくほど、簡単なものでも、御し易いものでもありません。
ルールがあれば、それを逆手にとって不正や犯罪を潜り込ませようとする人々も必ず居るのです。
また、知らぬ間に不正の片棒を担いでいたということにもなり兼ねないのが、自分にしか目が向かないことが抱える本質的な欠陥ともなるでしょう。
明らかに、何が行われているかは知るべきなのです。
それが、本当に主体性が求められていることです。
私たちの認識の「現象」には、それらがすべて備わることはないとしても、私たちは、主体性の発揮によって、何がどうあるべきかも知ることができる。
「質問」の力を使うことでです。
結果から言ってしまえば、いかに「質問」する力を養えるかが、よく生きることができるかを決めるカギとなることでしょう。
そうしたもののすべてを相手にする時、それでも道徳的な態度を大切にしていると言えるのは、まだ何が何とも定かにはわからぬ「現象」を相手に主体性を問い続ける姿勢があるからです。
具体的には、自分の在り方に正直に、周りの在り方には質問を繰り返すことで、不充足を補い続けることができるし、仕事をするために必要な基準がどこにあるのかも、このやり方で学ぶことができる。
道徳は自分が主体的に守るものという時、その態度は、自分の認識にある「現象」から外に向かって開かれて行くものである必要がある。
そして、それを現代の資本主義世界の哲学である、プラグマティズム的な、操作主義のやり方でやるのです。
現代科学がやっているように、より良いもの、より正しいものへと、それまでの古くて間違ったものを置き換えて行く。
この繰り返しで、例えうまく行かなくても、うまく行くまで改善の操作を繰り返す。
この繰り返しで、科学の進歩も社会の発展も力強くなされて来たのです。
同じく、主体性を発揮して道徳を実行可能なものにするなら、科学の追求と同じく、まだわからないものを、データの観察という「正直」さと、効果ある操作への「質問」という二つの本質で取り組むことが求められるということです。
社会の成功法則を使っているのだから、これは最初から社会にも受け入れられる力強い方法論です。
べつに、変に道徳づらしなくても、初めから備わっている力強い道徳の精神なのです。
例え、うまく行かなくても、この精神は忘れないようにしてください。
人は裏切っても、社会の成功法則は裏切りません。
学ぶことはたくさんあります。
そして、生きるのに一番楽な正直さを武器にするのは、科学と同じ、データの観察がすべての根拠となることを知れば、それが不動の強さを持つこともわかるでしょう。