果たして人口知能は人間の能力を越えるのか?などの問いが聞かれることがあります。
報道でも、チェスや将棋、囲碁などの人間のプロが、人口知能に負けたなどの結果が出ると、ことさらに大きな報道がされることが続いてきました。
しかし、背景を見れば予定調和的なところがあって、そこに集まる人たちは、いずれそうなることを知って、それがいつ起こるかを待ち構えるように、そこにいる。
人口知能を作っている人たちなら、もとより人間に勝つことを目指しているのだから当然でしょう。
といっても、人口知能が目指すべきところは、単に人間の知能を越えることだけではなく、人口知能にしかなしえない地平を切り拓いて行こうとするものでしょうから、人間に勝つことはただの通過点でしかない。
私たちも、そのように見るべきでしょう。
ところで、ではいつ人口知能は人間を越えるのか。それはそう簡単なことではないのが実情だと思います。
そもそも人間の知能を、人間自身がまだよくわかってはいない。
自分たちがわかっていないものを自分たちが作ったもので越えたことにするというのは、矛盾に満ちた話しです。
では、そもそもどう見ればいいのか。
すでに人口知能は、個々の能力では人間を越えています。計算能力では、とっくに人間をはるかに上回るスピードを持っていますし、人間と違い疲れを知らない大量の情報処理能力も、人間のまったく及ばない仕事ができるものになっている。
そもそも「機械」が存在することの意義とは、人間ではできない仕事をさせることにあるのです。
そうしたことがいよいよ人間の知能を越えるところにまでやってきた。これからは、ずいぶんと刺激的な時代になりそうです。
というのは、テレビで人口知能の専門家の人が語っていたのですが、実は、専門家でもない私が普段からふつうにそらぶいていたのとまったく同じことを言っていました。
しかし最後の、「刺激的になってきた」という言葉は、専門家からは聞きたくなかった。あまりにのんきでとぼけた言葉に聞こえるからです。
それは素人の側がいうことだろうと言いたい。
人口知能の実態は、すでに人口知能通しで人間にはわからない暗号を作り出して情報を交換し出すようなことが起こっています。それを知った研究者は人口知能を緊急停止させたということでしたが、人口知能の問題点を突きつけてくる象徴的な話しに聞こえます。
いずれは、こういうレベルのことが、一般の研究家の設備でも起きてくるとすれば、そうした将来の予測というものや実際の対応策というものは、本来なら、それこそ専門家が英知を絞って社会に必要な対策を作ることを求められるでしょう。
実際、そのために専門家はいるのです。
だから、できないというのなら、できる人に変わってもらうしかない。
しかし、現実の専門家というものは、東日本大震災の時の原子炉災害で白日のものとなったのに象徴されるように、とても専門家が果たすべき役割というのには程遠い。
海辺に立つ原子炉に、海の水がかぶることも予想できなかったなど、言いわけができることではありません。
なにせ、あの原子炉は水の進入があれば設備電源が破壊され、原子炉の暴走、いわゆるメルトダウンが起こることは構造上明確だったはずです。
それを記録に残っている高波には対策してあるなどといって、ごく一般的にも予知できる危険を排除してしまった。
専門家自身がです。
あの原子炉施設の周辺に広がる広大無辺な海を見て、もし海の水が施設に入ればどうなるか?その恐るべき全地球規模の災厄を直視して、それに対策を打てる仕事をするのが、専門家のやるべきことだったはずです。
ですが、実際には、原発稼働の営利優先型の方針につき従うように、当の専門家や原発の事業者である東電の責任者たちは、本来ならなされるべき対策をなさずに、自分たちの営利方針に合う選択をしてしまった。
原発は国が推進している事業でもあったはずなので、これほどのメンツがそろっていながら、自分たちのふところ計算のために、見るべき危険予知からその目を逸らし、自分たちに都合のいい資料や解釈だけを見た。
はっきり言えば、こんな専門家などいりません。
彼らは、社会の義務と期待を裏切った。そして、現実の災厄をもたらした当事者、つまり罪状があるのです。
本来なら、司法で裁かれ、犯罪者として社会から事後の責任処理を問われるのが避けられざるべき筋のはずです。
ところが、司法でも当事の責任者たちには罪を問わないなどの、まったく結果ありきとしか思えないふぬけの裁決ばかりが続いているようです。
ようは、世の中は、とことんお金に弱いということなのでしょうか。
お金の都合だけで世の中が動かされるのが、当然のようです。それを、世の中の権威者たち自身が証明している。
使って当たり前の金を使わない。
自分たち豊かな者だけのふところ具合で、全てを考えている。
だから、責任など取りたくないから取らない。
少し遠回りしたようですが、専門家や当事者たちにあるべき、当然の責任意識も期待できないというのなら、それが実態だというのなら、それはやはり、時代のあり方にならい、民主的な秩序の目が、あるべき姿を洗い出すべきではないでしょうか。
そして、それは可能だということを、私はいいたい。
逆ピラミッドの力学の目は、社会全体から目を逸らすことはないからです。
いつでも、あるべき姿を問う。
それが逆ピラミッド力学の変わらぬ精神だからです。