人の心が動く理由と、動かない理由 | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

世界を変えるメルマガ
「リアルプレゼント」。

まぐまぐ!がバックナンバーの配信をやめたので、こちらにアップして行きます。

最新号は、配信サイトのまぐまぐ!に登録して読んでみてください。

http://www.mag2.com/m/0001691279.html

人は、誰しも人と係わって生きて行くわけですから、相手の心が動くか動かないかは非常に問題になって来ることだと思います。

そもそも人は、みんなが自分自身の課題をもってすでに活動して来ているので、誰だってすでに自分の人生の方向性や活動方針になるものはもっているものだと思います。それがはっきりとしたモットーであっても、まだ明らかにならない心情、意気込みのようなものだとしてもです。

そうした人それぞれの個別の事情や信念を、現に持っている人々と係わって行くということは、その相手がとっくに持っている個別の心情と係わって、そこに自分からの関係を加えようとするものなので、うまく相手との折り合いをつけて行かなければならないのは、当然のことではありながら、やはり難しいことでもあると思います。

社会の関係は、どの組織や集団に入って行っても、自主的な参加(つまり自分の責任)が条件なので、そういう意味では「協力」できることが前提であるということにはなります。

それでも、理屈通りに動いてくれる人ばかりではないことも、現に人々を相手にしていれば誰してわかっているはずのことだと思います。

つまるところ、人が動く時には、それぞれが持って生きている個別の人生背景にとって、どのようにどれだけ合致しているかで、人それぞれに働く人生力学の背景に照らして、自分がいいと思う選択をするわけですが、この人生力学の背景的な働きは、はっきりいってすぐには変えようがありません。

だから、人に接するには、まず相手の動き方を見なければならないことは当然ながら、その相手がどのような選択をするのか、または掟やぶりの反応を返して来たとしても、自分や現場の安全が危険にさらされない限りは、相手の選択を尊重する形で前に進めて行くしかありません。

人の意思や決断を推し量らねばならない時、問題なのは、その人がどの方向を向いているかがまず重要です。
方向というのは、その人が依頼された仕事の内容に対して、まともに応じられる用意のある人なのかどうか、またはその逆に、協力しているようでいて本当は周りの人や仕事の係わりを、欺くつもりでいる人なのかということを含めた、基本的な方向性です。

無論、こうしたことにも、それぞれの段階や特徴があるものですが、仕事を進めて行く上では、まず基本的な方向性を見定めておけるようになっていくことが何より望ましい。

と言っても、世間では、こうした人物判断のようなことを技術的な(というより社会権威的な)根拠なくして憶測することは、揉め事のもとにしかならないこととしてたしなめる傾向が強くあります。
無論、私としても、ムダに揉め事の種を増やそうという気はありません。

むしろ、人の方向性を事前に把握することができるようになっていれば、社会におけるムダな争い事は、率先して抑え込み、消して行くことができます。

それというのは、仕事を通じた人と係わりがいい加減な人とは、自分たちを支えるはずの「仕事」への態度にもごまかしが見えます。
時には、明確にごまかしに満ちて平然としている。そこでは、まるでごまかしで仕事をして生きているのが正しいことのようです。

ようは、こういう人たちは、仕事に対する本気が足りない。
本気というのは、この仕事で生きているのだという明確な自己意識が足りない。
つまり、生き方がまだごまかしに留まっているのです。結果からいうなら、こういう人たちは、概して「幼児的」です。
自分のクビをも絞めることをやっていることに気づかない。それが、わがままというものです。

まだ、まともに生きるより、自分の内的な事情にそくした欲望の方が重要で、本当に自分が生きているということには目がひらかない。
それだから、ごまかしだけを押し通し、自分の抱えもった欲望ややり方に固執し、なおかつ、ごまかしで生きられる生き方に憧れているのです。

そういう人が表立っては認めることのない、しかし態度に出て来ることはどうしようもない内的な実情は、やはり人それぞれが背景に従えている特有の人生力学によって、始めから表れて来るものであることを「把握」することはできる。

これも結果から言えば、その人が、何に「忠誠」を見せるようになるのかを見て行くことです。

人は、自分の忠誠心を偽れません。
そして、まじめに仕事に取り組み、周りの人々とまともに協調し、自分がすべき仕事をして行くことができる人間なのかどうかは、その人自身の生き方の忠誠心に表れて来ることが、その人自身にとってもどうしようもないのです。
人はウソをつくことはできる。
しかし。自分自身の忠誠心にウソをつくことは、最終的にはできません。
わがままな人間には、なおのこと、それができない。

せいぜい、その場しのぎの逸らしや、きれいごとを頼った覆い隠しに執念を見せるようになるだけです。

そういう場合は、その相手のいうことをよく聞いて、その後に何をし出すかを冷静に見て行くことです。
もとより、相手のいうことをよく聞き、冷静な判断をして行くことは誰しもに求められることです。

ですから、相手が勝手にボロを出して行くことは、観察者のせいではありません。

卑怯さ、逃げ口上の多い相手には、その相手がどこに忠誠心を向けるかで比較的簡単に人の持つ内面の方向性を指摘することはできる。

これは、人を見る目としては最も大雑把な見方なので、それだけ基本的な人の方向性を見るのに役立てるものとなります。
つまり、まともに生きようとする人たちでも、ずるさに惹かれることはあっても、それは最も大きな方向性の中に含めることができる。

人が作り出して来る人生視野的な方向性を知ることから、それぞれが目指すべき課題を捉え直すことは、いくらも可能になります。

こうした力学的な人生視野では、すべてが簡単に見えて来るものなのです。
その背景にある、すべての複雑さを何一つ失うこともなく。

その意味で、「事実」に生きる人は、どこまでも楽観的です。最初から最も楽で最も確実な生き方をしているのです。

ただし、ずるさの執念はどこまでも追いかけて来ます。自分の生き方はずるさしかないと本気で思っている人たちは、自分ではそのことがわかっていませんが、ずるさに忠誠を誓っています。
そのけ、バレたなら、バレたなりの「わかったふり」をする。隙があれば、そこに入って来る人たちです。

しかし肝心の忠誠心は偽れません。だから、いずれボロを出す「人生」も変わりません。

それだから、ずるさごときに道を譲るかどうかは、結局、「事実」に生きる人がすることになるのです。

結局のところ、社会では役割を果たした方が勝ちです。ずるさに道を譲るかどうかも、自分が果たすべき役割としてあるのです。

たかが仕事をしないずるさに道を譲れるのか。
事実としての仕事で生きられる道を作るのか。

それも、人それぞれの忠誠心で決まることです。
しかし、人の忠誠心は、現に生きることで定まって来ます。

事実に生きる不動の生き方も、ごまかしに生きる行き場のない生き方も、事実として生きることで、どの道、見えて来るものとなる定めにあるのです。