しかし、辞書をひもといても、愛は定義不能とされ、個々の性質を並べることはできても、愛はそれら個々の性質を越えたものとしても扱われているとなると、愛の定義は、やはり難しいとなって、定義不能の扱いとなって行くのです。
愛って何なのか?
私の力学的哲学の見方では、愛の答えは意外に簡単です。
ようは、私たちは、何のことを「愛」だと語って来たのかを知ることで、比較的容易に答えは出せます。
それには、私たち自身が「愛」の答えを例え出せなくても、「愛」の姿は向こうから表れて来るものとなるのです。
実に、「愛」の定義が難しいのは、愛の答えを、愛することの「結果」に求めるからだと言えます。
私たちが愛する時、その結果や関わり方はさまざまであって、愛の定義が不可能と言われるように、決していちような結果にはなりません。
だから、「愛」は、考え方に求めるべきなのです。「愛の結果」ではなくて、「愛への道」に求めるのです。
それでも、「愛」が何かを知らなければ、そもそも求めることもできない。
それでは、私たちが何を「愛」と語っているのかをまず見てみましょう。
現在、日本で使われている「愛」の語源については、辞書などを調べるとわかるように、最初は現在の「愛」とは違うものでした。
今現在、私たちが使っている「愛」は、明治維新であらためてキリスト教が入って来た頃に、「神の愛」を訳すために日本語の「愛」が使われることになり、そこから現在の日本語として定着した「愛」の意味が浸透していったとされています。
つまり、こんにち私たちが言っている「愛」とは、キリスト教的な文化を受け入れた形での愛なのであって、日本語の意味あいが変わって来たものだと言えます。その愛という日本語は、もとは漢語との交わりなどによって扱いが定まらない言葉でもありましたが、キリスト教導入によって結果的には現在のような統一的な使われ方になったわけです。
そのキリスト教的な「愛」とは何なのか。
それは、「神は愛である」という有名な言葉にも表れている通り、愛とは神との関係を表していると捉えることができる。ここでの愛を「慈しみ」と捉えても、それは神の意に沿うことを示していると言えます。
つまり、神の意に沿うことが神との関係なのであるから、神との関係が開かれること、それはつまり、神の意に応えられることがその核心なのであって、神の意とは、神が創造する世界にふさわしい行いをすることとなります。
それは、神の存在が完全であることと同じ意味を持ちます。「完全な存在は神だけである」という言葉もありますが、その神がつくる世界は、やはり完全なものでなければならない。
つまり、神の意に沿うとは、神がつくり出そうとする通りの、完全な世界をつくることに寄与すること。そして、みずからがその完全な世界に加われるようになることです。
神の意に沿うことが、「愛への道」であるとするのなら、ようは、「愛」とは、完全性を求めることに帰結することになります。
ここで、一つの答えがはっきりしました。私たちが普段、なにげなく使っている「愛」という言葉には、それを例え強く意識していなくても、歴史を背景にした文化が持つ意味あいには、完全性への追求という土台的な意味あいが込められているのです。
それが「愛」という言葉からは決してなくならない本質だと言えるでしょう。
ここで問題なのは、私たちは、つまり人間には、完全なものとは何かを知ることができないという人間自身の限界があることです。
人間は不完全な存在であって、そもそも完全なものとは何かを知ることができない。だから「完全な存在は神だけである」と言われても、その完全な存在とは何かを知ることができない。
しかし、最初にも言ったように、ここで重要なのは、知識の「結果」を知ることではなくて、それへの「考え方」を知ることにあるのです。
それだから、「愛」とは完全性を追求することにあるという命題は、正しく提出することのできる命題となるのです。
考え方としての愛は、完全性の追求にあるのです。
この考えは、人間存在がそもそも不完全なものであるという土台に立脚していなければなりません。そうでなければ、愛とは完全性であるということの意味がわからなくなってしまいます。
私たちは、不完全な存在であることによって、完全性を追求する存在。そして、その本質を失わない関係にこそ、「愛」があるのです。
現実の現象のさまざまな表れを越えて、みずからと、みずからが関わる社会との関係を、今よりもっと完全なものにして行こうとする改革や改善への意志。そこに、「愛」は表れて来るということです。
そして、人間はおよそ完全な存在になることなどはないのですから、同時に私たちの「愛」にも終わりはない。
私たちが生きている限り、人間の歴史が続く限り、愛ある歴史は続くのです。
そしてさらに、歴史の文脈をひもといて行くと、キリスト教だけでなく、仏教の源流にあるバラモン教の教義にもブラフマンという宇宙の完全性を示す概念があり、バラモンの司祭たちは、このブラフマンと関わる力を持っていたことで最高の社会的権威を持っていました。
そして、人の魂は、いずれ完全な世界へ帰って行く、または帰ろうとしていると説いていることも共通しています。
つまり、キリスト教的な意味として語られることになった「愛」の概念は、宗教や神学の普遍性にとってみても、やはり完全性の追求という基本命題を持つということは言えるのです。
人間は不完全であるから、神や仏への慈しみを求める。そして、求めるだけではなくて、みずからがそのために動き出す。
人間同士であるなら、そこにも不完全な者同士が求める愛ある関わりがある。
そして、人間同士なら、なおのこと結果としては不完全であることから、つまり今現在の段階から、よりあるべきことへと至るために努力して行こうとするのが、本質的な土台のある「愛」への態度なのです。
愛が完全性への本質を持つということは、愛の関係にとって、成長を信じること、それは支え合いであり、理解と共感であり、また同時に完全性を求める厳しさと、そのための優しさをも合わせ持っている。そうして高めあって行く性質を根本に持つということです。それら愛にまつわるさまざまな性質を、根本的属性によって矛盾なく合わせ持つことで、愛とは何かという私たち自身の問い掛けに答えられるものとなるいうことなのです。
愛のある人は、例え一人でも愛を忘れず、また人々と愛の道を進むことを喜びにするのです。