私たち生きている者にとって、「約束」は、自分の「生きる世界へ」の意味を知るためにある、唯一の思考の起源です。
「思考の起源」の考察で見て来たように、私たち生きている者にとっては、「すべてを与えられる経験」以外に、存在としての始まりはありません。
すべてを与えられて当たり前の存在の仕方から、私たちの「感じ方」の始まりはある。そして、その始まりは、私たちの思考の起源として残っているのです。
だから、自分の力で生きることへと向かう私たちの生き方は、与えられるだけの感性を基軸にして、そこから初めて自分の自発的活動への意味を知るようになります。
そのための軸が「約束」の力学です。
力なき子どもの頃は、親などから教えられる生き方の訓練が、初めから何を意味するかなど知るはずがない。それは順序としてはずっと後のことになるはずです。
まだ自分の力で生きて行くことの意味も知らない段階で知ることができるものは、本来の「感性」が知っている生き方の体験法だけ、つまり「すべては自分のためにある」という感じ方に取り込まれるものなのです。
もちろん、生物体としての生きる能力は、人間として産まれながらに持っている生得的能力として、身体の成長によって自然に発揮されるようになります。
そういう意味では、存在は自然に外に向かっている。
明らかに、自分の力で生きようとしている。自分に備わった能力、そして備わるべき能力を発揮して。
しかし、「意識」はそうではありません。
無論、意識も身体能力の一部としての意味では、ほっておいても新たな能力はその身に備わって行く。
それでも、私たちの意識の「働き」は、まだ自分の力を使う意味を知るようになっていないのです。
体が勝手に動き出しても、なぜ動くのかはわからない。うまく動いても、へたに動いても、動いた結果を得ることから、学びの順序を重ねて行くのです。
そして、人は、教えられて行くことで、また自分で生きることで、生き方を学びますが、その方法は、自然体験の始まりにとって唯一の「すべてを与えられる体験」の延長線上にある。
この学びの体験は、始まりの「すべてを与えられる体験」にとっては、部分です。だから、始まりの感性を越えるものとはならず、その中に取り込まれます。
そうして、存在者は、自分の「すべてを与えられる」経験をベースに持ちながら、その次の経験を持とうとする。
つまり、存在の「感じ方」は変わらないということです。あくまで、それまでの感じ方を持ち越しながら生きて行く。
それは、どんな経験を持つ時にも、私たちの持つ経験を一番背景にある奥から支え続ける力学となって、私たちの生きる意味のすべてと繋がっています。
それは、生体的なところでは、私たちの生きる本能や衝動となって押し出して来るものとなる。つまり、生命力の実感のあり方でもあるのです。
だから、何も問題がなく、うまくことが運べば、単に嬉しい経験にもなるし、エネルギーや得るべきものを失うばかりの体験をしていては、そんなことは嫌だと思う経験になるし、そんなことになるとは思わなかったということになる。これも実感です。
そして、この生きるエネルギーや生きる技術の問題にとって、産まれ持った唯一の経験の意味を与えるものが、起源の意味による「約束」です。
私たちは、生きる技術の一つとして一般的な意味での約束を知りますが、それらすべてのことの始まりの意味として、私たちの生きる感性すべてを包み込む「起源の約束」の意味を与えられている。
それはまさに、知っているというよりは、すでに与えられている感じ方がどうであるかの表れなのです。
だから、「約束」を守ることはすべてだと感じたり、「約束」を破るものは許せないと感じることの、最背景かつ無前提の理由から来るものなのだということです。
それは、私たちが、責任の意味によって社会の主体化を成し遂げ、固有の生として確かな足場を得て「覚醒」するまで、いや、主体の覚醒を得た後でも、私たちに生きることの意味を与え続ける最も背後の感性の働きなのです。
逆に、人との約束を破っても仕方ないと感じたり、さらには、約束を破っても何とも思わないという感じ方の、裏返しの理由ともなっているのです。それは、人は「自分の約束にとって」で、ものを考えるからです。
人が守りたいのは、必ずしも言葉にする約束だけではなく、むしろ言葉にする以前の、本当の「約束」にとってある。
その「約束」にとってこそ、守るべき約束と守らないでもかまわない約束が「感じられ」て来るのです。
人は、そうした本当の感じ方には従わざるを得ない性分のものです。
ただ、主体性の覚醒を得た者には、責任の軸線が自分を中心に張り巡らされることで、自分の約束にとって破綻をきたさない関係のバランスが取れるようになるでしょう。
いわば、「約束」とは、人生の不滅の一貫性と言ってもいい。
私たちは、「約束」によって自分が生きる意味を知ることになるのです。
そして、自分が現に知っていることは、自分だけの「約束」がもたらした人生の意味なのです。
自分の人生だけが得た「約束」が、現にここにある唯一の人生を作っているのです。
それだから、すべての人生経験が、自分のためにあったと感じられる理由は、初めからあったことになる。
無論、考えられない偶然というものも、私たちの外側からやって来るでしょう。
それでも、まずは「約束」の力学が私たちの思考を結び合わせ、導いていることを忘れてはならないでしょう。この内的な力学が働いていることで、私たちの思考は私たち自身の、つまり「自分」のものであり続ける。
外的な力学の働きは、また別に把握されるべきなのです。なぜなら、外の力学は、私たちのまるであずかり知らぬ客体の力学で意図され、また影響されあっているのだから、私だけがそれをコントロールする特権に恵まれているということは、簡単に考えるべき範囲のことではない。外には、外側の都合があるのです。
この外側の都合で動き、また考えることができることが、正常で健全な関係可能性の広くて確かな土台となる。その上で、ありうるべき話しをいくらするのも、かまわないでしょう。この土台があれば、話しや関係の可能性は、そのポテンシャルをいくらでも広げて行くでしょう。
「現実」には、確かに限界がありますが、真の可能性を最も広く持っているのも、「現実」なのです。
現実とは、私たちが「約束」を果たすために開かれた世界のことだからです。
この「主体的な見方」も、厳しい現実には何の意味もなく感じることもあるでしょう。それは、「約束」というものが個人的なものだからです。
個人の思う約束などは、周りの人々からすれば、やはり「その人」個人の問題でしかない。
対して、「約束」が社会的なものであるなら、それは社会自身の力学の中で守られます。
社会との繋がりのない「約束」ほど、儚いものはない。
はっきり言って、誰も相手にしません。
人は誰もが自分の「約束」をかなえようとして懸命に働こうとしています。
そのための共通の土台が、社会なのです。だから、人は直感的にも知っているのです。「これは相手にしても仕方がない約束」だ、ということを。
人が冷たくなったり、温かくなったりすることにも、「約束」の深層は強く確かに繋がっているのです。
ある人が、大事にしたくなることも、または冷たく切り捨てたくなることも、その人が作りたい世界と密接な繋がりの意味を持っています。
思考の起源は、その人がどういう世界を作ろうとしているかで、自分の関係を選び出すことを教えています。
しかし、「約束」で作られる世界の性質は、「約束」が守られる世界のはずです。
私たちは、たとえどんな世界を作るにしろ、その世界で生きたいがために「約束」をすることになる。
この「自分が作る」世界のために、もっとも必要な関係の性質が、「責任」であることは間違いのないことです。社会の中で責任を果たす者には「権利」も与えられることになるからです。
逆に言えば、権利を得るためには、社会に利益をもたらさなければなりません。
あなたが確実な「利益」の供給者であることで、社会と周りにいる人々は、同じく確実にあなたの社会的な権利と価値とを認め、守るのです。
そのためにも、私たちは、私たちの生きる社会を味方につける必要性があります。
残念ながら、人は社会の責任意識に目覚めないかぎり、自分本意のためなら何をしてもいいと思うところがある。
だから人の本性を知りたいのなら、その人の責任意識のあり方から見た方がわかりやすいところがあるのです。
誰しも完全ではないにしろ、責任意識の継続性(責任の軸線)を見れば、生き方としての確かさや深みがおのずと見えて来ます。
そして、人は自分の関係にあった相手や仲間を探すことになる。
「約束」の関係というものは、結果から言えば納得です。
人は皆、納得のできる関係を手に入れようとしている。可能なかぎりの納得のできる世界を求めて、存在の持てる可能性のすべてが、思うに任せぬ世界に向かいながら、それでも納得のできる関係を作ろうとしているのです。
たとえ、そこにまだ見ぬ世界への広がりを求めるにしても、求めないにしても。
存在の宿命は、どうあっても「約束」の世界を作ろうとすることにある。
そして、人間は「知恵」の存在です。
「約束」をかなえるためには、そのための環境作りから始めなければならないことを知恵の基礎として覚えておかなければなりません。
そのために、逆ピラミッドの確かな生きやすさから始めて欲しいと思っているのです。