技術 ≪世界への道≫ | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

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人は、自分の望みを現実のものとするために、「力」を蓄えます。
その力は、やがて私たちが技術と呼ぶものになるのです。

この技術というものは、私たちが生きるために求める力を、最終的なものとして表しています。
つまり、私たちが求める力は最終的に、さまざまな分野の「技術」と言われることになる。
それは、競争のある世界で生きて行くための、競争を勝ち抜くという意味での適応を、一人ひとりの個人が求められていることからの当然の結果なのです。

生きるために、私たちは「自分が生きて行ける技術」を手に入れようとし、足りなければ追い求め、足りるなら納得することになる。

それは、生まれた時から続く生存を課題とされたものの運命です。
人は、生まれた時から「得るべき技術」を求めて生きている。しかし、私たちが、それを特に「技術」として認めることになるのは、私たちが生きて来た歴史の中で最終的に認められるものです。
なぜなら、それは、私たち自身が今ここにある現在に生きているからです。

過去の偉人なら最大の業績に目が行きがちですが、その時々でクローズアップされる部分は変わる。それでも、今現在、注目されている「技術」であることに変わりはないのです。

同じように、今を生きている私たちも、私たち自身が今ここで発揮するができる「技術」を問題にすることになる。

私たちが意識する「技術」とは、そういうものです。

そして、競争に勝ち抜けるものを求める私たちに重要となるのは、今現在の自分が最終的な成果として得た「技術」です。

私たちが生きている社会は技術社会ですが、たとえ原始時代であっても、そこで必要となる「技術」があり、そうした「技術」を得なければならないことには変わりはないでしょう。

私たちが生きるために得たものが「技術」となりますが、「技術」は待っていても手に入らないものです。
しかし、同時に、待たなければ手に入らないものでもある。

それというのは、「技術」を得るには二つの前提があるので、「技術」だけを思った通りに手に入れることは難しい。
一つめは、「技術」を得るためには、まず自分の能力が下地になって支えられるようになっていなければならないことがある。この下地になる能力には、人それぞれの違いがあるから、人は「出発点」からして同じではない、この点がまずは問題となる。
それは身体能力のことでもあるでしょうし、別の技術能力であることもあるでしょう。こうした条件は、それを持つ人によってバラバラなのが当然なのです。
たいていの「技術」は、それを得るために、何らかの前提となる技術的能力を必要にするので、これを発揮できるようにしておかなければならない。しかし、そう思うようにはならないのが現実というものだと思います。

二つめは、「環境」の側にある人それぞれの差であって、環境に恵まれていて後押しされるように生きている人もいるかと思えば、逆に、自分の周りの環境に足を引っ張られているのと同じ境遇にいる人もいる。
この場合も、それぞれの人の条件はバラバラです。

それだから、「技術」を学ぼうとする人たちは、みな得られた結果はバラバラになる。まったく同じ「技術」を手に入れるということは、起こらないわけです。

「技術」を取り囲む、二つの条件の違いを思えば、「つぶぞろい」の人材を育てることは、そもそも難しいと言える。
それでも、人々は、自分たちを鍛え上げて、社会が望む「技術」や能力を発揮できる存在にまでなろうとします。

だから、結果的には、きわめて優れた人たちも表れることになる。しかし、見て来たように、優れた人材を集めるということは、いつの時代でも難しいものです。

そして、一定の能力を持つ者なら、社会の役割を果たすことができるものとして、その先の道への権利を手に入れることになる。

「技術」を手に入れるには、つまるところ、その「技術」に合わせた努力をするしかありません。
「技術」というものも、その正体は社会に蓄積された知識、または仕事の仕方の集合体です。
だから、「技術」を得る時には、それを持つ社会の側の都合に合わせることになる。
この場合、その「技術」を教え伝える役目をする人は、いわば社会の代表者となっていると考えてよい。

よい教師に出会えるかどうかも、「技術」を得る条件にとっては、いつの時代でもたいへんに重要なことです。

しかし、いい教師に出会えるかどうかも、偶数や環境側の問題と兼ね合って来るので、やはり難しいことに変わりはないのです。

しかし、そもそも「技術」を得るということは、自分でもわからないはずの未来を託すことと関係して来る。
何をすればいいのかということが、「技術」の道にとってはよく見えていないということが常にある。無論、見えている場合もあるでしょうが、その幸運も過信はキンモツにしておいた方がよいでしょう。

これは、環境の中に生きる場所と可能性を探す人間にとっては、自分で完全に操作することのできない問題であって、存在というものは、やはり環境からの圧力や要請によって、初めて適応の得るべき形を知ることになって行くものだということに、「技術」の本質もあるということなのです。

その意味でも、「技術」は、常に時間軸をたどることにとっては、その最後の結果が問題となって来るものなのです。

人々が、自分の生存や人生の課題を掛けた現場で、その最終的な結果をぶつけ合うために使うことになるものが、「技術」なのです。
私たちが、自分の持つ「技術」というものに自負を掛ける時は、こうしたものを問題にしている。

たとえていうなら、戦いで頼りにして持つ「槍」のようなものです。この槍があるおかげで戦える。それなら、槍を自慢にするようになるのは、当然のことです。
私たちが、技術に自負をかけるようになるのも、こうした意気込みを持つ気持ちと何も変わりはない。
この「槍」が、不十分なものであったり不満足なものであったら、十分な自負を持つこともできないでしょう。それと同じなのです。

そして、社会は、私たちの「技術」を蓄えている母体としての役割を持っています。
その社会から見るなら、人々の競争は、「技術」のあり方やその種類を、より進化させるさまざまな機会に過ぎないことにもなるでしょう。
もちろん、私たち一人ひとりには、自分の「技術」がもたらす結果が何より重要なものです。それで、うまく生きられなければ意味がない。

しかし、「技術」を得る問題も、社会との繋がりを考えねば、「技術」を得る意味もわからなくなってしまうものでもあります。

どの道、自分自身で努力して手に入れて行くしかない「技術」なら、より確実な「技術」との関わり方を知っておいた方がよいのです。

社会との関わりをスムーズにして、私たちが生きる世界での「自分の生きる道」を探し出して行かねばならないことも、社会力学からの有効な支援を初めからあてにできる生き方なら、ムダな不安や無益な労力とも簡単に距離を取ることができる。
コントロール不能と思われた問題にも、可能なかぎり集団内の適応へと修正させることができる。

逆ピラミッドの社会力学は、私たちの環境への適応の挑戦に、社会力学自身により可能なかぎり確かな道を手助けるものとなります。

自分の道は、どうしても自分にしか見えては来ない。しかし、人から見た方がわかりやすい場合も多々あると思います。

そのすべてを自分のための力学として活用できるということがわかれば、何も不安や悩みにかられることもない。
それは、明らかな問題がもたらす不安や悩みであっても、もっとも心強い現実の力でコントロールできるようになるということでもあるのです。