人は、他人におさえつけられて、いう通りになるようなものではありません。
ところが、人は、自分の力ならできると過信することがある。
それは悲しい過信です。
なぜなら、それはできないことだからです。
そもそも、自分だっておさえつけられて黙っていることはないでしょう。
それを、他人とみるや、おさえこんでやって行ければいいとなるのは、関係が途絶えているからです。
ようは、相手が見えなくなっている。
自分の都合だけでものを考えている。
だから、成功しません。
どだい、自分のためだけに人をおさえ込めて生きて行こうとすれば、周りがみんな敵になる。
これでは、勝ち目がなくなる道への選択を、自ら進んでしていることになる。
それがわからなくなってしまう生き方をしていることが問題なのです。
それは、相手を前提しない生き方に後退してしまっているからです。
ここから始めるから、周りを勝手に敵にせざるを得ない。
実は、自分が相手にしてもらえないことを、どこかで悟っているからでしょう。
だから、敵対視と敵対視のぶつかり合いが前提になってしまっているのです。
これではダメで、ムダにぶつかって労苦が増えるだけです。
そのくせ、強い者には徹底して従わざるを得ないという、意気込みとは逆の情けない結果になってしまうだけでしょう。
人を黙らせておさえこむなど、どれほどの力がいると思っているのでしょうか?
それでも、人は、孤立しているほど、こうした意気込みに駆られるようになるものです。
人は、誰も黙りはしません。自分だけがいいたいことを言おうとした時点で、負けだと思ってよい。
うまく生きるには、むしろ集団の力を味方につけることが必要です。
どのみち、誰もがそこへ向かうのです。
だから、逆ピラミッドがもっとも楽で強い生き方だということになるわけです。