「思考の起源」と、動物との友情 | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

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なせ動物たちと、「心の通じる」経験を作ることができるのか、考えてみたことはあるでしょうか?

人間通しでもわかりあえないことがいくらもあるのに、言葉も通じない動物と、心が通じ合うと感じられることがある。

身近なペットのような動物たちなら、普段から世話をしているのだから、まだ「なつく」ようになるのは当然だと思うこともできる。

しかし、「世話」をすればなぜ動物は「なつく」のか、「なつく」ということには、生きている者にとってどういう意味があるのか、考えたことはあるでしょうか。

世話をしただけで動物がなついてしまうのなら、その動物は簡単に獲られてしまう可能性がある。
生物が進化の課程で生き延びる力を得てきたのなら、世話をされただけで「なつく」ようにはならないようにもできたはずです。
しかし、実際には、人間をはじめとしてさまざまな動物たちは、世話をやかれることで、意外にたやすく心を開いてしまうところがあるのです。

単に生き残るためなら、世話をやかれたぐらいでは相手を信用しない方がよい。
しかし、現実の生物は、信用しています。子どもは自分の親を信用し、親はまた子どもを信用しています。

その中に、疑いが生じるとしたら、疑う理由が起こったため、またそれを知ったためです。それを知るまでは、文字通り疑いを知りません。
さらには、疑いの必要がなくなったなら、また信用が戻って来る。やはり信用は、疑いよりも長い関係線を持っているようです。

確かに、疑ってばかりでは、生きるのにムダなコストばかりかかるようになってしまいます。親子関係だってまともに繋がりません。

進化が生きる危険を生物に感じ取れるようにするためには、そのための「機能」を与えますが、それは環境をコントロールすることはできません。
それは、せいぜい対処するだけです。

生き物が自分の環境に触れ合った時には、環境との関係法が自分の持つ機能の中に生じます。
それは、存在しているものの「全体」の中に生じるわけです。

結論を言えば、この全体の中に生じる力学は、「約束」の力学を作るものとなる。

「思考の起源」の記事で見て来たように、約束とは、「生き方の起源」からやって来るものです。
幼児期以前の生き方の起源が体験されていて、そこが真のホームであるから、そこに帰れるように外に出ようとする。または、そこに帰れるのは当たり前であるから、帰れることを前提にして、その外にある世界へと繰り出す。
その内と外を繋ぐ関係の線が「約束」です。
私たち生き物は、「約束」の線をつたって外の世界を体験するのです。

この体験は、進化では直接にコントロールできないでしょう。
どんな進化をしても、その生物は環境の適応体験の中に、「約束」の完全性前提の意図を宿してしまうからです。
そして、進化とは環境の中で行われる本性を持っています。

この場合、それへの影響はあっても、コントロールはないと考えた方がよい。やめたりはじめたりすることはできないということです。
はっきり言えば、環境の中で生きている生物は、自分の環境を前提するしかなく、その意味で環境に依存した生き方しか持てないのです。

環境の中で生きる有機体(生命)は、その環境に依存して生きる宿命にある。有機体の活動は、環境を前提するということです。
つまり、環境以前に有機的活動はない。あるいは、有機体の起源とその可能性は、環境の持てる将来性がゆるす活動にとってあるのです。
意識も同じです。意識は、意識全体を生み出すことはできず、出来た意識の環境の中で意識を作り出しているのです。「出来た環境」には依存するしかないのが、生きているものの変わり得ない本質の一つ、引いてはそれが存在の本質なのです。

だから、約束も環境の中ではじめて生まれる。
いかなる生き物も、「約束」の完全性前提の意図のもとに、自らの活動をはじめることは変えられない。
それは、「勇気(状態回復)」の本源でもあるし、不安や危険を感じるための、それを感じさせる土台でもある。

少し話しを戻すと、疑いとは「約束」の繋がりを失ってしまうことに生じ、疑いからの回復は、再び「約束」を取り戻せることに起こって来るのです。

その意味での信頼は、ペットでも野生の生き物でも違いはない。ただペットたちは、もとから人のそばにいたため、人に「なつき」やすいということはあるでしょう。
そして、なついた犬たちなどからは、人間に近い信頼のようすを見て取ることもできる。

信頼を知った動物たちは、実にあけっぴろげに心を開いた態度を示してくれる。
そして、「約束」を守ろうとする。言い換えれば、いうことを聞こうとする。
ただし、生物学的条件が変わるわけではないから、人間と同じになるわけではありません。動物には動物特有の産まれ持った能力や反応があるので注意が必要です。

すべての動物は、本来のその動物以外のものに変わることはありませんので、注意をおこたらないようにしてください。
この記事を読んだ後、犬に手を噛まれたなどの事故があったとしても、私が替わって責任は負いかねますのであしからず。

動物たちの示す態度は、結局、人間の理解にも役に立つでしょう。
あるいは、動物の理解から人間を見た方が、より人間が理解できるかも知れません。

動物とは、言葉が通じない分、扱い方や態度など、普段のかかわりが重要な意味を持って来ます。
動物とはいえ、このかかわり方に「ごまかし」があると、動物たちは手を抜いていることを見抜きます。あるいは、手を抜いたら、手を抜いたレベルの関係しか持てなくなる。
手を抜いてしかかかわらない人間に、動物たちばかりが期待を持ってかかわり続けるということはありません。その点では、むしろ人間と同じだと思った方がよい。
手を抜いてかかわる人には、誰も大きな期待を持たないことでしょう。動物は、言葉が使えない分、人の態度をよく見ています。たとえ、ペットでも、ごまかしあるかかわりからでは、そう都合よく信頼だけ得ることほできないでしょう。

人間とかかわる内に、人間と同じような態度を身につけたりするようにもなります。しかし、同時に、動物はやはり動物であって、決して人間と同じになることはない。

動物を見る時に重要なのは、動物は、その動物自身の産まれつき持ち合わせた素質や能力しか持ってはいないということです。「それ」が人と同じような素振りを身につけることがあったとしても、決して「それ」が、その動物を越えて来ることはないのです。

そして、人間も同じ。その人が、その人自身を越えて来ることはないのです。あくまで、その人として「自分の能力」を使って越えて来る。
その人自身がかかわって来る仕方が、当の本物だということを忘れてはいけないでしょう。

本物の相手を見ていない関係は、「見やすい夢」を見ているだけとかわりがないところがある。

手間は掛かるかも知れませんが、偽物ではないのだから、それで当然だと思うのです。

それにしても、人がときに示す、自分勝手な態度は、動物たちの自分の側の欲望に都合がよければいい、というレベルに似通うものでしかないと、本当に言葉も通じない動物を相手にしているのと変わりがない。

自分のためにすべてを引き入れ、自分のためにすべてを消費し尽くす。そういう人とは、会話もろくにできませんが、なぜそうなるかを理解することはできる。

いくら、自分の中に閉じていても、「約束」で考えていることに変わりはないからです。

そして、「約束」は、その本当の舞台を社会に持つ。
だから、私たちの現実の社会で自分勝手な「約束」が通用しないこと、むしろ、勝手なことばかりをしていると、もともと可能だったり、まだ可能なはずの現実の可能性さえなくすことになることを伝わるようにすれば、そのことの意味は、言葉を越えたところででも伝わるようになることでしょう。

勝手な夢を追うのは、現実以上の可能性を求めているからです。
それがむしろ現実から夢を奪うもととわかれば、しがみついていることなどできはしないのです。

現実の圧力というものは、結局、私たちが現実に生きる意義と意味そのものです。つまり、生きていることの価値を感じさせてくれるものです。
現実よりうまく行っていると思い込むための「ただの夢」より、現実に生きるために使う実行力の方が、はるかに力が強いということを、誰もが知ることができるということなのです。