甘えの基礎構造 | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

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「甘え」とは、人にとってもっとも強い衝動を持つものでもあります。
甘えについて考えておくことは、人の世で生活して行くには、一つのかかせない人間性理解となって、その後の適応やわきまえに強い力になると思います。

この記事は、人間理解としては、「思考の起源」に続く位置づけして、甘えの関係を作っているものの基礎について考えてみます。

「甘え」といえば、有名な土居 健郎氏の『「甘え」の構造』がありますが、この記事のタイトルは、それにあやかりながら、しかし、独自の視点でさらに甘えの深淵へと斬り込もうとするものです。

土居氏は、「甘え」の言葉が日本特有のもので、諸外国にはみられないという観点から日本語に特徴的になる「甘え」の文化についての考察をなされていました。
その後、他の国にも似たような言葉はあるということや、言葉はなくても「甘え」の文化はあるという、「甘え」の普遍性への考察に進まれたようですが、「甘え」そのものの定義や考察という点では曖昧なものが残った気がします。

この点では、土居氏自身は、「甘えとは定義不用の自明の語である」という考えに示されたように、「甘え」そのものの定義には熱心ではなかったようにも見受けられますが、一方では定義なしのままでは不便なためか、さまざまな観点による定義、またはそれに近い論点は残されているようです。

それらを読む限り、「甘え」とは、人の自主的な欲望の表れが重視され、人間の活動や文化にとってかかせないものとなっていました。
だとしたら、その「甘えとは何のためにあって、なぜあるのか」や、人間にとっての「甘え」にはそれが必要な何かしらの根拠はあると言えるのか、といったことも追究してみたくなります。
この記事は、そうした探求の欲求をかなえるものでもあります。

また、著作にも書かれていた、犬にも見られる「甘え」と、人間の「甘え」には違いがあるのか。ということも知りたくなる。

実際、「甘え」は、時代を問わず、また文化を問わず、土居氏の研究にあるように普遍的な性格を見せるものです。
はっきり言えば、人間にとって、「甘え」はなくてはならない人間性の繋がりを作り出す。そのための価値と意味を持ち続ける、人間性の本性の一つと見ることもできる。

ここからは、特に私からの主張ですが、まず、「甘え」とは、人間の生物としての意思の特徴を伝えて来る、自己の内的方向性への力がみられることをおさえておきたい。
つまり、「甘え」とは、環境において自分の力で生きる生物の向かうべき方向性としては、その逆を示すものであることを指摘したい。
ふつうに考えても、「甘え」ているだけでいては、自分が生きられません。
生きられても、生きられなくなる。

生きることにとって、「甘え」は役に立たないとも言える。それなら、なぜ人は「甘え」ることを自主的に求めるのか?

自分が生きられなくなるのに、なぜ?
「甘え」ていようとするだけでは、明らかに、自ら生きようとするはずの、生物が求めて行く方向性とは逆を向いてしまいます。だとしたら、「甘え」ることは間違っているということでしょうか。

「甘え」は許容してはいけないのでしょうか。確かに、場や節度をわきまえず自分からの要求を本意に、周りの迷惑をかえりみず押し通そうとするような人には、「甘ったれるな!」と叱られることにもなって来ます。

この点、「甘え」は、社会で生きる上は必要とされる責任や義務、つまり自分の「仕事」とは、その方向性が逆です。
まさに、この点にとって、生きる力学に秘められた「甘え」の構造があるのです。

責任を逆転するとは、無責任になること、仕事をしないようにすることです。だから、ふつうは無責任では生きられません。
しかし、無責任を受け入れてくれる人や相手が居れば、何も問題がないことにもなる。

はっきり言えば、「甘え」を原理的に理解するためには、「環境」が必要になります。
固体をかこむ環境があることで、「甘え」が可能になることをみなければならない。
ようは、ここを見落とすと、「甘え」は定義不能になるのです。

人であろうが動物であろうが、最初は力がありません。産まれてすぐは、どんな動物も、まだ、ろくに力がない。
でも、それでも生きられるわけです。そうでなければ、生き物は死滅してしまう。

そして、自分の力を使うことなく環境に生存条件を確保することは、「甘え」ているのと同じ結果になるのです。

鍵は、固体の周りの環境にある。そもそも、生き物が適応するとは、環境に適応することです。
その環境が、力のない産まれたばかりの子どもの頃は、生かしてくれる。
原始的な生物の場合は、最初の生存から環境の偶然にゆだねられているだけですが、高度な生物になれば、親や周りの世話役たちが世話をしてくれる。
それだから、結果から言えば「甘え」ているだけでも生きられるわけです。

そして、生物は、始めは、この環境の無条件の恵みへの安泰感しか知らない。
それしか知らないで、産まれて来るわけです。

いったん産まれて来れば、生まれ持った生物的能力が危険や不安を自然に感じ取り出すことになるとしても、生物の始まりは、無力な自分自身が固体として形作られる母胎の中や卵の中の、自力を全く必要としない環境があって「生きること」が可能となっています。
「甘え」という点では、この場合は完全に「甘え」ているのと同じことです。

ようは、環境から見れば、生物の初めは、「甘え」ていても生きられる。
生きるために、自分からは何もしない。完全に「甘え」ていても、生きられるのが、生の始まりの姿なのです。

人や生き物が見せる、「甘え」て居て当たり前という態度には、生物自身の始まり方に由来する、宿命的な「生への感じ取り方」がある。

そのことが、私たちが知っている「甘え」の、すべての感じ取り方の源流にはある。これは、「甘え」の生命的普遍性を意味します。生き物にとって、甘えることは、「ふつう」に生きることと何も変わりがない。
生き物にとって、「甘え」ていることは、何よりも自明的なあり方であることがわかるようになるのです。
生きることにとって、すべてを前提する感じ方として。

これが、まず私の言いたいことです。

次に、「甘え」には、自立すべき主体にとっての、現在の仕事の問題に取り組みつつ表れる、自主性に反する「甘え」がある。この「甘え」は、ようは仕事が求められている状態の現在から、責任を負わされないでいい状態への回復を願うものとして表れる。それだから、過去や未来への憧憬という情熱をともなうものとなる。

今の仕事を負わされるまで、過去にそうだったように、または未来にはそうなるように、現在の責任からの解放を求めているところに「甘え」は表れて来る。

これには、社会的責任というものが、完全には主体の意識と同調の取れない問題であることが根底にはあって、主体はやはり主体の側の都合で生きたいという願望やわがままを持つから、社会の指令とはぶつかるところを持っている宿命性があるわけです。

責任とは、特に社会生活上で、生活秩序を可能にするための労務の負担を自主的に負うことです。
原始的な生物が、単に生きることを求める場合にも、同様の、生存に必要な活動はやはり行わなければならない点では、責任というものにはもとよりの普遍性がある。
そして、社会的には、これを仕事と呼ぶことになる。

「甘え」の基礎の2つ目の観点は、仕事からの解放の問題として表れます。
それは、つまりは、責任遂行の負担からの逆転現象として理解することができる。
人には、やはり自分本意に生きたい本性があるから、そのために外部から要求や圧力は、「自分を理解しない者」からの、自分の人生に対する邪魔立てだと感じてしまう。だから、「甘え」たい。

「責任」を逃れていたい。それも、できればいつまでも。

それというのは、環境の「見方」に従って生きているだけでは、自分が温めたい思いはいつまで経ってもふり返られもしないと感じられるからでしょう。

自由をかなえたいわけです。

しかし、これは「認められる」自由ではない。だから、歪めた理屈をつけたり、ごり押ししたりする。

自由は、環境からの承認を得られなければ、本当の力にはなれません。

「甘え」のわがままにとって、自由は頼りにはならないのです。
替わりに頼りになるのが、周りを自分の思うように動かせる「言い分」です。この言い分にとって自由は使われて来る。

しかし、自由は使える範囲にもあるので、やれることには手を出せる。
だから、黙って自分のやりたいようにやろうとしたり、自分勝手を抑えることもできないままにやれることはやる。

環境から「責任」の負担を求められて来るのは、常に現在です。それを、仕事への圧力として感じ、これを受け入れたくない場合、また受け入れられない場合、人は「甘え」ようとします。
つまり、果たすべき責任からの「自分本意」の解放を求めます。

仕事をすべき現在から、仕事のない過去や未来への回帰の渇望が意識に昇る時、そこには「甘え」ることへの絶えることなく憧憬があることでしょう。

「思考」の基礎力学は、こうして「甘え」を理解させる。

適応を求める者の、「甘え」るという自主的行為には、こうした生命環境の源体験への回帰の自明感を基にした、生命環境本来化への憧憬がある。
それは、何でもできる自由より以前の体験としてあるものです。

自由は、本来、求めるものを手に入れるためにあるものです。
しかし、この場合、自由は役に立ちません。

そのため、たとえ、何もできなくても、そこにはすべてがあると感じられる源流の生命体験が重視される。私たちに何を犠牲にしてでも大切にすべきものがあると感じさせたり、約束の繋がりの意味を、犠牲を問わずに維持しようとする意志と不屈の衝動の渦巻くことの力学的源泉となっている。

意識に湧き出す、不動の信念を湧き出させて来る約束の力学の繋がりの源流なのです。(約束の力学については、「思考の起源」の記事をお読みください。)

この、何もしないでも大切と思えることが、何よりも大切であると感じさせる約束の道と繋がり、これを実行に移すための現在の選択が、「甘え」の衝動や信念を起こし、何をしてでもかなえようとする自分の道の動力となって、何よりも「主観的な」信念に同調するようになるのです。

それが、人から見て、わかりやすいものか、わかり難いものかを問わず、ある固体にとっての主観の同調は、主観に向き合うだけの主体の選択を完全に飲み込むほどの衝動の全体量を持っているのです。なぜなら、それは生の体験そのものの完全性から何一つ失うことなくやって来るからです。
私たちの意識の体験は、すべてその源流の骨格に繋がっていることによる、完全性からの衝動があるからです。

これに対抗できるものは、覚醒の同調しかないのです。それは、生命の実体験は、現に生きることが可能だとわかる、ごまかしのない実感にある。現状の生きる実感は、生命の源流との、まったく繋がった単なる変化だということを、現に生きることで確かめることです。

何も失うことはなく、あるのは、ただ変化だということがわかると、その変化は「私自身」と同じものだということがわかるはずです。

環境から見れば、私の体験は一つです。

環境から見た方が、生物の持つ本来性の意味がわかる。
そして、その中にほ、「甘え」の関係の広がりや、「甘え」に遊び出すことの意味もあるのです。

ただし、先に考察したように、「甘え」ているだけでは生きられません。
「甘え」に飲まれないように、現実に立つことで、現在の「甘え」の向こう側を見てください。幸い、現実はさして甘えさせてはくれません。意外に、現実は親切なのです。
概して、これが、「現実」が必要な意味でもあるのです。

知恵は、源流から現在に至り、そしてこの先の未来を目指します。
同じ一つの私がどう生きるかは、私だけが決めることです。しかし、それは現実に生きた結果、初めて表れるその知恵のあり方で決まるのです。

生きるとは、環境に出ることです。言い換えれば、環境に向くことです。そこで得られた知恵だけが、唯一本物です。

最後に、逆ピラミッドの知恵について言うと、それは甘えているのと変わりがありません。現に社会に甘えて生きているわけです。本気で「楽」になれるのには、そこに理由がある。
にもかかわらず、環境にゆだねて生きる知恵が、自分を主体へと覚醒させる。環境的に主体化させる。
この力を持った方が、自分に力がつくのです。
環境に認められた自分の方が、ごまかしのない自分でいられるのです。その方が本当の自由にもなれる。
逆ピラミッド力学はそのように考えられて作られているのです。
だから、自分になれる。