人の本心やウソは、その正体を継続性の線に表して来ます。
つまり、人が見せる連続性の線で関係のあり方を知ることです。
線で見れば、相手が「本当」に言っていることの意味がわかりやすい。それは、いやでもわかって来ざるを得ないように、相手の正体を見せて来ます。
それというのは、やはり継続的に見れば、その人が本当は何をしている人で何をしたい人なのかが隠しにくくなって来るからです。
対して、ウソは点です。ウソは、関係線の中にある何かを隠すためにするものだからです。
すべてを隠し尽くすことはできません。それは人間わざではない。
しかし、ウソを頼りウソを過信するような人は、たいてい自分のやっていることにうぬぼれていて、自分のウソが通用しないはずがないと本気で思うようになってしまっている。
それは愚かな慣習を表しています。今まで、そうして生きて来れて、それで済まして貰って来ているから、いつしか、それで当たり前になっている。
しかし、その人の周りの人が、それでいつまでも合わせてくれる保証はない。
ウソはことを歪めるものなので、周りの者がそれで困るようになると、もうウソを受け入れる余地がなくなる。
だから、ウソが通用するなら、それはたまたま周りの人たちがそれで済ましてくれただけ、保証がない行いが続くのは、それがただの慣習であることを表しているのです。だから、ただの慣習でしかない「ウソ」が続くのは、実は、周りがその人のウソを受け入れてしまっているからに他なりません。
あくまで事実を共有のものとする限り、ある人のいうワガママでしかない「関係の点(ウソ)」を、よく影響を考えることなく受け入れてしまうということは、よいことであるはずがありません。
それに、客観的に「関係の線」を見るなら、「ウソ」はいつまで経っても「ウソ」です。人為的に歪められた点でしかありません。
問題は、なぜそれを私たちの所属する仲間通しや組織の間で通用するものとしてしまう「慣習」があるのか、ということです。
この慣習は、社会が持つものの方です。個人が勝手におちいる慣習ではありません。社会が人のウソを受け入れる慣習を持ってしまっている。個人でウソをつく側は、この社会の側の慣習に無為にしなだれかかるようになっている。
それが、まるで頼りがいのあるものでもあるように。しかし、まったく保証はありません。
「関係のウソ(点)」は、ただ見逃して貰ったものに過ぎません。そこに、頼りがいのあるスーパーマンでもいるように見なしているようになるのは、ただの錯覚です。
ウソに味方をする人はいます。確かに、そういう人はいる。そういう人がいるせいで、ただの歪みによる個人の間違った欲得が、まるで通用して当たり前の正義に逆転して見えることもある。
それは、やはり周囲に、ウソに味方する前提の空気のようなものがあるからです。それが慣習です。
ではなぜ、集団や組織はある人のウソを受け入れるのか。それはまず組織の利得を優先するからです。ウソは相手を騙すもの。そのために、「相手のため」にやっているというような形を作る。
組織としては、それを受け入れた方が簡単だし、得に見えるからです。
しかし、ウソは歪み。いったんはそれでよくても、長い目で見れば、損を取る可能性の方が強くなる。歪みは歪みのままだから、ウソの味方についたら、結局は、事実つまりこれを共有する人々の裏切りにしかなりません。
人々を裏切り、それでもウソを確保するのは、いったん人を裏切って手にいれたウソの利益を手放せなくなっているからです。
それは、単にウソで得ができなくなるから、というような内的なものから、ウソをついて裏切りの欲得確保に走った自分たちを、もう受け入れられなくなっていることでもあるでしょう。
組織では、その中間にいる人たちも多い。いや、人間はウソをつき、またウソをついてしまい、またウソになってしまうことをするものなので、ウソと無縁である人はいないのです。
しかし組織としては、「ウソはない」という態度を崩すことができない。社会はあらゆる意味で競争だからです。自分たちの競争がうまく行かなくなることを受け入れることはできなくなるのです。
ウソとの戦いは人間にとって永遠に続く課題と言っていいでしょう。
問題は、人間にとって無縁とはなり得ないであろうウソとどうつき合うかです。
あまりに破滅的なウソは、やはり受け入れるわけにはいかない。しかし、組織が病んでいれば、信じられないウソがまかり通ることもあります。そこでは、人事にかかわる人などは、その人自身がとっくにズルさに寄り添うようになっていて、自分たちの古いやり方に都合の悪いものは、目の前にあっても見ないで済ませる慣習が身に染み付き過ぎていることもよくある。すべては、認められないウソから逃げるためです。
それでも、「関係の線」に表れて来る客観的な事実としてのウソを否定することは、誰にもできない。
そして、それを確認するためには最良の鍵である連続性の視点を使う。
ウソをつく人は、やはり自分からウソをつきだす。それは、やはり客観的な「関係の線」に表れて来ます。その人がどういう人なのか、事実にもとづく人か、ウソを好む裏切り者か、さらにはなすりつけもやめられない人なのかは、人の生きる連続性の上に本性として表れます。その人自身が向かおうとするところに表れる生き方の線には、そこに「つぎ込まれた力」の表れとなる人生力学の集約が不可避の結果として表れて来るからです。誰の力も限られている。だから、それをどこにつぎ込むかということになって来る。
こうした、連続性の把握を可能にするには、やはり協力者がいることが多い。味方をつけることです。
しかし、組織の理屈でウソに荷担して古いウソの甘みにしがみついていようとする人も、どこにでも普通にいるものです。
結果から言えば、社会から味方を得るには、自分自身が社会の側の味方である必要がある。それでも、社会の味方がすぐにかけつけて来るものでもないでしょう。
戦いが長く続くほど、それが避けられないほど、事実と共に生きる健全で正しく楽しい生き方をするには、やはり私には、逆ピラミッドの楽な生き方を使い生きることが最良に思えます。
この力は、およそ原理的に最強です。社会に生きる者なら、結局は自分たちを自分で裏切ることはできない。その社会力学を呼び込みます。
逆ピラミッドの力を使えば、今は結果はまだ見えて来なくても、実はもたらされるべき結果は見えている。
自分たち自身で、自分を裏切ることができない矛盾を利用して、社会のすべての力を自分のために使うことができるのです。
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