18 責任の力学 | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

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責任の性格とは、自分で取るものであることが基本です。


自分が何をするかを自分で決めることに、責任の意味がある。ということは、責任とは、やはり初めから社会的な性格のものなのです。

社会的に自分が取るべき責任を何も取らないのに、それを責任と言っても通用しない。これは実際には、ただの無責任であって、たいてい独りでカッコつけたりしていますが、その分、ブザマです。

人にとって責任とは、社会の中で何をする人なのかを考えることで見えて来る。
つまり、それを考えずに、自分で勝手に責任の筋や範囲を変えてしまうことは、どうしても無責任の道なのです。無責任に徹すると、どうしてもひとりごちるしかない。そして、おかしな人になって来ると、ひとりごちた理屈を逆に周囲に押しつけ出して来る。こうなった人は、自分がおかしいとは気づきません。勝てると思えば「押しつけ」、負けると思えば「隠し通す」。
どちらも責任ではないのです。
誰も、そんなことをしろとは言っていないからです。

・知恵ある責任の視界

社会の働き手にとって、責任とは常に自分が負担を取ることと関わって来ます。だから、その線で考えるのが一番矛盾がない。
そして、その線で考えるのが、一番簡単です。

責任ある行いのためにする選択が、自分の活動範囲や方向性を制約して来ます。自分がある負担を取ることで、自分にできることが制約されるからです。
誰にとっても、できることには限界がある。

自分の限界のために、それとは矛盾のある活動ができない。

ところが、それが無責任にとらえられることもある。

相手は、相手目線で見て来るからです。

しかしこれは、現実の無責任とは話しが違う。
無責任は、取ることが求められる責任を取らない。

私たちが現実の責任を取っているなら、それは基本としては合理的に話しができる。そして、この現実の合理は、私たちの思考現実が作り出したものなので、簡単にあけ渡せるものではないはずです。

もし、合理を明け渡さざるを得ない時でも、その後の処理を合理的にできるように考えて置くべきです。

私たちに起こることは、すべて社会現実の中の出来事だということを忘れてはいけません。
つまり、社会的存在にとっては責任がないことはありえないのです。
しかし、私たちは、責任をもって生きることで、権利を得ることができます。

社会は働く者に、社会で生きる権利を与える。この権利のもとに、私たちは私たちの生活を作ったり財産を得たりする。

簡単に言えば、責任を取らない者に、権利は与えられません。

無論、法律的にはある程度の権利は与えられる。しかし、自らの責任で働ける者ほどの豊かな権利は与えられません。
社会がそのような構造でできているからです。

それでも、無責任に甘い夢を見ていたくて、自分の責任からは徹底的に目をそらし、人には自分のやっかいごとや面倒見の仕事を何もかもおいかぶせようとする者はいる。しかも、自分がみっともないことをしていることまで人のせいにして、とことん、自分だけ「いい気」でいようとする。そうしたことが臆面もなくできるのが、無責任な人です。

そうした人は、自分に責任があるということがそもそも分からないし、逆に責任をそらすことをやめないものでもあります。

責任転嫁にはさまざまな手口がありますが、つまるところ、自分がやって当然の負担をとらないことを手口の基本とする。そのくせ、根からカッコつけです。カッコをつけるためなら何でもするが、決して責任は取らない。
だから、無責任を認めても、本当に無責任な人は、そのことで負担を少なくしたり、むしろ逆に強い責任感があった「ふり」に転じようとします。
責任も「ふり」だと、逆に、自分のいい思いだけを、またそこから取れるだろうと、思いなしてやって来るのです。
無責任について、くどいほど書くのは、結局、この世で一番恐ろしいのが、責任を知らず、知らないゆえに「責任芝居」を始めるような人たちであることを、経験上知っているからですが、それは、私たちが生きる上で、一番重要な価値観でもある責任の概念をもっとも粗雑に汚す不毛の動物性の持ち主だからでもあるのです。

ウソというものには人間の動物性がいやでもよく現れる。

個体としての動物は、やはり自分が生きたいだけだからです。
だから、ウソをついて無責任にもぐり込むようにしか生きられない人は、社会でうまい思いをしようとしながら、無責任のため孤独の動物で生きるしかない。ウソだけを頼りにしながら、夢も汚い夢しか見れません。

そもそも、人が責任をとるのは、責任ある生き方の方が、おろかな動物にもどった生き方より得だからです。人間は社会的動物であるといいながら、こうしたことが分からない人は、かなりいる。
その問題の本源には、幼児性があると見ています。

力学として見れば、得のある生き方を守ることは、私たちすべての責任になります。
しかし、何も難しいことはない。ようは、1つひとつの決まりごとを守って行けばいいだけです。
その究極の楽さが、逆ピラミッドにはあるわけです。そして、何ひとつ変わらぬ強さもある。

最後に、権利の実態は成果です。社会的に作られた責任行為の成果のことを、人々は権利と認めることになるのです。その現実に出て来た成果が、自分の責任の産物であるから、自分の財産に帰せられるわけです。
この財産が光り輝くものに見えるかどうかは、責任ある生き方に掛かって来ます。無責任な者は光りを見ようとしますが、カッコしか見えていません。責任ある光りを知らないのです。そのくせ、その自分を嫌います。おしきせ、なすりつけます。終わりなく。
しかし、責任を恐れます。

私たちは、責任ある光りを見て生きなければいけません。偽者をよせつけない、生きているということの光りを。



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