考えていることが自分の血肉になるとは、どういうことなのか。
具体的には、どういったことなのかを考えてみたくなりました。
ある記事を読んだことからの疑問ですが、「考えが血肉にまでなる」とは、どういう状態を指すのかが不明だったのです。
そこで少し考えると、これは案外、落とし穴のある発想だと思えてきました。
それというのは、考えが血肉になるということは現実にはないわけだから、それは気持ちの問題です。
つまり、自分に違和感がないかどうかを言っているだけとわかります。
「考え」とは、人間が動物として動く時に持つもの、いかに生きるかの指標を自分のために用意するものです。
自分の考えでも、他人が考えたものでも、その考えが役に立つことで取り入れて行くのです。
逆に言えば、いい考えと思っても、思っていた通りに行かなかったり、途中で信じられなくなれば、そこで「その考え」はやめてしまうでしょうし、続けるにしても、乗り気ではなくなってしまうことでしょう。
ようは、この「気」が肝心かなめの軸芯なのです。
気と考えが一致していなければ、「考え」が血肉になったという「気」はしない。
ようは、それは「考え」に本気になれるかどうかを言っていることになるのです。
「考え」が血肉になると言った場合、それ以外のことは現実の範囲では言われていません。
ある「考え」に、本気になれれば、それにおうじて自分の血肉は思い通りに動くようになることでしょう。しかし、少しでも内的に不和を感じるなら、内的な調和は乱れを自ら生じる要因となる。
人間とはそういうふうにできているものです。
それでも、強い意志で乗り越えようとする時には、また「考え」が加勢して来ることもあるでしょうが、意識の「気」の段階はなかなかだませない。
つまるところ、自分をだますことは誰にとっても一番難しいことでもあるわけです。
ただそれは、自分の生き方にも掛かって来る。
自分がどう生きたかによって、「考え」の善し悪しが判断されて来るからです。つまり、自分自身に役に立ったかどうかで「考え」の扱いが変わる。
ようは、本気になれるかどうかです。ただそれは、実際に「考え」を使って、それもいろんな場面で、特に自分の人生に与える効果で、判断することになる。
つまり、自分の環境にとってどうなのか、ということです。
ここで、ごまかしをして欲しくない。実際には、何の効果もないのに、気持ちがそこへ向かうような、気持ち任せの「考え」だと、結局は逃げのごまかしだったと気づくことになる。あるいは、内的な合理化をずっと続けるかもしれません。
生きる答えは、結局、環境への繋がりにある。現実の環境に切り拓かれるような明確な構造のないものに貴重な思考の時間を奪われていることは、私には苦痛を約束されている問題でしかないように思われる。それはせいぜい、先送りに過ぎないからです。
いかに生きるかで、現実感の確かさと人生の確かさは決まって来る。つまるところ、環境に対する「ウソ」は、環境からの突き返しで戻って来ます。
価値があるふりでなく、現実の価値を感じてもらいたい。
私の哲学の原点もそこにあるのです。
「ふり」にだまされないようにするためにも、私たちには、現実への繋がりが必要なはずなのです。
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