となれば、私たちがいう事実とは、「事実として認められる」範囲のことだけをいうのでなく、あらかじめ事実として「ある」ことそのことを事実の表れて来る姿として含むことになる。
ようは、「事実として認められる」範囲とは、「事実として認めらていい」ことを言っているので、それは現に事実となるべきものにとっては、まだ不十分であったり、むしろまったく事実を反映してなかったりもする。
この世の中には、ことなかれ主義や間違った優しさ主義も蔓延しているからです。
・事実の普遍力学
人は、事実を足場にしてしか本当の意味では救われません。
私たちは誰にとっても自然を足場にして生きていることを甘く見るべきではないのです。
つい甘いウソをつきたくなることも自然の衝動の内でしょうが、だからといって自然土台の事実が、
ウソに合わせてくれることはありません。
ウソはウソであり続ける、ということです。
人は、ウソで甘い思いをしようとする。しかし、現実は酸いも甘いもすべて含んでいます。
それだから、甘い思いだけを追っていてはダメで、まずは現実を追って行くことから甘い生き方も手に入れられるようにして行くべきなのです。
現実を生きた方が、甘い生き方も手に入る。しかも、それは確実な事実として、自分の現実の利権になるということです。
誰に何と言われる必要のないことです。
ありのままと言った場合、私たちは、ありのままの事実を生きるべきなのです。
私たちの現実では、事実とは、事実として客観的に認められる範囲のことを言っている。だから、その事実では、私たちが追う事実ではないことがいくらもあることになる。
事実に対する態度ほど、慎重であるべきことはありません。
私たちが、何をするのにも、事実は何であるかか問題になる。甘いウソ、甘い態度に流される人はあとを絶ちません。
でも、だからこそ、事実を足場に生きる私たちは、まず守るべき事実があることを、まだ明らかでない事実も、確かな足場としてはありうるということを健全な公平性の立場としては誰はばかることなく認知の土台とすべきなのです。
まずは、明らかではなくても、確かな事実に向かう姿勢があって、そこから認められる事実を問題にして行く。その態度が大事です。
この公平性の態度があれば、どこででも、いくらでも話しができる。私たちが生きる事実のふところは、それぐらい深いのです。
そして、事実の探求者には、社会の働き手として、もっとも普遍的で、もっとも意味慎重な社会的立場が手に入る。真の公平性、それは主に私たちが作る「態度」によって作られますが、そうした人は確かに社会で重要視される立場におかれます。こうした人は、現に「話しができる」からです。とっぴな行動など何もしなくてもいちもくおかれます。
結局は、社会にとっても、こういう人は大事だからです。そういう人になることです。私たち誰にとっても大切な人材になるからです。
事実に対する公平性ほど、確かな甘さはないのかも知れません。そして、逆ピラミッドは、その恩恵をもっとも確かなものとする構造となっています。
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