19 人の心と、逆ピラミッド力学の必要性について | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

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ウソをつく人は本心を見せないことがあるが、これは本心を隠しているのでなく、自分の本心がどこにあるのか、知らないのである。
また、本心が無いのでもない。実は、自分の本心に気づきたくない人は、それがあっても気づかないようになるものなのです。そうした人の場合、本心は無意識にある。人は、無意識にでも、現にやりたいことはやっています。
 
力学的には「その場でつくろうウソ」のようなものでも、それで生きようとするのが隠した本心である限り、何よりその人の本心なのです。
 
人は、自分の本心が見えていないことも多い。そのことを取り立てて悪くいう必要はありません。つまるところ、私たちもそうだからです。必要なことの核心は、共感と理解です。しかし、私たちには、社会に生きる者として責任もある。
確たる責任の主体者としてある限り、私たちには無自覚では済まされないことがあるのです。
 
・力学の知恵には裏も表もない
 
力学の作用により相手の本心を見抜ければ、「この人は、どういう人なんだろう」と思い悩むこともない。
正体を見せず、うまく隠しているように見えても、実はむき出しであることも多い。正体などないのではないかと思わせて来ても、本当に正体が無いのでもない。
力学でやっていることの一貫性を見れば、見たままのウソつき態度が、そのまま正体であり隠したつもりの本性なのです。
 
態度というものは、本人が隠したつもりのものでも、どうしても出て来てしまうところがある。動物というものは、生きる芯の部分は自動的だからです。生きるのに大切なことほど関係では戻って来る。つまり、反射して来るのです。実のところ、意識は一番そとにあります。最後に「自分のことについて」考えるのが、意識です。その意識の力で生きねばならない。しかし、意識はつもり重なり、いずれはかしこくなる。
 
そのかしこさを、間違った方向に持って行ってはいけないのです。
ウソばかりのかしこさは、愚かさと変わりがありません。
ウソつきは自分を知りません。知っているふりはします。しかし、知りません。それは単に知ることができないからです。
 
実は、そのことはその人自身が教えてくれる。
 
自分の本心など、まるで興味がなく、自分で勝手に作った独りよがりなウソに浸かり、その中に、うまく逃げまどう意識があるだけとなっても、本人はかしこくやっているつもりでいるのです。
 
人間の本性から見れば、ウソの独善などバカさの極みです。
 
自分だけでなく、誰も彼をもバカさに引きずり込む。そうしておいて、「自分は」責任など決して取りません。最初から取る気がないのです。逆に、最後に責任を取れたふりを残して、その場から消えて行くだけでしょう。それでも、ウソだけはしっかりついて、最初から責任を取るつもりがあったなどの見せ掛けは取り繕うようになることでしょう。ウソつきは、バレた分だけそれをウソで塗りつぶしにかかるからです。もう、そうしないと生きられないようになっているからです。そういう動物になっていると思ってもいいでしょう。それも、見逃してはいけません。なぜなら、ウソの犠牲に会うのは私たちだからです。
 
何より、本人がやっていることなのだから、その意志が「本人でないはずがない」。力学関係で見れば、その主体性の繋がりは明らかなのです。
こういうことが、知恵の力学の観点では容易に見抜けることになる。
 
人はやはり、自分の本当にやりたいことには、自ら負担を取るのです。
その人はなぜそれをするのか。そうした「負担の自主性」の関連を追えば、おのずと何がやりたいかは見えて来る。この点は、誰にも否定はできないのです。
 
たとえば、めんどくさがり屋で怠け者の人が、ウソばかりせっせとつくのはなぜなのか。それは、たとえ口に出せなくとも、ウソで甘い思いをしようとしているからです。それができると思っているから、したいことはしている。そういう人の普段も、実に同じ類いのことばかり向いている。やって当然のことは極力やらず、やらされたら不機嫌であり、ズルさや楽さで目をかがやかす。
その繋がりが明らかだから、追求をかわそうとして相手の良心や好意に訴えかけ出す手口もお手のものである。無頓着なようで、最初から結果を見ているのだ。
こうした場合、それが完全に無意識だとも信じがたい。自分でもはんばは判明になって来ているはずのことです。でも、勝手に責任を取らないでいいことにしている。ようは、とことんズルいわけです。当然、こうした人ほどウソは手放せない。むしろ、自分の「ウソ」でしっかり考えているはずです。それでも自分の本心とは認めない。事実を認めると、損をするからです。それすら、本心から目をそらす人はわからない。
自分に対しても、ズルいのが当たり前、うるさい良心など黙らせてしまえばいいだけです。あるいは、意味のない雑音のようにしてしまうのでしょう。責任のない人には、そういう特徴が非常に強い。聞きたくない話しは、聞こえても、聞かないでいいようにしてしまうのです。
自分が自分のウソの中に逃げ込み、そうやって甘い思いだけを求め、辛い現実はウソの壁を作ってやり過ごす。そのために、ウソだけはしっかり作る。
 
自分の本心など、まるで興味がなく、自分で勝手に作った独りよがりなウソに浸かり、その中に、うまく逃げまどう意識があるだけとなっても、本人はかしこくやっているつもりでいるのです。
 
しかし、こんなものが「かしこい意識」であるはずがありません。
愚かさにあぐらをかいているだけです。周囲に甘え、自分だけはおおめに見て貰って、甘いしるだけは吸わせて貰おうというわけです。
確かにそれだけの生き方なら、とことん無自覚でもいいのでしょう。しかしそんなものを「かしこさ」とは言わない。
 
「かしこさ」とは、自主的な社会的行為に表れる特徴です。
ズルさを頼って、お目こぼしを狙うような者は、社会の中で欲望に駆られる動物に戻ったに過ぎない。どれほどウソをつこうが「自分」を知りません。
 
人の意志の繋がりを見るのにも、力学思考は一番なのです。その一貫性によって「人」がわかるからです。
 
「人」がわかれば、自分もわかる。一見、逆なようですが、私たちは社会的存在です。「私」が何ものであるかは、社会の中の位置づけにとって、知ることになるのです。
 
事実にとって、私が何ものであるかが、本当の「私」です。だから、事実に背くことをする人は相手にする必要がない。
逆に、ただ事実にとって何が表れているのかが問題なのです。
 
私たちは、「何が表れて来ているのか」を問題にしましょう。
 
事実としての「私」は、他人を知るようにしてしかわからないということがある。ただ一方では、自分にしかわからない主観的なこともある。その両方がそろったところに、現にここに生きている「私」がいるわけです。だから、「私」とは、やはり生きるバランスなのです。
 
主観的なものは産まれてからずっと体験していますが、客観的なものは主体的に取りにいかなければ、手に入らない。だから、責任感が主体性を目覚めさせます。
そうした主体性の行為が、社会を作る真の原動力となって来ます。
しかし、主体性にもさまざまなレベルがあって、社会的な責任は重くても、個人の責任は軽いという場合もある。こういう場合は、何か不祥事があっても、役職をやめたらそれで終わりということもある。とても責任意識があるとは思えません。何をやらかしても、辞めたら「はい、それで終わり」なのです。こういうものには、そもそも責任意識が求められていないとも言える。
 
ごまかしたらそれで済むという態度で人に迷惑をお仕着せ続ける人もいる。
こうした自分を知らない人は、現実ではいくらでも見つかることでしょう。
自分に対してもうまく逃げおおせたことにしたい衝動にとっくに負けている人たちは、逆にそとに攻撃的になる場合が多い。ようは、これも一つの幼児的な甘えです。
 
いつまでも甘えている人たちは、いつまでも「自分が偉い」と思い込んでいる。自分が思い込みやすいために、すぐに思い込む。だが、その現実感にムリがあるから、それを解決するためにせっせと「なすりつけ」るのです。こうしたことも、当然、無意識でできる。
無意識でありながら、それを権利と思っている。
しかし、そうしたことを無意識で済ませることはできません。また、ぜんぶ自分でやっているのだから、その「意志の線」があることは逆からみれば、自分で証明しているのです。まったく無意識ということはあり得ない。ただ、むちゃくちゃに不注意ということはあるでしょう。ただし、もとから注意する気はないのでしょうが。
 
中には、裏読みばかりする奴の方が信用できないと言い出す者もいる。どのような意図でいうのかはおいておくとしても、こんなものは「いいがかり」に過ぎません。
 
力学に表も裏もありません。ただ、力学があるだけだからです。あるいは、どちらから見たとしても、結局同じことだということになるのです。
力学思考により、見えるものは見えて来る。私たちは、ただ見えて来て当然のものを見ているだけです。
だから、そこに不公平などはないのです。むしろ、見えて当たり前のものから目をそらすことが、不公平の本なのです。
 
力学の関係線から見れば、言い逃れは効きはしない。ようは、足らないのは自覚なのです。自分の意識から言い訳を求めてちょろちょろ動き回っているから、自分が本当にたどって来た関係線に気づかないということになる。
これは人間の微妙な機微に関することでもあるので、それは引いては自分のことでもありうるということは、理解力や共感力を育てることには望まれる。
しかし、卑怯なだけでコズルいやり方に合わせる必要などは何もない。コズルく生きて、人生を損したいのなら、したい人間がすればいいのです。何も愚かな生き方にムリヤり同調する必要などは何もない。
かしこく生きたい自立的な人間なら、それぐらいの態度は持ちたいものです。
 
人生の選択は個人の自由です。
そして、社会的な人間なら、みんなと共に健全な道を切り開けるはずなのだから、自分で自分を無くすような生き方などはすべきでない。
だが、現実には、そうした手合いとの関わりは、いつまでも続くものでもあるのです。
 
こういう人間ほど、すぐに自分が何でも知っている気になる。「その場主義」は何でもして見せられるようでいて、本当は何も知る気がないのです。自分のことすら、そうなのである。だから、後先考えずに知ったかぶりができる。
意識もろくにないのに、こそこそズルい。ほとんど無意識の内に、すべてできるのです。
自分が偉ぶっているくせに、人を頼っている幼児的な人は、人が自分より何かを知っていれば、「それ」は自分が知っていたことにして貰えると思っている。
幼児の心のままの人は、それぐらいおかしな心を後生大事に隠し持っているものなのです。だから、こういう人とは、公平で平等な話しなど、どだいできるはずがない。
 
これほど愚かなことが、社会ではバレない下地もある。社会には、例の「ことなかれ主義」が蔓延しているから、解決するのでなく、抑え込んでしまうのである。抑え込んでおいて、それを解決にしてしまうのだ。当然何も解決などしていない、抑え込んだだけである。
 
実のところ、社会には、こういう人たちは手に負えないのです。末端での処理に任せるしかないのが現実なのです。
 
だからこそ、個人には個人での対処法が必要となる。
逆ピラミッドがそれには最適な役目を果たすことになります。なぜなら、自分の組織と、決して敵対することなく、にも関わらず組織を動かして行くことができるからなのです。
 
その動力は、自分にではなく、実は社会の方にある。社会自身の動力を使って、社会を動かすことになる。だから、社会が動くのです。
社会に問い掛け、もって社会を動かすのです。
 
「自分から何もしない」ことにより、完全的に、社会と同調することになります。だからといって、自分がなくなることはない。
私たちには自由があるから、である。