「受け取る」ことと「受け入れる」ことは違います。両方とも相手を認めていることにはなるのですが、その扱い方の意味はかなり違う。
私たちが現実のやり取りで、うまく人と接して行くための秘訣は、「受け取る」ことの方にあります。
ようは、いきなり「受け入れ」てしまうべきではないのです。なぜなら、「受け入れ」てしまうということは、私たちの共有しているやり方の中にすでに「受け入れる」という形をとってしまうからです。
人や相手を「受け入れる」ということは、良好な人づき合いには重要なことです。だから、まずは相手のいうことを「受け入れる」ことから話しをしようとか、一緒に考えて行きましょうということになる。それが集団の秩序や考えにとっても重要な態度とされてくる。
まず、相手のいうことを100%受け入れてあげること。それから話しをするようにしましょう、それなら相手の言うことも聞いているし公平な態度にもなる。うまく組織を回すためには大事なこととされるでしょう。確かに、集団の関係にとっては重要なことと思えます。
しかし、現実には、それを受け入れていいかどうかの判断をしてからでなければ後々問題になったり、すでに問題であると分かっているのに「受け入れ」なければならないことになってくる。
これは考えてみれば非常に危険なことです。相手がどんな人間であるか分からないということは、非常に危険を含んでいます。
こうした問題は、集団にとっても個人にとっても、常に身近で切実な問題であり続けることになるでしょう。
無論、相手の言いたいことを受け取らなければ、話し合いにもならず、集団の関係や利益も停滞します。それでは困ったことになる。
では、どうするか、という時に、「受け取る」ことが重要性を増して来ます。
「受け取る」ことは、相手のいうことをいったんそのまま受け取るが、それに対する当否や是非の判断は後回しにするということです。
「受け入れる」ことが私たち集団の秩序の中に、まず組み入れられることを意味するのに対して、「受け取る」ことは、私たちからの態度は保留にしながらその言い分だけを受け取ることになるのです。
つまり、中立な立場を取るということです。良いか悪いかは後回しにして、相手の言いたいことは「受け取る」。この態度で、私たちが共有する考え方や決まりごとに受け入れながら、しかもそれがどんなものかも分からないまま、いきなり私たちのやり方に組み入れてしまうという危険をおかすことなく、態度を保留にしながら受け入れることができることになる。このちょっとの違いが大きいのです。
さらには、この「受け取る」ことの私たちの側の持つべきいとまも与えない相手には、ことさら注意した方がいい。相手に判断されてはまずいものを持っているからでしょう。
そういう相手は、自分の言い分だけを通し、相手の都合を受け入れることができない。自分を隠し、相手だけを自分の思い通りに動かそうとする。アメと鞭を振り回すように相手の意図だけを自分の好きなように誘導するような人もいます。
「自分のため」であることを隠すために「あなた方のため」であるとか「オマエのため」にやってるんだなどという言い方をする人も、自分の正体を隠すために言っていることはままあります。
社会力学を使う逆ピラミッドの考え方でも、社会秩序の中に身を置きながら、いったん判断を保留にして、中立な立場で社会からの判断をあおぐということは、強くて楽に生きられる方法を身につける上で重要なのです。