関係を改善しようと躍起にならないことの大切さ

 たとえば会社などで苦手な人がいたり、数人のグループで聞こえるように皮肉や悪口を言われたりすることがあるとします。そういうとき、日頃からまじめでコツコツと努力を重ねられるような人(Aさんと呼びます)は、人間関係のトラブルにたいしても、どうにかしなければいけないという気持ちになってしまいます。完璧主義ともいえます。

 このAさんの人の場合、とにかく頑張ってしまいます。心理学系やスピリチュアル系の本を読み、セミナーやカウンセリングに通い、相手にたいしても思いやりを持ち、誠実な態度で接しようとします。返ってこないとわかっている挨拶も毎朝します。もちろん、他者に思いやりを持つことや、誠実な態度を取ることはとても大事なのですが、Aさんのような人たちは無理をしてしまい、その割に状況が変わらなく、体調を崩したりうつ状態に陥ってしまったりします。

 しかし、どうして必死になってしまうのでしょうか? こういった行動の根底には、外側の状況や人を自分の思い通りにコントロールしたい、という欲求があるからです。流れにそむいて泳いでいるようなものなので、疲労困憊してしまいます。

 ここで、そういった人間関係に見舞われてしまった場合の対処法のひとつを紹介します。

 まず、関係を改善しようと躍起にならない、ことです。

 関係を改善しようと躍起になると、問題自体にエネルギーが注がれてしまいます。本を読んだりセミナーに通ったり、自分にたいする判断やイメージを良いものに変えてもらおうと必死になっているとき(「これだけやっているのに、どうして状況が変わらないの!」というほど)は、そこに問題があることを認めていることになるのです。なにがなんでも解決しなければならない、と思うと、問題はなくなりません。

 良い例となるので、ここで反戦運動と平和運動にかんする、マザーテレサの有名な台詞を用いて説明します。

 マザーテレサはある日、「反戦運動に参加しませんか?」と誘われました。しかし彼女は「わたしは反戦運動には参加しません。でも平和運動なら喜んで参加します」と言ったそうです。反戦運動は、わたし達の世界には戦争がありますと宣言していることになり、戦争があるという問題に膨大なエネルギーが注がれてしまうからです。なので戦争は絶対になくなりません。むしろ問題を大きくしてしまいます。戦争という出来事や、戦争を利用して利益を得ようとしている国にたいする憎しみをベースに、反戦運動は成り立っているからです。結果、憎しみは憎しみを生み出します。

 しかし、平和について祈る、平和運動の場合は、わたし達の世界は平和ですと宣言していることになります。祈りの会などを設け、そこで知人やそうでない人たちと集まって、平和について静かに祈れば、人はひとつになれます。愛をベースに、平和運動は成り立つからです。愛は愛を生み出し、やがて戦争のない世界が訪れます。(このくだりを参考にすれば、集団的自衛権がどのようなものを生み出すかわかると思います。守らなければいけないということは、攻撃されます、という状況にエネルギーを注ぐことになるのです。)

 話は戻りますが、この問題を改善しようと躍起にならない、流れにまかせる、ことで問題に注がれていたエネルギーが減っていき、やがて問題自体がなくなるということはできます。

 ただ、自分はいつも苦手な人を引き寄せる、人に悪口や皮肉を言われたりする、という傾向があるのなら、そういう恐れ(信念)があるということなので、その恐れを手放す必要があります。その恐れを手放さなければ、会社といった場所を変えても、同じような人物を引き寄せるのです。また、躍起になってうまく関係が改善されることもあるとは思いますが、自分のなかにそのような人物といつも一緒になるという恐れが手放されていないのなら、結局、新しい部署に移動した時に同じような人物がいて、頭を抱えることになります。

 言い換えれば、外側の状況や、うまくいっていない人たちとの関係を変えようと躍起になる(外側のものをコントロールする)のではなく、内側のもの(恐れ、信念)を変えることのほうが大事だということです。(信念の手放し方に関しては、このブログでよく解説しているので、過去の記事なども参考にしてみてください。)




 夢のなかで波にゆられて

 

 ここのところよく眠れない日が続いたあと、すこしぐっすり眠りました。そのときに見たのが、海の夢。まわりにもたくさんの人がいて、みんな胸のあたりまで浸かって立っている状態。波は穏やかでした。



 わたしのなかで、海=浄化というイメージが根づいているので、心身ともに疲れが溜まっているとき、「あなたはいま浄化されていますよ」というメッセージとしてこの夢を見るんだと思います。もし、海=浄化というイメージがない人は、自分にとって浄化を表すようなものを見るでしょう。

 また、海の状態でも意味合いが変化します。津波が押し寄せてきたり、海が嵐のように荒れていたりするときは、ストレスにさらされていて、混乱しているような状態。海水がどろどろと汚れていたり、魚が腐っているようなときは、そうとう疲れがたまっているとき。逆に、波が穏やかで、透明度の高いきれいな海水であれば、心身ともによい状態、波長が高いことを表しています。

 わたしが見た夢の場合、まわりにいたたくさんの人たちと同じように、まだ活発に泳ぐほどの元気はないけど、とにかく浄化に身をまかせる、エネルギーを補充しているというかんじでした。人間関係でちょっとしたごたごたに巻きこまれ、心身ともに調子がすこし崩れ、でも落ちつき始めていたときに見た夢です。

 また、同時にこの夢は「実際に海に行って、浄化のために体を海水に浸しなさい」とか、「とにかく浄化のために行動しなさい、今のあなたには必要です。今は休むときです」という意味にも取れます。海に行けない場合は、バスソルトなどを使えばいいと思います。

 印象的だったのは、すこし潜ったりしたあとに海からあがり、持っていた網袋のなかにほかのなにかと混ざって、水晶のちいさな玉がいくつか入っていたことです。たぶん、今回のことで大変だったけど、それなりに得たものもあるよ、ということだと思います。
 新人がやめる原因になってしまう人

 前回までは、会社できついものの言い方をしたり、冷たい態度を取ってくる人がいるとき、愛に満たされた家庭で育った人、そうでない人の対処法の違いについて解説してきました。今回は、逆の立場の人、たとえば、会社ではベテランと呼ばれるほど勤続年数が長いのですが、口調が激しく、他者のミスを執拗以上に指摘したりするので、その人が教えると新人がやめる、というような人について解説します。

 では、わかりやすく、新人を追い出してしまう人をAさんとします。

 まず、このAさんのような人たちは、恐れでいっぱいです。

 恐れでいっぱいということは、自分を守らなければいけないという気持ちにのみこまれているので、他者にたいして攻撃的になります。自分がいつ攻撃されるかわからない、とビクビクしている状態です。Aさんのような人と接すると、他者は緊張し、同じようにいつ攻撃されるのかとビクビクしてしまいます。逆に、愛で満たされている人は、つねに他者との調和に満ちた感覚があるので、いつ攻撃されるかという恐れがなく、攻撃の必要性も感じません。こういう人と接すると、他者は安心感を覚えます。

 このAさんのような人は、とにかく誰かれかまわずに最初、冷たい態度やきついものの言い方をします。相手が自分にとって脅威であるかどうか、試している状態です。しかし、いつも新人を追い出してしまう彼らは具体的になにを恐れているのでしょうか? 
 
 彼らも、そこにしがみついているのです。

 彼らも愛を感じられない家庭で育ち、でも生きていくためにはそこしかない、という感覚が根づいているのです。つまり、新人は彼らにとって「侵入者」であり、「いつ自分がそこから追い出されるかわからない」という脅威を感じさせる人物です。もちろん、彼らは自分のなかにそういった意識があることを理解していなく、ただただ、恐れに突き動かされた言動を取っているだけです。

 今回のテーマ、いつも居心地が悪くなる人と一緒になってしまう人(Bさんとします)は、なぜかこのAさんのような人がいる部署、あるいは趣味のサークルに引き寄せられてしまいます。もしくは、恋人のお母さんがこのようなタイプだったりします。

 なぜかというと、お互い、同じ恐れがあるからです。このブログの言い方で説明すると、同じ信念同士がお互いを引き寄せ合っているということです。Aさんも最初、ここしかない、という状態で会社にしがみつき、なんとかベテランと呼ばれるほどの勤続年数になりました。やっと自分の場所になったのにも関わらず、ここしかない、という恐れがあるので知らない人物は自分の手に入れた場所を横取りするのではないかという、脅威になるのです。

*次回は、関係を改善としようと躍起にならないことの大切さについて解説します。

 
 
 目を開けて眠っているかも?

 先日、赤い光と戦っている夢を見ました。そして目が覚めると、赤い光が豆電球の光だったことに気づくのです。数年前までは、こういうことがしょちゅうでした。たとえば、夢のなかでうごめいているイモムシにぎゃあっと驚いて目が覚め、目の前でそのイモムシがうごめいているのです。1~2秒すると、それがタンスのノブに戻り、なんでこんなことが起こるのだろう?と不思議でしかたなく、ほんとうに恐ろしいものでした。

 ある日、それは目を開けて眠っているから起こる現象なのだと知り、安心したのを覚えています。

 まぶたの筋肉がそれほど強くない人、目が大きな人に起こるそうです。うっすら目を開けているので、部屋のものが夢のなかに入ってきて、目が覚めたときに混乱してしまうんです。クローゼットが人に見えて、目を開けたら部屋にその人が立っているので、もうびっくりします。それで少しして、クローゼットだったことに気づくという・・・。
 
 こういうことに心当たりがある人は親に聞いてみるといいですよ。親から、「赤ちゃんのころからうっすら目を開けて眠っていたよ」と言われたら、今でもうっすら目を開けて眠っているということです。




 怒りがつつみ隠しているもの*パート2
 
 前回は、わたし達が怒りを感じているとき、実は傷ついているのだということを解説しました。つまり傷が深ければ深いほど、怒りも大きくなってしまう、というものです。今回は、もうひとつ、怒りがつつみ隠しているものについて解説していきます。

 わたし達が怒りを感じているとき、寂しさも感じています。

 怒りを感じているときは、愛を感じられないからです。怒りは人々を分離し、対立を生み出します。一体感はありません。だから、寂しさを経験するのです。これもつまり、寂しさが強ければ強いほど、怒りも大きなものになってしまうと言えます。わたし達が常日頃感じる怒り、とくに親しい間柄で感じている怒りは、実は強い孤独の裏返しであったりすることがとても多いのです。

 こういうことが起きると、(ああいうことをされると)寂しい気持ちになるわよね。無理もないわよ。誰だって、同じことが起きたら、あなたのように寂しい思いをしてしまうものよ。

 怒りを感じているときに、このように自分に声をかけると感情を静めるのに一役買います。

 ちなみに、愛は人をひとつにします。愛は分離も対立も生み出すことがありません。だからそこに寂しさが入る隙はないのです。

 本来、宇宙の存在、人や植物や動物や鉱物など、すべての存在はひとつに繋がっています。ワンネスです。しかし地球のような三次元の世界ではみな肉体があるので、他者の考えていることがわからなかったり、いろいろと誤解やすれ違いが起きてしまったりします。(三次元以上の高い存在だけがテレパシーなどの力を使って、すべての存在の考えていることが距離に関係なく、つねにわかっている状態です。)

 でも、そんな三次元の世界でも、愛があれば、人はひとつになれるのです。とくに、共感は人々がお互い分かり合おうとすることのできる、重要なツールです。共感は愛そのものだからです。
 
 またもし、寂しさが人間の弱さを表していると思うのなら、そのとらわれを手放してください。寂しさに良い悪いという意味を植えつけたのは人間であり、もともとはなんの意味もないのです。寂しさも、人間にしか経験することのできない、かけがえのない感情のひとつです。


 THメソッド.ツール2*怒りがつつみ隠しているもの

 クラクションの例に戻ります。わたし達はクラクションを乱暴に鳴らされて怒りを感じ、その感情に寄り添って自分に声をかけるというステップを経験しました。だんだん怒りが静まってきたかもしれません。

 次に大事なのは、わたし達が実際怒りを感じているときが、どういう状態なのかを知ることです。

 怒りを感じているときは、傷ついているとき。

 怒りがつつみ隠しているものは、傷、であることに気づく必要があります。

 あんなことをされると、傷つくわよね。だれだって同じことをされたら傷つくわ。

 というように声をかけます。何層にも重なった怒りを剥ぎとり、中心の傷まで行きつくことができると感情はかなり静まった状態になっていきます。

 おそらく、「傷ついた」ということを認めるのに抵抗を感じる人は多いかもしれません。だれかに傷つけられた、というのは自分が相手よりも弱い人間のように思え、立場も弱く感じられるからです。また弱いということは、この世界ではターゲットにされる、いじめられる、利用される、といったイメージに結びついていることが多いので、そういった気持ちを受け入れるのは難しいことだったりします。社会的にある程度の地位のある人にとっては余計、受け入れがたい感情かもしれません。

 しかし、わたし達は他者に傷つけられるのではなく、他者の行為によって傷つくのです。

 これは、あなたのことをほんとうに傷つけられる人はこの世にはひとりもいない、ということとも言えます。それからもうひとつ、この構造を理解していると、他者の行為=他者、自分の行為=自分、というとらわれを手放すのにも役立ちます。わかりやすく言えば、失敗=他者、失敗=自分ではないということです。どれほどの行いをしても、わたし達はひとりひとり、十分に愛される存在であるという意味です。

 重要なのは、傷つくことが人間として弱いこと、傷つくことが悪いこと、というのは人間が作り出した、ただのとらわれだということに気づくことです。すべての出来事にはそもそもなんの意味もなく、良い悪いはないのです。良い悪いがあると批判が生まれ、人々が対立します。

 怒りという感情

 怒りという感情にどうしても抵抗があり、怒りを覚えてしまう自分を責め、批難してしまう人がいるかもしれません。 

 まず、怒りとは、人間でいることでしか経験できない、かけがえのない感情のひとつです。わたし達は怒りという感情を経験し、それにどう対処すればいいのかを学ぶために、地球に生まれてきました。もし怒りをいっさい感じることがない、というぐらいの魂のレベルであれば、そもそも地球に生まれてくる必要がないのです。キリストやブッダのレベルです。

 また、怒りの感情に良い悪いはありません。人間が良い、悪いという判断をしているだけで、もともとはなんの意味もないのです。良い悪い、黒白、優劣のような二極性を手放すことが大事です。

 自分にたいする共感的な声がけ

 共感は受け入れることであり、愛の行為です。また共感には慰め、励まし、肯定、同情、思いやりが含まれます。つまり、共感は無条件の愛をあらわしています。自分にたいする共感は、無条件に自分を愛し、ゆるし、受け入れるという行為に繋がるのです。こういう人は内側が愛で満たされているので、外側に愛を求める必要がありません。そして、愛をベースにした人間関係や出来事を創造します。

 逆に、自分にたいする批難は冷静さを奪い、こんな自分では愛されない、という条件つきの愛を生み出します。よって、自分の内側が恐れや孤独で満たされてしまうので、外側のものや人に愛を求めるようになってしまいます。依存行動にも繋がります。
 
 共感ばかりすると自分を甘やかすことになるのではないか?と思うかもしれません。しかし甘やかしというのは、行動にともなう責任を自分から奪うことが甘やかしです。また、共感することで効果的に感情を静めると、責任についても冷静に考えることができます。逆に、自分にたいする批難は冷静さを奪い、自暴自棄になってしまいがちです。

 怒りの観察者になること

 主観的に、わたしは~だ、ではなく、客観的にあなたは~なのよね、という共感をともなった声をかけることで得られる大きな効果がもうひとつあります。それは、怒りの当事者でありながら、同時に怒りという感情の観察者の立場に身を置くというものです。観察者の場合、怒りの感情にのみこまれていません。自分のことだと受け取らない自分がいるのです。

 具体的にいえば、クラクションを乱暴に鳴らされたのは自分ではなく、その出来事に遭遇した当事者の話を客観的に聞いているという立場になります。これは現実逃避ではありません。現実逃避というのは、はなからなにも起きていないフリをすることです。観察者になるということは、怒りから距離を置くということになります。このプロセスを習慣化すると、怒りが湧いたとしてもその怒りを静めるのが早くなります。
 
 まずはじめに、でも述べたように、わたし達は感情をコントロールできるようになる必要があるのです。怒りの当事者というのは、怒りの感情にのみこまれてなにも見えなくなっている状態で、最悪の場合、暴力や殺人といった悲劇を生み出してしまいます。感情の観察者になるということは、感情に翻弄されるのではなく、感情をコントロールしながら人生を自由自在に創造するということになります。

 
(無条件に自分を愛し、ゆるす具体的な方法を最初から読んでくださっている方々、いつもありがとうございます。始めたばかりのころに比べて、新しくこのブログを訪問する方が増えてきたのですが、第1章のステップなどを読んでいない方のために、あらためて紹介する目的でアップし直すことにしました。第1章を「無条件に~第1章」というテーマとしてアップしながらも、現在アップし続けている第2章の記事もやっていきますので、引き続き、応援よろしくお願いします!)

THメソッド*ツール1・共感

 THメソッドの1番の特徴は、どんな感情であれ自分にたいして共感し、客観的に声をかける、というものです。それが怒り、悲しみ、苛立ち、殺意をおぼえるほどの憎しみ、恨み、であってもです。

 ではまず、クラクションを乱暴に鳴らされたという出来事を例にとれば、このように声をかけます。

 あんな風に乱暴にクラクションを鳴らされたら、腹が立つわよね。無理もないわよ。それだけのことをされたんだもの。だれだって同じことをされたら、気分が悪くなるわ。ほんとうに嫌な気持ちになるわよね…。

 というようにです。声を出す必要はありませんが、声を出したほうが効果的だと思うならぜひそうしてください。

 ポイントを解説していきます。

~そういうことが起きると怒りを感じるのは自然なこと。

 このような意味合いを入れることで、怒りの感情を抱くことは自然なことよ。けっして悪いことではないわ、という含みになります。この声がけを続けていると、しだいに気持ちが静まってきます。怒りの感情に共感することで、怒りを癒すことになります。実際、このワークでわたし達がやっていることは、癒しです。逆に、怒りを否定し(怒りを感じてないフリをする)、批難し(怒りを感じている自分を責める)、押し殺そうとすると、感情は長引き、苦しいだけなのです。

 重要なのは、客観性を持ちながら、自分のなかの子供に話しかけるような口調で共感することです。沸き起こってくる批難や怒りに同調し、一緒に感情的になって批難する、怒りをあおる、ということではありません。あくまで落ち着き、優しい口調で共感してあげてください。

 自分にとって、その声を聞くと落ち着くようなイメージがあると効果的です。(言い方については例を示しているだけなので、自分にとって一番心地よい言い方を探してあげてください。また、腹がたつわよね~という言い方を厳守する必要もありません。(自分は)腹がたつ~という主観的な言い方のほうが心地よい、癒しの効果が得られるならそちらに切り替えてください。このメソッドを習慣化すると、自分で適切な声のかけ方が浮かんでくると思います。)

 それは無理もない。もっともなことだ。

 それだけの怒りを感じるのは無理もない。そんな風に怒りを感じるのはもっともだ、というニュアンスの言葉をかけると、感情を静めるのに大きな効果を発揮します。そうね、そんなことが起きたら腹が立ってしまうわよね、というように共感してあげてください。

それだけのことをされた。(それだけのことだった。)

 また、怒りが大きい、なかなかおさまらない場合は、「それだけのことをされたんだもの。無理もないわよ」などと声をかけ続けてください。これほど怒りを覚えるのは、それだけの理由があるからだ、という意味合いになります。このフレーズは相手ではなく、あくまで相手の行為にフォーカスする目的で声をかけます。なので被害者意識にアイデンティティを見い出すことにはなりません。その人をゆるす必要はあっても、その人のしたことを認める必要はない、という真理に基づいています。

 これは自分の怒りに自信を持つためのフレーズにもなります。人は怒りを感じたとき、こんな些細なことで怒りを覚えるのは自分の心が狭いからではないか?などと、その怒りにたいして疑問を感じ、ときには自分を責めることがあります。疑問はやがて、こんな自分では受け入れられない、愛されないのではないかという恐れに変化します。その恐れはひどい苦痛を生じるので、相手にたいする怒りが倍増してしまうのです。

 だれだって同じ思いをする。

 自分の怒りに自信が持てないとき、わたし達はその怒りを正当化しようとして、あらゆる行動に出ます。たとえば、他者に話を聞いてもらい、相手に「あぁ、それは腹が立つよね!」と言ってもらおうとする(共感を求める)のが良い例です。つまり、人はどんなときであっても自分を肯定してもらいたいのです。なので、こういう言葉がけも、自分の怒りに自信を持つための効果的なツールになります。

 自分の怒りに自信を持つということは、自分は正しく相手が間違っているということにこだわることではありません。怒りという感情を抱いてもいいのだと、自分をゆるすためです。

 大丈夫、同じことをされたら、だれだってあなたのように怒りを覚えるわ

 などと言ってあげれば、自分の抱く怒りが自然なものだと実感できます。自分の内側の怒りをゆるして癒せば、相手に怒りをぶちまけるということも回避でき、平和に解決しやすくなります。

 
 愛に満たされている人がイジメのような状況に陥ったとき

 前回は、穏やかで愛に満たされた家庭で育った人が、職場できついものの言い方や冷たい態度をとってくる人がいる場合、どのように対処するかを解説しました。

 今回は、そういう人たちが実際、職場でひどい嫌がらせやイジメのような状況に陥ったとき、どのように対処するかを解説します。

 まず、元も子もないのですが、「自分は愛される」という信念を持って生きている人は、「愛されない」と思えるような現実を創造しません。つまり、自分が粗末に扱われる存在だと思っていないので、嫌がらせやイジメのような出来事に遭遇しないのです。そういうことをしてくる人がいたとしても、「嫌がらせを嫌がらせと思わない、イジメをイジメと思わない」といったところもあります。

 ただ万が一、嫌がらせやイジメのような状況に陥ったとしたら、どうするでしょうか。
 
 嫌がらせやイジメを受ければもちろん傷つくし、ストレスを感じるし、落ちこむこともあるでしょう。自分の言動にたいして、相手の気に障るようなことをしてしまったのかもしれない、と考えることもあるかもしれません。もし思い当たるのなら、潔く謝ることもできるでしょう。関係を改善しようと躍起にはならないし、相手を変えようともしません、が、必要な努力はします。

 もし、自分の椅子に画鋲を置かれる、持ち物を壊される、暴力に近いようなことをされる、といったように状況がひどくなってきたら、彼らはあっさり、その場を離れます。自分が不条理に傷つけられていい存在ではないことを、知っているからです。(愛を感じられない家庭で育った人は、自分は不条理に傷つけられていい存在だと、どこかでゆるしてしまっていることがあります。)

 かんたんにその場を去ることができるのは、

 自分にふさわしい場所はほかにいくらでもある

 と知っているからです。ほかにいくらでもある、と知っているので、実際にそのような場所を引き寄せます。彼らにとっては、その場所から離れることは一大事ではありません。ひとつの場所や、特定の人に執着しないのです。 
 
 穏やかで愛に満たされた家庭で育った人は、いつも自分のまわりに、穏やかで優しくて安心する、自分のことを大切にしてくれる人を置くようにします。そういった環境が自分にとって自然だからです。

 もし、すこしぐらい癖のある人や、冷たい態度をとってくる人がいても、彼らはその人たちの優れた部分を自然に見つけることができるし、残念な部分もひっくるめて愛すことができます。というのも、

 穏やかで愛に満たされた家庭で育った人は、愛することや愛されることに長けているからです。

 愛することや愛されることに長けているので、古い場所から離れること、また新しい環境に入っていくことに不安や緊張はあったとしても、恐れはありません。

 逆に、愛を感じられない家庭で育った人は、愛することや愛されることに自信がないので、「ここがなくなったら、ほかにない!」と思い、特定の人や場所にしがみついてしまいます。古い場所を離れること、新しい環境に移ることを極度に恐れます。また、穏やかで優しくて安心するような人や状況に恵まれることがあったとしても、慣れていないので居心地が悪くなってしまい、意識的にも無意識的にも欠点を探しだしてしまうことさえあるのです。つまり、自分で居心地の悪い場所に作り変えてしまう、とも言えます。

 (後ほど、愛を感じられない人が穏やかで安心するような場所や人を自分にゆるすことができるようになるための、ツールのひとつを紹介します。)


* 次回は逆に、嫌がらせやイジメをするような人の立場に立って、解説します。

 

いつも応援ありがとうございます!
 感情の当事者、感情の観察者とは?

 THメソッドのステップを解説するまえに、まず、感情にのみこまれている状態(感情の当事者)と、感情を客観的に観察している状態(感情の観察者)の違いについて説明します。

 たとえば、運転中、クラクションを乱暴に鳴らされたとします。そのとき、「なんなんだ、あの車は! 腹が立つな。あんな風に鳴らすなんて、偉そうに!」と怒りが渦巻き、相手を批難するとします。こういったことは日常茶飯事ですし、一見、大したことではないかもしれません。30分もすれば気分が静まることもあるでしょう。

 しかし、一見大したことではないように思えることで、夜寝る前にふと思い出して腹が立ち、それから一ヶ月ぐらいしたときにまた思い出すようなこともあります。あるいは、クラクションを乱暴に鳴らされたということで、傷害事件にまで発展することも実際あります。これは一体、どうしてでしょうか?
 
 主にふたつの理由があります。ひとつに、わたし達は怒りといった感情の当事者になってしまうから、というものです。クラクションの例で言えば、自分はクラクションを乱暴に鳴らされた、だからとても腹が立つ、というものです。当たり前だと思うでしょう。
 
 しかし、これは怒りにのみこまれている状態です。怒りにのみこまれている状態のとき、感情は静まらず、癒しも起こるどころか、怒りの炎にはどんどん油が注がれている状態です。つまり、冷静さを失ってしまっています。そんなとき、わたし達はなにも見えなくなってしまい、衝動的な言動に走りがちです。たかがクラクションひとつで傷害事件が起きてしまうのはこのためなのです。

 また、たかがクラクションひとつで傷害事件が起きてしまう、もうひとつの大きな理由は、わたし達は怒りといった感情を抱いたとき、それを押し殺そうとする、あるいはそんな感情を抱いた自分を否定し、批難する習慣があるから、というものです。
 
 わたし達の世界では怒りといった感情は悪いものだという、強いイメージがあります。なので、そういった感情を抑えるように育てられてしまいます。
 
 クラクションの例で言えば、「こんな些細なことで怒ってもしかたない」などと言いながら、自分を批難してしまいます。これは怒りといった感情を抱いている自分をゆるさない、受け入れないというプロセスです。このとき同時に、怒りを抱く自分にたいして自己嫌悪や罪悪感も抱きます。それはとても苦しい状態なので、そんな苦しみを与えた相手にたいする怒りが倍増してしまうのです。

 これが、感情の当事者の状態です。では、感情の観察者とはどういう状態でしょうか? 

 感情の観察者とは、2、3歩下がって感情を客観的に観察している状態です。自分の感情でありながら、同時に自分の感情ではない、という状態になります。怒りといった感情にのみこまれていないので、冷静さを保つことができます。また、客観的に感情に寄り添うことができるので、自分の内側で癒しを起こすことができます。よって、衝動的な言動をうまく抑えることができるのです。 

 THメソッドは、怒りといった感情を客観的に観察し、他者に頼ることなく自分の力で感情を静め、癒しを起こすための方法です。またどんな感情であれ、否定することなく無条件に受け入れる、という概念をベースにしています。