スティング、ウインク、スウィング | 新・ぺんたno座右の銘盤withボクの新百景

新・ぺんたno座右の銘盤withボクの新百景

独断と超偏見による、勝手気ままでええ事しか書かん日記のようなもんです。
まあるい形してて、音が飛び出してくるモノへの愛情表現です。
ほなお暇なお方はどうぞお入りやす。
某サイトの『ぺんたno座右の銘盤』、『続・ぺんたno座右の銘盤』の続編となります。

新・ぺんたno座右の銘盤withボクの新百景-sting つい先日船橋へ向かうときのこと。がら空きの電車に座っていたら目の前の座席に京唄子、岸田今日子、浜田幸一の三人が居並んで座ってきた。もちろんソックリさんなのだが、一駅二駅と過ぎて行くうち段々と御本人ではないのかと思えてきたのだ。実のところ私自身それら御本人に会ったことがないのだからそう見紛ってもしょうがないのであり、三駅目あたりに差しかかる頃ついに本物にしか見えなくなってきた。超のつく有名人だろうと、オフともなれば多少の化粧格好は崩すであろうし、其れが故に人間らしさも現れその場に溶け込んで来ちゃう。そのお三方御自身もソックリだと自覚もしているだろうし、間違いなく周りからもそう云われているに違いがない。だからそれがどうしたと云われても、貴方にとって気にもならないことも私にとっては充分気になることとなるのです。

 それと同じようなことに本の栞(しおり)問題がある。問題といっても私のささやかなる脳ミソで起こる些細な問題でしかないが、気になってしょうがない。貴方は読んでいる本を一旦閉じる際、必ず栞を挟むはずだが、新潮文庫のように紐状になったものと角川文庫のように紙片の短冊ものとがある。特に紐状のものの場合、そのまま引掛けて読み出すのか、読むと同時にたらりと前方へ垂らすのか、それが些細な問題として渦巻くのである。さらに紐を垂らすお方は短冊の場合はどうするのだろうか。これも前方へひらりと、というわけにはいかないよなぁなどと、普通に気にもならないことが気になってしまう私です。

 さて気にしなきゃいけないことに元ポリスのスティングの存在があります。ポリスを事実上解散に追い遣ったスティングは、自虐的孤独感を銃剣に喩えソロ活動をスタートさせました。セカンド・ソロでは早くもライヴ盤『ブリング・オン・ザ・ナイト』をリリースし、何かにつけ豪奢なライヴ・バンドとしての片鱗を見せつけます。レコーディングやツアーには並み居る凄腕ミュージシャンに圧倒されることなく、そのくせ彼らのロック・スピリッツを喚起させるのであった。サックスにはブランフォード・マルサリス、キーボードにはケニー・カークランド、ドラムスには元ウェザー・リポートのオマー・ハキムとベースのダリル・ジョーンズとほぼブランフォード・ニュー・クァルテットの面々といっていい。こう名前を挙げただけでも当時のこと思えばスティングってスゲ~なぁと感嘆の叫びを発したものだ。

 スティングのソロといえどもあれだけポリス・サウンドに洗脳され、“解散”の二文字に今生の別れ涙を零した我が身は何時しかポリスとして聴き入ってしまっていた。皮肉にもポリス時代何でもなかったこの<ブリング・オン・ザ・ナイト>、大仰といえども何百倍となって現われた。スティングとブランフォードの掛け合いのあと世紀のピアノ・ソロが今は亡きケニー・カークランドの10指で弾かれる。そして実験されたし。そのソロを三分の一に速さを落として聴いていただければ名バラードとしての品格がそこかしこに潜んでいたのが分かるであろう。原始的で簡単に実現するにはレコードを手に入れ33回転のスピードを頭に叩き込み、あとは素手で三分の一のスピードに例え回すのみ。 

 しかしだ。まさに夜に導きたもうイントロのギター、息を呑んで聞き惚れるスティングの1小節のくだり、もうどう足掻こうとポリスであって相違ない。でもそのあとの凄まじさは筆舌しがたいほどスティングがスウィングしている。ネ、ネ。

-NO.583-


【適塾】

 緒方洪庵が開いた塾で、蘭学や西洋医学を教えた学校のようなもの。後の大阪大学や慶応義塾大学の基となる。 塾生には大村益次郎や福沢諭吉などがおり、この窓から新たなる日本の夜明けを感じ取っていたのでは。