小コーナーも50回目を迎えました。

2016年、中央大学の古賀正義教授の依頼で、「震災ボランティアと大学生」と言うテーマで、『中央評論』(中央大)に寄稿した文があります。ご紹介します。縦書きの文章を、横書きにしたため読みずらいと思いますが、そのまま掲載いたします。

💛💛💛

震災ボランティアに大学生と取り組む

  ~南三陸SAPの5年間を通して~

                         鈴木 悟(前宮城県古川高校長)

 

 はじめに

 

 平成二十八年もいよいよ秋を迎えようとしている十月一日、「元古川高校校長 鈴木悟殿」という封書が届いた。差出人は、南方仮設住宅自治会会長 宮川安正氏。中を開けると、「南方仮設住宅の皆さんお別れ会」の案内状である。震災から五年半も過ぎ、仮設住宅で生活していた多くの方々が南三陸町初め各地に転居しているなかで、住民とこれまで仮設を訪れたボランティアでお別れ会をするというのである。

 南方仮設住宅とは、東日本大震災で甚大な被害のあった宮城県南三陸町の住民のために、隣町の登米市南方ジャスコ跡地に三八〇戸建てられたものである。震災直後は千人近くの人が住んだこの仮設で、私は南三陸スマイルアゲインプロジェクト(南三陸SAP)という任意の震災ボランティア団体をつくり、勤務先の宮城県古川高校(古高)の卒業生や仲間ととともに南方仮設住宅で交流会を行ってきた。

 本稿では、被災県に住んでいながら、直接津波被害を受けていない内陸の若者が、震災をどのように受け止め、どんな震災ボランティア活動をし、そこでどのような影響を受けたのかを南三陸SAP活動の五年間を振り返りながら見つめてみたい。

 

 

南三陸SAPの誕生

 

震災後、宮城県志津川高校(志高)の体育館(避難所)には、多くの被災者がいた。そこには毎日のように全国からボランティアが来て、炊き出しを行っていたが、私も志高に十年間勤務し、教え子やその家族が被災しているので、自分なりに何かボランティアができないかと思いつつ、日々の勤務に忙殺されていた。

夏休みになりも、時間ができたので、古高の生物部と瓦礫処理のボランティアに参加したが、炎天下の作業は厳しく体力的に長続きせず、私は午前中で残念ながら断念してしまった。情けなかったし、このままでは終わらせないと強く思った。継続的に被災者を支援できる方法はないだろうかと思い、七月三十一日、友人や志高の教え子に相談し、避難所の志高体育館でかき氷をプレゼントしたことが、南三陸SAPの始まりである。呼びかけに応じ、志高の卒業生を中心に集まったボランティアは七十七名。かき氷をプレゼントしながら、無事を喜び、苦難を語り合い、泣いたり笑ったりするこうした場面に、私自身、これまでにない感動を覚えた。ボランティアが、笑顔の連鎖反応を引き起こす。この思いは私だけではなく、参加者一人一人にも感じられた。「南三陸に笑顔を」をキャッチフレーズにして、この活動を続けようという声が高まった。参加できなかった人たちからは、「現地には行けないけれど、ぜひこのお金を使ってください」という千円単位のカンパが二百件以上も届き、資金・スタッフ・受け入れ先が整い、南三陸SAPの継続可能な基盤が固まった。事務局を引き受け、まず十二月に南三陸町の保育所・幼稚園でクリスマス会を企画した。

二〇一一年十二月十九日、平日にも関わらず十四名のボランティアが集まり、五カ所を急ぎ足で回り、子どもたちにプレゼンント。子どもたちの笑顔があふれ、ボランティア自身も笑顔をもらえるクリスマス会は、今後の南三陸SAPの方向性を示していた。 

 

 

内陸の高校生が抱えるジレンマ

 

震災後、私は古高に異動して四月一日に着任したが生徒はいない。この年、宮城県の高校の入学式・始業式は四月二一日と決められ、それまで生徒たちは長い春休みを過ごしていた。この時、生徒たちはどんなことを考えて生活していたのだろう。登校日当日、私は、久しぶりに登校してきた生徒の表情から、曰く言い難いジレンマを感じた。沿岸部の高校生は、家を流され肉親を失いながら必死に生きている。それなのに、自分は何もしてあげられないのか。こうして、いつもの日常生活に戻っていいのか、といった感じか。秋になって、三年生と面談した時も、自分の進路決定を目前にしつつ、何か深いところでマグマが燃えているような感じを受けた。

高校としては、二週間以上も授業ができなかったので、土曜日を使ってまで授業時数の確保をしながら、学力の向上を図ることが至上命題になる。私も校長として、「今生きていることに感謝し、いつの日か具体的に役に立つ人を期して精進し、文武両道に励み、古高生活を充実させる」ように事あるごとに呼びかけながら、機会があれがこうしたマグマをどこかで爆発させてあげたいと願った。

 

高校生が南三陸SAP総会に参加

 

 二〇一二年三月十一日。震災からちょうど一年目に、南三陸SAP総会を南三陸で行うことにした。震災をきっかけに、東京から本拠地を故郷・宮城に移してひとり芝居「劇励」をはじめたみやぎ絆大使の高山広氏が南三陸SAPの継続的な参加を表明し、この日のために新作を準備した。三月一一日一四時四六分に黙とうを捧げるプログラムに、南三陸SAP支援者とともに、卒業式を終えたばかりの古高生にも参加を呼び掛けた。古川から南三陸までは六〇キロぐらいあり車がないと来られないが、古高生が五名、保護者とともに参加したのである。総会は、芝居や紙芝居といった芸術を通した震災を学ぶ貴重な機会になり、今後の活動を継続していくことを誓って終えた。

 大学入学を目前に控えた高校生の参加は、大人の支援者にも、そして当日来場の被災者にも大きな勇気を与えてくれた。これからの時代を背負う若者が、被災地を訪れ、豊かな感受性で震災を受け止め、被災者と交流することは、若者自身にとって意義深い体験でもあるが、周囲にも予期しない大きなプラスの影響を与えてくれることに気づかされた。

そこで、南三陸SAPの活動に、大学生の参加を積極的に呼びかけることにしたのである。

 

大学生を中心とした南三陸SAP活動

 

 南三陸SAPは、第一回の総会で決めた方針に基づき、二〇一二年度以降次のような活動を行った。

(一)クリスマス会 (二〇一二年一二月)ボランティア学生四名(全体三十六名)

(二)南三陸交流会 (二〇一三年 三月)ボランティア学生十名(全体四十五名)

(三)クリスマス会(二〇一三年一二月)ボランティア学生十四名(全体六十一名)

(四)南方仮設交流会(二〇一四年三月)ボランティア学生十六名(全体二十七名)

(五)南方仮設交流会(二〇一四年八月)ボランティア学生三十六名(全体六十七名)

(六)クリスマス会(二〇一四年一二月)ボランティア学生十九名(全体四十七名)

(七)南方仮設交流会(二〇一五年三月)ボランティア学生二十五名(全体六十八名)

(八)南方仮設交流会(二〇一五年九月)ボランティア学生十一名(全体三十一名)

(九)大崎市交流会(二〇一五年九月) ボランティア学生十五名(全体三十五名)

(一〇)クリスマス会(二〇一五年十二月)ボランティア学生二十名(全体四十四名)

(一一)南方仮設交流会(二〇一六年二月)ボランティア学生五名(全体十七名)

(一二)南方仮設交流会(二〇一六年三月)ボランティア学生九名 (全体三十一名)

(一三)南方仮設交流会(二〇一六年八月)ボランティア学生十名(全体二十八名)

 クリスマス会は、南三陸町のすべての幼稚園・保育所六カ所に行う。学生たちを中心に実行委員会を立ち上げ、当日までにクリスマス会のプログラムやプレゼントを話し合い、班ごとに練習などをして本番を迎えるものである。

 こうした南三陸SAP活動に、学生が具体的にどのように関わっているかを、南方仮設交流会をもとに、紹介したい。

 

南三陸SAP「歌と笑いの会」

 

前項(八)で示した、二〇一五年度九月の南方仮設住宅交流会の実施要項は次のとおりである。

(一)題名    南三陸SAP「歌と笑いの会」

(二)場所    宮城県登米市南方仮設住宅第一集会所

(三)日時    二〇一五年九月六日(日)一三時三〇分~

(四)プログラム 第一部 南三陸SAP合唱団「ひまわり」演奏

         第二部 みやぎ絆大使 高山広さん ひとり芝居

         第三部 一緒にお話しましょう (交流タイム)

(五)ボランティア参加者 三十一名(大学生十一名)

(六)参加予定者(仮設住宅の方) 六十名程度

(七)準備物  交流用お饅頭・お茶 百人分 パンフレット、歌詞カード

(八)その他  大人参加者が、古川駅から送迎しますので学生は十時まで集合のこと。

    

 交流会までの動きをまとめてみよう。まず、四月、事務局が南方仮設住宅の宮川区長さんからボランティア実施の了解をとり、日程を決める。五月末に、メールを登録している学生に参加希望を募り、企画委員として一四名が参加を希望した。希望者を集め、六月半ばに第一回企画会議を実施。実行委員長など役員を決め、当日のプログラムの検討をする。七月に広報担当学生がチラシを作成し八月に事務局と共にチラシを配布。一方、一般のボランティアも募り、八月上旬拡大実行委員会を開催。歌のリハーサルをしたり、出演者交渉をしたり、忙しい中を学生が中心になって動いた、企画運営をしながら、学生は全員で南三陸SAP合唱団「ひまわり」を編成し、本番まで練習を重ねた。

 当日は、一一時に南方仮設住宅に集合後、ミーティングをし、参加者全員で仮設住宅を一軒一軒まわり、PR活動する。会場準備しステージを整え、開場を待つ。司会進行・音響などすべて学生で、大人ボランティアは裏方にまわる。本番が終われば、お客さんをお見送りし、会場を復元して、区長さんなどを囲んでの反省会。そして解散となる。

 学生にとっては、企画・運営もさることながら、仮設住宅を一軒一軒回ること、終了後に区長さんをはじめ仮設住宅の方と一緒に語り合う反省会が、震災ボランティアとしての大きな魅力になっている。

 

 南三陸SAP参加の動機

 

古高在職中、私は、卒業式の前日に担任を通じて卒業生全員に「南三陸SAPへの誘い」というパンフレットを渡してもらっていた。このパンフレットをみて関心を持った者が、事務局にメールアドレスを登録し、事務局の呼びかけに応じて、その都度、参加を決めている。

これまで五年間で一〇五名の大学生がのべ二二四回参加した。四回以上参加している常連が二四名いる一方、一度きりの学生も少なくない。では、どのような理由で、この活動に参加したのだろうか。Iさん(大学三年)の動機が多くの人の気持ちを代弁している。

南三陸SAPへと関わる原動力となったのは、あの震災の日、私が無力でなにもできなかったという後悔が大きいのだと思います。中学三年生の卒業式を終えたばかり、どこの組織に所属をしているわけでもなく、どのような支援が必要とされているのか、それを行うにはどこへ行けば良いのか。あの時の私には圧倒的に知識が足りませんでした。
 だからこそ古川高校で鈴木先生と関わりを持ち、何をすれば良いのか教えていただき、そして震災の被害にあった方々のためになにかをできるということが、三月十一日に感じた後悔を少しでも無くしてくれるような気がしていたのです。( Iさん 大学三年)
 

 大人ボランティアとして南三陸SAPを支えるNさんは、学生の様子を次のように分析している。

みんな素直で真面目で、普通の学生さんという印象です。ちょっとおとなしめな感じもあります。
こうした学生さん達がボランティアとして行動するには、南三陸SAPが身近に存在した事が大きかったと思います。東日本大震災が起こり、多くの人が被災した方々の悲しみ苦しみ心を寄せました。募金をしたり、支援物資を届けたり、現地に行って泥かきボランティアをしたり、NPOなど を作って組織的な支援に取り組む人もいました。しかし一方、心は寄せているけれど機会がなく行動に至らなかった、一時的な行動に止まった人も多くいたと思います。
南三陸SAPに参加している学生さんも、先生だった悟さんや部活の仲間といった信頼できる身近な人から呼びかけがあったから、ボランティアとして行動できた人も多いと思います。ほとんどの学生は社会経験も少なく、自分一人で知らない場所に乗り込む事には躊躇したでしょう。身近に南三陸SAP があった事が大きいと思います。
 そしてリピーターとして参加する人は、そこに喜びや充実感、参加して良かったという感覚を持てているのだと思います。被災した方々と心が通い合い、少しでも喜んでもらえたというのは嬉しい事です。ある被災した方が、町や社協の職員といった仕事の人よりも、全国のボランティアの人に助けられた事が、一番嬉しく感謝していると言っていました。
 

 南三陸SAP活動の感想

 

 では、実際にボランティアをしてみて、学生はどのような感想を持ったのだろうか。

 南方仮設住宅での音楽演奏のために古高吹奏楽部員有志が小吹奏楽団「ひまわり」をつくって参加したが、その一員で指揮者を務めたSさん(教員)は、音楽の力を実感した。

 被災地で演奏することは、その地にいる方々の直接的な力となるわけではありませんが、一瞬でも震災以外のことへ目を向ける、できれば楽しい時間となればいいなと思って演奏していました。
実際に演奏させていただき、わたしたちがたくさんの拍手と笑顔をいただいて、元気になってもらえたらと思って演奏していたのに、逆に元気にさせてもらってしまいました。なぜか被災した方々とつながることができたように感じました。ボランティアに参加し感じたあたたかな気持ちは、単なる演奏活動では得られない貴重なものでした。学生時代にボランティアに参加したことが、震災において、また、震災以外のことに関しても、私に何ができるのか、ということを考えるきっかけになったように思います。

 

 また、Fさん(大学三年)は震災以来続いていた、苦しさを脱出して自分の道を見つけた。

中学校の卒業式の日に東日本大震災が起き、その後始まった高校生活は輝かしくも震災のことがついてまわりました。講演会が数多くあり、そのたび書く感想の欄では「今の自分にできること」に悩まされました。高校を卒業し大学生に上がった時友達からの声かけをきっかけに震災ボランティアに参加しました。残念なことに普段県外に暮らし大学に通っているため参加できないことが多いのですが、初めて参加した夏祭りボランティアは今でも鮮明に覚えています。そこで暮らす人たちの温かさ、傷ついた思いを吐露した方の心の想い、前に進もうとする人々、その姿を見た時やっと高校時代の悩みの答えを見出せた気がします。震災ボランティアが自分の中で大震災と向き合うきっかけとなり大学の卒業論文は東日本大震災の歴史をテーマにして研究することにしました。

 

震災ボランティアの意義

 

 それでは、こうした災害ボランティアの参加者は何を学び、どんな意義を見出したのだろう。当初からのメンバーのTさん(保健師)は、気仙沼市で働いている。
  私は、二〇一二年の南三陸SAPクリスマス会に、四人で初めて参加しました。その時はテレビなどの映像でしか見たことのなかった津波の被災地に行ってみたいという思いから参加しました。今思うと初めて行って目にした時の光景に 、ハッとした記憶があり、私にとってはとても衝撃的でした。やはりテレビ画面を通した南三陸と生で見る南三陸の物語る風景は違うもので、他の部員たちにもぜひその生の光景を感じて欲しいと思いました。そこで、他の吹奏楽部のメンバーにも南三陸SAPに参加してほしい、一緒に何かしたいと思い、吹奏楽団「ひまわり」をつくったのです。
 私は今、なにかの巡り合わせ?なのか、就職して最初の勤務地が気仙沼になり、南三陸や気仙沼の空気を日々感じながら過ごしています。私がこの勤務地に来て、まず自分たちが南三陸SAPに参加していた時との風景の違いに驚きました。復興が進み、新しくできていく街の一方、かさ上げで砂地、砂山の状態の地区もあり、なんとも胸が痛くなる風景もまだまだ残っています。私は今、仕事をする中で感じているのは、宮城の人々の基準が震災のあの時であることです。「震災の〇〇年前・・・」など、言葉の節々に震災の二文字が入っています。そんななか、先生からこの依頼メールが来て、ふと、私たちが関わったあの子達は震災時はまだ幼稚園児でこの震災を基準とした宮城をどう感じ、どう見ているのだろうと考えました。
  自分がなにをできるのだろうと考えて参加していたボランティアですが、確かに一人一人のできることはちっぽけだなぁと思います。しかし、子供達、仮設の人々にかかわっていたあの瞬間は、相手に笑顔、楽しさを共にできる瞬間であって、そのことが楽しさの共感という、明るい気持ちになれる時間の提供だったと思います。私が今考えるのは、震災は人々の基準となるくらいの本当に恐ろしい出来事でした。しかし、その中で他人と楽しさを共感できる瞬間があったことは、人とつながる喜びだったのではないかと思います。それは、被災したみなさんだけでなく、心を痛めた、また自分になにができるのか不安だった私たちにも、人とつながる喜びは大切なものだったのではないかと思います。ボランティアとしていいのかどうかはわかりませんが、南三陸SAPという活動は私自身を成長させてくれるものだったと思います。

 

 また、福祉を学ぶIさん(大学三年)は、震災での体験を大学での学びに生かしている。

災者支援のボランティアとして仮設住宅へ赴くうちに、いま自分が暮らしている地域というもののつながりの大切さを身にしみて感じるようになりました。仮設に住む方々は、それまでのコミュニティを失いながらも新しい関係を作っていく強さを持っていました。
大学で福祉を学ぶ今、地域のつながりの大切さを強く感じております。南三陸SAPでの経験を大学での学問の糧にさせて頂き、地域福祉の推進とはどうすれば良いのかを考えるようになりました。

 

また、南三陸SAPでのボランティアにより地元での就職を選んだTさん(大学四年)のケースもある。
 大学生となり県外へ進学したため、地元に触れる機会も少なくなりました。そのような中でこのボランティアに参加できたことは嬉しかったです。また、地元の友達と一生懸命準備をして作り上げたものを被災者の方々が優しく受け入れてくれたり喜んでくれたりしたことは、私にとって初めての経験でした。改めて震災復興のために自分ができることは何かを考えていきたいと思いました。
 そしてあたたかい地元の人達に触れたことで、地元で働きたいと思う気持ちが強まり、内定をいただいたので来年度から看護職として地元の病院に就職できることになりました。
少し大袈裟ですが、就職という人生においての大きなライフイベントにもボランティアの経験や学びが影響しています。私は1度きりしか参加していませんが非常に貴重な経験でした。

 

 学生にとって南三陸SAPは、「学校では体験できない人との出会い」「自分を振りかえる機会」「どんな勉強よりも、どんな偉い人の話よりも勉強になった経験」「交流の時の感動が、パワーになり、大学生活を頑張ろうとする意欲につながる体験」「ゆるゆるとした学生生活に喝を入れること」など、繋がりのなかで、一人一人が多くのものを学んでいるといえる。

 

 大人ボランティアのIさん(高校教師)は学生についてこのように見ている。

 震災を通して、世の中には心が暖かくて、思いやりを持っている人々がたくさんいることを改めて感じました。南三陸SAPの学生さんたちに対しても、非常に強くそう思いました。

一人ではなかなかその暖かい気持ちを表現するのは難しい場合もありますが、南三陸SAPが、その気持ちを具現化するチャンスを学生たちに与え、学生たちも思い思いに自分の持っているものを発揮できるという点において、これは素晴らしい活動だと思います。学生さんたちも、このボランティアの経験は将来絶対何かの役に立つと思います。

 

 おわりに

 

 南方仮設住宅のお別れ会が近づく。

宮川区長さんは、交流会が終わった後こんなことをいう。「仮設住宅の壁は薄いんだよね。だからね、寝返りを打っても隣の家の人に気をつかうんだ。テレビの音、話し声も立てられない。だから、ぐっすり眠ることができないでいるんだね。でも今日は、腹を抱えて笑った。若い人たちと一緒に歌った。本当に楽しかった。今晩はぐっすり眠れるよ。ありがとう。また、来てくださいね」

 こんな温かな言葉があるだろうか。

 忙しい合間をぬって参加した大学生は、この言葉に泣かされる。そして、裏方になって学生が中心の南三陸SAPを支える大人たちも、こうした被災者と学生の姿をみて、この活動の継続を願う。こうしたサイクルで南三陸SAPの五年間が回ってきた。

 そして、六年目を迎えた今年。学生の参加希望者は決して多いとは言えない。震災の年の四月に高校三年生になった若者の多くは大学を卒業して就職。三・一一以降の日々をジレンマの中で過ごした若者は、次第に多忙になり、震災ボランティアの優先度が下がっていく。

 震災直後、ジリジリした思いの高校生の受け皿として、災害ボランティアの新しい形として南三陸SAPは一定の役割を果たしたと思われるが、このままの形での活動は難しいと感じている。

とはいえ、八月の南方仮設交流会には先輩からの思いを引き継ぐ大学生が十名集まった。一二月のクリスマス会にも今のところ一三名の希望者がいる。南三陸SAPは、学生ボランティアと大人支援者が、被災者と笑顔を交換する震災ボランティアとして、細く長く続けていこうと考えている。

震災から六年目の冬。南三陸では、高台移転のための工事が続いている。そこに住む人たちと、震災を忘れないようにしようという人たちを繋ぐ、南三陸SAP活動の真価はこれからである。

学生が貴重な時間をかけて震災ボランティに参加し、そこで体験した生の学びを、大学での学びに生かし、何らかの形で東北の復興に寄与しつつ、より心豊かな人生をおくって欲しいという願いが、南三陸SAPを通じて叶えられつつある。

 こうしたささやかな取組を今後も続けていこうと決意を新たにする、二〇一六年の秋である。

 

💛💛💛(バジル)

 2016年は、今振り返りと、南三陸SAPの「へそ」の部分に位置する。ここから、震災ボランティアは、曲がり角を迎える。それは、今わかることで、当時はただただ夢中であった。