新年明けましておめでとうございます。

今年もぼちぼち書いていきます。


とうとう年末

昨日で今年の仕事納めと思っていたのに、ちょっとそういうわけにもいかなくなり明日も仕事となる。

この気持ちなんだろうか?

どんな動機で仕事してんだろうか?

自分に一問一答してしまう。


少しは全体的に進むようにしてるのが時々気持ち的に負担になる。


性格かな…?


何かと体調が悪く、年末年始は極力休んで体調を良くしようと思っていたけれど、どうもパニック障害がひどくそうもいきそうもない…。

心がザワザワすると一日中、気疲れして何もしていないのにやたら疲れてしまう。

そういう年末年始になってしまいそうやな。




肋間神経とパニック障害が出て少し気を揉んでいる。
どれも痛み止めの薬で止めているが、それと同時に、これらをどのように受け止めていけば、正当な乗り越えて方になるのか?誠実に自分の症状と向き合っていくことが出来るのか分からずにいる。
パニック障害は社会生活にも日常生活にも支障をきたすものでこの世にプラスになることは何一つない。第一に男としてのプライドをズタズタにされるので、私としては自分の存在価値を見出せずに来たのだ。
それがある年齢を境にこれはもしかしたらこの中から何かを見出さないければならないものとして天から与えられたのではないか?と考えるようになった。
一度、ひどく落ち込んで実際に全てを生きることを放棄、差し出したことがある。
その時に初めて天の人智を超えたものを感じた。それは今まで感じたことのない真からの「愛情」だった。
それと同時にゆうにいえない「かなしみ」だった。そのかなしみが一体何なのか?
愛しながらも悲しみでしかないとは一体なんなのか?
それは深く深く自分の心の奥底に結びついている。極私的なのものでこれを語源化することが出来ない。どこにも当てはめることの出来ないパズルのピースのようなものといえばいいのか…?
それは何処にもない、どこの世界にも似つかわしくないもの異質なものとしてある。
それだから何かあるのかといえばただみすぼらしいだけのものでしかない。

そういう中でさらに俯瞰してそういう自分をどのように見つめ生きていくのか?その正当性に今葛藤しています。
どのような対応が天のものとなるのか?
誤魔化しではない。
もう失うものなどないはずなのだから。
何度も窮地に追い込まれて何度も死を覚悟してきたけれど、どこか真正面からその恩恵を受けてこれていない気がします。

苦しいと祈ったことはありますが、これをどのように受け止めてどのようにすればあなたの御心でしようか?と祈った事はなかった。
全ては自分の考えの価値観の域を超えずに来たのです。
これからどうなるのか?正解も不正解も分からない、その時その時に対して原寸大の自分で受け止めて、そして、私としての選択をしていきたいと思っています。

それが本当に生きる事なのかもしれないという自分に対する問いです。