ぼくはその夜ジャズバー「ブルーマンハッタン」にいた。
「もう夏ですねぇ。6時半だっていうのにまだ明るい。こんな明るい中、バーのカウンターを開けるのも結構勇気いるもんですよ。」
ぼくはマスターにそんな事を言いながらカウンター席に座った。
「私どもバーテンダーはいつもこの明るさの中にいますから。」
「なるほど・・・。だからぼくのような客は辛い時や悲しい時にだけこういう店に来ちゃうのかもしれないですね。いつ来ても変わらず迎えてくれるように思うから。」
「そうですよ。いつでも相原さん専用の席をあけてお待ちしてるんですよ。
さぁ、今夜はどれにしましょう?」
「嬉しい事言ってくれますねぇ。涙でちゃいますよ。じゃ今夜はちょっとスイートなのをもらおうかな。ロマンチックなBGMで。」
そんなぼくの答えにマスターはにっこりと微笑んだ。
そしてロックグラスにはグレンモーレンジが注がれ、レコードプレイヤーにはデクスターゴードンの「Easy Living」がのせられた。
ぼくは昨夜届いた木綿子さんのメールを思い起こしていた。
赤裸々に綴られた木綿子さんの壮絶な過去にぼくは少し困惑しながらも、そういう事をぼくに語ってくれた事が何より嬉しく思った。そして、ぼくの存在が彼女にとっての「自由」なのであれば、ぼくはいつでもそれを受け止めてあげたいとも思った。
いつでも相原さん専用の席をあけてお待ちしてるんですよ・・・というマスターのさっきの言葉が、ぼくの木綿子さんへの想いがオーバーラップするように思い出された。
その夜二杯目のカリラを飲みほした頃、店内にはまだデクスターゴードンの甘く切ないサックスの音色が響いていた。
勘定を済ませ、バーの扉を開けると、辺りはまだうっすら明るい薄暮のようだった。少しほてった顔を夜風で癒しながら、北野坂を上り今夜はそのまま家路についた。
帰宅すると、玄関まで走ってくる娘の雪。
「あれぇ~!パパもう飲んでるのぉ?酒くさぁ~い」
雪はそう言うやいなやクルリと背を向け、薫に報告するためにリビングへ走っていった。
「早くからお酒ですか?」
薫は少し皮肉っぽくそう言いながら、水の入ったグラスをぼくの前に置いた。
「ちょっと飲みたい気分でね。」
「あら、何か悩み事でもあるの?」
いつになく優しく聞いてくる薫に、ぼくはドキッとした。何となく木綿子さんの事が罪悪感のように思えたからかもしれない。
「生きてりゃ色々あるよ。まぁ大丈夫だから。」ぼくは、そう軽く受けながした。
薫も雪もすでに夕飯を済ませていて、今はぼくだけが夕飯を食べている。しばらくして雪は寝るために2階の自分の部屋へあがり、薫は珍しく缶ビールを持ってきてぼくの前に座った。
「私もちょっと飲みたい気分でね。」
薫は滅多な事では愚痴をはかない女性だ。だからぼくは彼女の表情でその時の心理状態を読み取るしか術はないんだが、そんな優れた芸当がぼくに備わっている訳でもなく、今夜も彼女の表情からその心理を読み解くことはできないのであった。
ただ、ぼくが人生で悩んでいるように、彼女も悩んでいるに違いないことはわかる。生きてる限り、人はそれなりに悩みはあるものだ。でもそれをぼくに言ったところでどうしようもないという事を彼女はわかっている訳で、それでぼくには、はなから何も言わない。ある意味そういう賢い部分を持った女性だ。
そのあたりが、木綿子さんと対照的なところなのかもしれない。
殻にこもった私・・・。木綿子さんはメールで自分のことをそんな風に表現していたが、ぼくにとっては純粋でおおらかでストレートな女性。薫を大人の女性とするならば、木綿子さんはまだまだ少女のような面影を残しているように感じていた。
でも木綿子さんは自分を頑なである、と・・・。そう思うと、人というものは不変の性格というものがある一面、まじわる人によってその顔を変え、いくつもの人格を持っているものなのかもしれないな。
しばらくして薫も2階の寝室へ上がった。
ぼくも薫と一緒に上がって寝ようかと思ったが、どうしても今夜中に木綿子さんへ少しでも返信を書きたくてパソコンの前に座った。
- 木綿子さんへ
- メールありがとう。
- 言いたくない事を言わせてしまったようでゴメンね。
- 辛い過去なのに・・・。
- ぼくはね、木綿子さんのキラキラした屈託のない空気感がとても好きで癒されてる。
- 木綿子さん自身は自分の事をそんな風に思ってないみたいだけど、ぼくの中では本当にかわいらしくて、妖精のように思ってるんだよ。
- ちょっと美化しすぎかもしれないけど(笑)
- だからそんな木綿子さんの辛い過去を聞いて、少なからずショックを受けた。
- でもね、ぼくでよかったら、ぼくで自由になれるのであれば、どんな事でも話して欲しいと思ってる。
- ぼくがどれだけ受け止められるかわからないし、そんなにできた男でもないんだけどね。
- でも、いつでも受け止めたいと思ってる。
- だからどんな事でも遠慮なく言ってほしい。
- それだけ。
- 木綿子さんの言った通り、これはぼくたち二人だけの世界なんだから。
- とりあえずそれだけ言いたくてメールしました。
- じゃね。
- 優也
その夜、ぼくは木綿子さんの面影を追いながら眠りについた。
To be continued・・・ Written by 琉咲 凌