「あら、木綿子ちゃん」
商店街を越えたところの信号で信号待ちをしていたら声をかけられた。日傘をさしたまま横に振り向くと、色黒で背の低い中年の女性が眼鏡の奥の目尻にしわをよせてにこにこ微笑んでいる。
「あ、吉田のおばさん・・・」
私の顔が紅潮した。
私が大好きだった商店街の魚屋の奥さんの吉田さんである。小さい頃から「吉田のおばさん」と呼んでいた。
「久しぶりねぇ。木綿子ちゃんったらすっかり大人になって」
吉田さんは母に連れられて買い物に行っていた小さい頃からよく知っている。
母がいなくなって父の食事を作るようになってから、彼女にはとても世話になった。学校帰りに買い物で寄ると、旬の魚介を教えてくれたり、魚の昆布締めを教えてくれたり、何も知らなかった中学生の私に知恵を与えてくれた。いつも「木綿子ちゃんはお母さんがいなくてもがんばっていてえらいわね」って私を励ましてくれた。
「どれくらい会っていないのかしら。私はすっかりお年寄りよ」
吉田さんはそう言って声を出して笑った。
「私もいい年齢です」
私も合わせて声を出して笑った。
この商店街に来なくなってどれくらい経つのだろう・・・
大学を出て就職してこの先の住宅地にある実家を出てから来ていないのだから、十数年はこの辺りに顔を出していない。
私は日傘を閉じながら「お元気でしたか?」と言って、笑みをたたえた。
「腰を悪くしちゃってね。お店には立っていないのよ。今もリハビリに行っていたの。お店は息子夫婦に任せているから」
「ああ、そういえば、若い女性がお店に立っていました。お嫁さんなんですね」
「そうそう。よくやってくれて助かってるわ。そういえば、木綿子ちゃんはどちらへお嫁に行ったんだっけ?」
私は苦笑いを浮かべた。
「いえ・・・まだです。仕事に打ち込んでいたので婚期を逃してしまって」
「あら、そうだったの。お仕事を辞めたことを風の噂で聞いたのでてっきり結婚したのかと思った」
吉田さんは、町の井戸端会議で他人をあれこれ言うような人ではないことをわかっている。本当に町の誰かに私のことを聞いただけなのだろう。
「からだを壊して飛行機に乗れなくなってしまったんです。今は、お料理のお仕事をしています」
「まあ、それはよかった。あなたはお料理のセンスがあったもの。菊枝さんもお料理が好きだったから、母親譲りだわ」
吉田さんは母と仲がよかったのだ。だからこそ、私もこのおばさんが好きなのだ。母が好きな人は私も好き。
買い物に連れられて魚屋に行くと、母と私は店の奥の部屋に入れてもらって、お茶とお菓子をいただいたものだ。
「お父さん、ちょっとの時間だけお店をお願いね」なんてさらっと笑顔で言う吉田さんを見て驚いた私だった。うちの父を見ているだけに、家のご主人はこわい存在と思い込んでいた私だったから。
そんな時、母と吉田さんはお茶の間で大人の話をしていた。私は小さかったので会話の意味がわからなかったけれど、聞いてはいけないような空気が流れていた時があったことをおぼえている。
信号がかわった。
でも、私は横断歩道を渡らず吉田さんと会話を続けた。
「昨日、泊りで久しぶりに父に会いに来たんです。今日はお夕飯を済ませたら帰る予定ですが」
「そう。それはお父さまも喜んだことでしょう。いつもお一人で寂しいでしょうから」
「はい。私が家を出てからは家政婦さん任せだったので、そろそろ親孝行しないと」
私は昨日の父を思い出した。私のタンシチューをとても喜んで食べてくれた父を。めずらしくワインを飲みたいと言って、ワインセラーに保管してあったボトルを出してくれた。私たちは、以前になかった親子の時間を持つことができた。
「でも、木綿子ちゃんもそのうちお嫁さんになっちゃうんですものね」
「いえ、それはまだ・・・」
「でも、いい人がいるんでしょ?」
私の脳裏にデパートで見た優也さんの後姿が不意に現れた。
「はい、大切にしてくれる人はいます」
「そうよ。あなたみたいに綺麗な人にいい人がいないわけないわ。どんな方なの?」
私は、学のことを説明すべきなのだけど、頭に現れている幻の後姿がそれを否定した。
「遠距離恋愛なんです」
思わずそう言ったけれど、我に返るといきなりばつが悪くなった。
「あ、遠距離って・・・出張が多いってことで・・・」
私は、出張の多い人ということでごまかした。確かに学は国内の出張が多い人であるから・・・
吉田さんが私の顔を真剣な面持ちで見つめた。
「大切にしてくれる人と早く一緒におなりなさい。お父さまは寂しくなるでしょうけどもういいのよ。あなたは遊びたい時期に家のことをしっかりこなしてお父さまを支えてきたのだからね」
私は、涙目で見つめる吉田さんに笑顔で返した。
「いえ・・・もう少しの間、母の代わりに父を支えようと決めました。結婚は少し先にしようかと・・・」
「菊枝さんの代わりにあなたが犠牲になることはないのよ」
吉田さんの発言に私は反論した。
「犠牲だなんて・・・だって、私の父ですよ。父を大切にしていることが、娘の犠牲になるなんてないです」
吉田さんの顔が一瞬曇った。
「いいえ、菊枝さんは菊枝さんで幸せなのだから、あなたはあなたの幸せを見つけないと」
「母が・・・幸せ?」
吉田さんは「思わず発言してしまった」という感じでためらうようなしぐさを見せた。
「あらあら、こんなところで引き止めてしまってごめんなさいね。私も孫の面倒をみる時間に間に合わないから・・・またね・・・」
そう言って吉田さんはせわしなく商店街に消えた。
私は何となく消化しきれないような胸がもやくやする思いで信号を渡った。
(「菊枝さんは菊枝さんで幸せなのだから」・・・って、お母さんは今幸せにしているってこと?)
私は吉田さんが母のことを何か知っているのではないか、と思い始めた。商店街に引き返そうと思ったけれど、私の中の古い傷が疼いて真実を探る行為を留めた。
そう、私は真実を知るのがこわいのだ。
もしも、母が私を愛していなかったら・・・と考えると、事実もわかっていないのに、たったそれだけの疑問で私は真っ暗な深い穴に落ちてしまう。
小さい頃、そして大人になってからも、母を思い出すと「どうして一緒に連れていってくれなかったの?」という思いが離れなかった。
どんなに寂しい思いをしても、父の暴言やお仕置きがつらくても、母を恨んだことはなかったし、母が私を捨てたとは思っていなかった。
私は母を信じているので、それを覆されることは私の最悪のシナリオなのである。
私は、悶々とした思いを抱えてとぼとぼと歩いた。
家に帰ると町の社交団体の会合に出かけた父はまだ留守だった。
私は買い物した袋を乱雑にキッチンに放り投げると、先ほど買い物をした小さな袋を探し出し、中から充電器を取り出した。
うかつにもiPadの充電器を自宅に忘れていたのだ。バッテリーが切れてしまって、昨日の夜中からインターネットとメールから断たれた時間を送っていた。
優也さんとメールのやり取りを始めてから、メールチェックは私のささやかな至福の時間となっていたから、私はエネルギー補給を急ぐかのように慌ててiPadにバッテリーチャージした。
メールを開く時の弾む心が私のエネルギー。優也さんと出会ってからは、うれしい時も悲しい時も幻の優也さんと共に過ごしてきた私だから・・・
私は花が咲く丘で美しい蝶々を追っているような気分だった。ひらひらと飛ぶから、なかなか捕まらない小さな美しい物体。追っている時が楽しいのかもしれない。だって、捕まえてみたらそれはただの昆虫なのだから。
(でも、それでもいいわ。追っている時が楽しいのなら、捕まえられなくてもいい・・・)
私はそう思いながら、目に見えない幻の何かをつかまえるような気持ちで新着メールを開いた。
ところが、開いた優也さんからのメールを読み終えると、それまでの蝶々を追う自分はすっかりいなくなっていた。
そのメールには、私が与えた勇気で優也さんの家庭が円満になったこととそのお礼が書かれていた。
(私ったら何を期待していたのかしら・・・)
実際につかまえることができないと知った瞬間に、自分の中の淡い色が消えて、私は絶望の海に放り出された。
To be continued・・・ Written by 鈴乃
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