風の通る洗濯物干し場から夏の空を見ていた。ここは本当に日当たりがいい。じりじりと照りつける夏の日差しが私の肌に突き刺さるようだ。
「木綿子ちゃん・・・」
母の優しい呼び声に驚いて私は振り向いた。でも、そこには誰もいなくて私は肩を落とした。
母がここにいるわけがないのだ。
母が嫁いだ時に父に無理を言って造ってもらったというガレージの上の真四角の干し場。私はそこに一人ぽつんと立って母の面影を追った。
目で母の姿が見えなくても、私の心の目には母の優しい笑顔が映っていた。
「お母さん・・・」
一粒の涙と共に回想を始めた。母と一緒にここで洗濯物を干したあの日を。
たくさんの物干し竿がかかっていて、母はまずそれらを固く絞った雑巾で拭く。そうしてから、日の当たるところに大きな洗濯物から順番に干していく。背が小さくて物干し竿に手が届かない私は、母に洗濯ばさみを一個一個手渡す役目・・・小さい頃の自分と母の姿が映画のように現れる。
物干し場に風が流れた。思い出の風だ。私はその風にゆらゆらと揺られながら心を開放し始めた。
干した衣類を両手でぱんぱんと叩きながら母が言う。
「長野のお祖母ちゃんはお洗濯が好きな人だったのよ。お母さんの家は生活が苦しくて決して上質な服は買ってもらえなかったけれど、いつも洗い立ての清潔なものを着せてもらえたの」
この干し場で母の子供の頃の話をよく聞いたものだった。
特に食事に関しての話は好きだった。母の生家は貧しかったからこそ、安い食材で工夫された美味しい食べ物が食卓に並んだのだそうだ。長野の家は行ったことがないけれど、たぶん、祖父も祖母も心が豊かな人だったのだろう。
しかしながら、結婚相手の父は裕福な家で育っているから、母の作る料理がめずらしく感じたに違いない。私の記憶では、父は食卓に並ぶ母の手料理に難癖をつけることが多かった。
母がいなくなってしばらくは女中が食事を作ってくれたけれど、料理に興味があった私は、中学生になると自ら申し出て父の食事を作り始めた。
父がうんと小さい頃は、家に住み込みの料理人がいたくらいだ。そんな父は味には敏感で、どちらかといえば家庭料理よりもレストランで出てくるような料理を好んだ。
すなわち、私はそういった料理を十代の頃から父のために作っていたということなのだ。それゆえに、私は父の嗜好はよくわかっている。
父は家が好きな人なので、外食することはほとんどなかったけれど、気が向いた時だけ連れられて食事する店は、学校の友達が行ったことのないようなところだったと思う。
父と私が店に入ると、蝶ネクタイをした支配人が出てきて、真っ白なリネンのかかったテーブルに案内される。
テーブルの上にはシルバーのカトラリーが行儀よく並んでいて、部屋を見渡すと正装した大人たちがそれらを品よく扱って静かに食事をしている。彼らは、私に少しだけ怪訝そうな顔を向けることがあった。
中学生が出入りするような店ではない、ということなのだが、私は制服姿でふかふかの椅子に座ると胸が騒いで落ち着きがなくなったものだ。堅苦しさに閉口していたのではなく、どんな料理を食べられるのか非常に楽しみで、そんな期待で胸が踊ったのだ。
そうして、後日、食べたものを家で再現すると、その時だけは父に褒められた。
でも、私の料理好きは食通の父の食事を作っていたからではなく、実は母譲りなのだ。
母の作る鰯の酢締めやレバーの炒めたものは子供ながらにとても美味しいと感じた。レストランでは味わえない、ただ単に「美味しい」と言葉だけでは表せない味。それは、母の愛情の味だったのだと今になって思う。
小さい頃、母のような女性になることが私の夢だった。決して美人ではなかったけれど、温かい人だった。温かい人だからこそ、洗濯や料理に愛がこもっていたのだろう。母の作る料理は美味しかったし、洗濯した衣服は、太陽の香りと洗剤が混ざったようなとてもいい香りがした。
「木綿子・・・木綿子・・・」
母屋から私を探す父の声がした。
私は慌てて時空を戻して「はい、今戻ります」と大声で返事した。
夢のような世界から現実に戻ると、さっきまで真新しかった物干し場が急に年をとったように思えた。床に散らばった色褪せた洗濯バサミ、塗装のはげた床、ところどころにはっている蜘蛛の巣・・・まるで魔法がとけたかのようにすべてが薄汚く見えた。
(ここの主がいないのだから、仕方ない。これがここの本当の姿なのよ)
そう思ったら、胸にせつない思いがこみ上げてきたけれど、喉のあたりでそれを押さえ込んで、塗装がはげた赤茶色の鉄筋の階段を降りて父のもとに急いだ。
父は、不機嫌そうな顔でクリスタルグラスを手にしていた。
「これはなんだ」
そのグラスには、私がフラワーショップで買った水色の可憐な花が活けられていた。いたいけな小さな花は高級食器に相応しくないけれど、この家には花瓶がないので仕方がない。私は目についたグラスに挿して父の書斎に置いたのだ。
「かわいいでしょう。ブルースターよ。私の好きなお花」
私は父に笑みを向けたが、父は表情をかえず「私には必要のないものだ。帰るときに持って行きなさい」と言った。
父が花を好かないことはわかっていた。なぜならば、以前の我が家の庭は、花好きな母が植えた植物がどのシーズンも花をつけていたからだ。母がいなくなってから、庭が荒れて雑草だらけになり、父は荒れた庭を見るたびに「勝手に育つ植物は厄介だ」と怒った。父は母を恋しく思ったのだろう。庭を見るたびに母を思ってせつなく感じていたに違いない。
そんな理不尽な台詞を常々吐く父なのに、私が買ってきた花を批判しなかったのは、年をとったせいなのだろう。
私が家を出てから、父は以前の父と違う顔を見せるようになった。以前の父ならば、私にあてつけるようにブルースターをゴミ箱に無造作に投げ込んでいたはずだ。
父は花が挿されたグラスをマントルピースの上に置いて書斎へ戻ろうとした。そして、後ろを向いたまま「いいにおいがするな」とつぶやいた。
「久しぶりにタンシチューを煮ているの。お父さん、好きでしたものね。私、お料理の腕を上げたのよ。お夕飯を楽しみにしていてね」
私がそう言うと、父は無言で廊下へ消えた。
夕飯までまだ時間がある。私はバッグからiPadを取り出した。
―優也さん
―今日は実家から実況中継です(笑)
―久しぶりに一人暮らしの父のところに来ています。
―ねえ、聞いて。
―今、私、泣いているの。
―実際に涙は流していないわ。
―心が泣いているの。
―人の人生ってせつないものね。
―優也さんだから正直に気持ちを言うわ。
―私、父のもとに戻ろうかしら、なんて今唐突に考えている。
―私は越したばかりだけど、そんなことどうでもいいわ。
―父の背中から声がしたの。
―さみしいって。
―思い出のつまった家に一人ってつらいことと思う。
―久しぶりに家に戻ったら、母の面影が頭から離れなくて、父のつらい気持ちをやっと理解できたの。
―母がいなくなったのは父がいけなかったとはいえ、父自身苦しんだことでしょう。
―私も父にはひどいことをされたり言われたりしたけれど、何の恨みもないの。
―だって私の父なんですもの。
―許すとかそういうこと以前に私の父である事実は覆せないから。
―年老いた父を守る時がきたのかな、なんて思っています。
―たぶんね・・・
―こんな気持ちになれたのは優也さんという存在があるから。
―私の味方が遠い西の空の下にいると思うと勇気が出るの。
―そんなわけで、距離を置いていた父のところに思い立って来てみたの。
―トラウマがあって実家には寄り付けなかったから、父に電話を入れるのも緊張したのよ。
―でも、来てよかった。
―今日は父の好物のタンシチューを煮ているの。
―とても美味しく煮えると思うわ。
―だって、父を思って心を込めて作っているから。
―ありがとう、優也さん。
―あなたの存在がどんなに心強いか。
―優也さんの姿はわからなくても、声は聞こえなくても・・・
―心は繋がっているはず。
―だから、私はその見えない繋がりを頼って自分の力を振り絞って自分を変えています。
―優也さんも私の存在で勇気を出してほしい。
―大人になると一歩踏み出すことは勇気がいることよ。
―大人は余計な思いが頭の中を占めるからね。
―でも、踏み出せないで後悔するよりも、踏み出した後で後悔する方がいいと思うの。
―そんなことを言いながらも、私は優也さんに対しては余計な思いがたくさんよ(笑)
―一歩踏み出して西に向かえばいいのに、それができない。
―なぜなのかしらね。
―そうそう。
―なぜなのかしらね、と言えば。
―今日、なぜなのかしらね、という不思議な思いを抱えてます。
―小さな水色の花を思わず買ってしまったのだけど。
―その花を見ていると、胸がつかまれたような気持ちになるの。
―なぜなのかしらね。
―木綿子
振り向くと、マントルピースの上のブルースターが消えていた。父がこの部屋に入ってきたことに気づかないくらい真剣にメールをうっていたということか。
(私はブルースターなのに・・・私は父に捨てられてしまったのかしら)
落胆しつつ廊下に出て少し扉の開いた父の書斎をそっと覗いた。すると、書斎の窓辺に青い小さな私がいた。
父は、書斎の扉に背中を向けて何か書き物をしていた。背中が小さく見えた。
私は心の中で「お父さん」とつぶやいた。ぽろぽろと大きな粒の涙が私の頬を伝った。
父は今ここにいるんだ。
(お父さんは私を捨てやしない。だってお父さんだもの・・・私は娘なんだもの・・・)
自分の中で大きなうねりが起こっているのを感じた私は「お父さん」と何度も何度もつぶやいた。
To be continued・・・ Written by 鈴乃
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