待ち合わせの時間から十分が経過した。
金曜日の夕方。駒沢通りは少々渋滞していた。バスを使わなければよかったかしら、と後悔しつつも、私は、すでに遅刻している自分に、焦りも罪悪感もまったく感じていなかった。むしろ、防ぎようのない理由で大幅に遅刻したい気分だった。
「来週は、キンキンに冷えたシャブリジェンヌで白身魚の刺身を食べよう」
先週、学がそう提案した。
学のうっすら汗ばむ腕を腕枕にして、横になっていた時のことだ。 その時、私は、学の香りの中で潮がひいていく自分を感じていた。学は、なぜだか、私の引潮のタイミングで必ず翌週の予定を決める。
学の提案は、いつも行くリストランテではなく、鮨屋でワインを飲もうということだった。
「お鮨屋なら冷酒にしましょう」
私はそう言ったが、学は、どうしても白ワインがいいと主張した。
「鮨屋だからってメイドインジャパンの酒を飲む必要はないさ。でも、シャブリは、玉石混交だからなぁ」
学は、私の頭から右腕を抜くと、ベッドから起き上がった。そうして、脱ぎ捨てたシャツの胸ポケットから煙草を一本取り出すと火をつけた。一服すると、思いついたように言った。
「ワインの持込ができる店にしよう。鮨屋にシャブリジェンヌはないだろうから」
私は、顔をしかめた。
「ねえ、私の寝室で煙草を吸わないで」
私は、煙草の煙が嫌いなのだ。
「魚はサヨリがいいな」
学は、サヨリの刺身と白ワインの相性を脳で感じてほくそ笑んだ。そうして、私のリクエストを無視して白い煙を口から吐いた。
学は、いつも一人で決める。私のお願いはほとんど聞いてくれない。私の意見は蚊帳の外。
その先週の提案であった鮨屋で外国のお酒を飲む約束のために、私はバスに乗っていた。
小麦色の肌に合うと思ってセールで買った濃いオレンジ色のノースリーブのブラウスに、ダメージ加工のデニムのミニスカート。ゴールドのヒールのミュールにゴールドの大ぶりのピアスをつけて。
でも、目的地に向かいながらも、今日は、何となく学と会いたくない気分だった。
(なぜなのかしら)
バスから見える景色をぼうっと見ながら私は自問した。
しかし、答は出ず、自分の中に現れたのは、優也さんのメールの文面だった。
― 大自然の中では、ぼくたち人間なんてちっぽけなもんだと思う。
(そうよねぇ)
私は、心の中でつぶやいて小さく微笑んだ。
人間は、ちっぽけな存在なんですもの。小さな存在が理由をあれこれ考えるなんて、もっと小さいわ。不平不満はどこかに置いておこう。今を生きるべきなんだもの。
優也さんは、海辺の街で今頃何をしているのかしら。
これから婚約者と会うというのに、私の心は遠い西の街に住む優也さんに向いていた。
To be continued・・・ Written by 鈴乃
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