私は、白菜を切っていた。無心になって、キャベツの千切りのように、白菜の繊維を潰すように細長く。
「冷蔵庫を開けた時に、この瓶が空に近くなっていると不安になる」と、学が言う、その瓶の中身をいっぱいにするために、白菜一株をすべて切るのだ。
大量の白菜は、塩でしんなりとさせてから、リンゴ酢、白ワイン、赤唐辛子、粒コショウで酢漬けにする。隠し味は、クミンシードとローリエの千切り。
学は、この白菜の酢漬けが好物で、お酒を飲んだ深夜の帰宅であっても、必ず食べてから寝るらしい。
私は、半株を切り終えると、手を休めた。
(私は、一生、この白菜の酢漬けを作り続けるのかしら)
心の中でそうつぶやくと、なぜなのか、少しだけ疲労感が漂った。料理を作ることは苦にならない私だ。なのに、私が、少しだけくたびれた気分になったのは、一生添い遂げるという義務のようなものを感じてしまったからなのだろう。
(年齢的なことよ。私は、若いわけじゃないんだから。添い遂げる人がいて幸せなはず)
私は、何となく気力のない自分を否定すると、また、千切りを始めた。
さくさくさく・・・と、白菜と包丁が擦りあう音が、静かなキッチンにリズミカルに響いている。
学の家のキッチンは好きだ。ニュータウンのファミリータイプのマンションゆえに、一人暮らしには贅沢な造りなのだけど、キッチンはコンパクトなのだ。私は、小さくても中身が充実しているものに惹かれる。
そうして、キッチンがコンパクトである上に、キッチンの奥が小さなベランダに続いているというのが、この家の一番のお気に入りだ。料理という作業をしながらも、すぐに外部に触れられることは、料理好きな私には有難い構造だ。追い込まれた感じがしないし、お勝手口みたいでいい。
学は、そのベランダにゴミをためていたのだけど、私がこの家に来るようになってから、ちょっとした憩いの場に変身させた。
私は、そのゴミを片付けて、小さなハーブの鉢を並べた。そして、残った空間に、ワインの木箱を重ねて小さなテーブルを作った。
その木のテーブルに、オリーブが入った小皿を置いて、学がフルートグラス片手に食事の前のアペリティフを味わう。
そんな日の私は、キッチンで二人の食事の用意をしながら、オレンジジュースをちょっぴり入れたシャンパーニュを飲む。
キッチンとベランダは繋がっているから、学と私には、ちょうどいい距離なのだ。これは、私の理想の男女の距離なのかもしれない。
小さなベランダからは、多摩の西南地区の街並みが見える。その街並みを眺めながらの学のお決まりの台詞は「やっぱり、都心だよな」
私は、そのいつもの台詞に、そうね、とだけ返す。
「今度の家は、都心の高層マンションにしよう。木綿子が料理している姿がよく見えるように、アイランドキッチンにするから」
学は、そう言うけれど、私は、この家で十分だと思っている。料理ができれば、アイランドキッチンなどなくてもいい。でも、私は、そう言う彼には何も返さず、ただ微笑むだけである。
「この街は、文化の香りとブランドイメージを感じられるのが気に入って越してきたけど、外国の丘陵住宅地には程遠いな」
そう言って笑う学は、以前、山手線内側の高層マンションに住まっていた。前妻への慰謝料として、その部屋を明け渡し、そうして、南西へ越してきて五年。
そう、学が私と結婚するとしたら、彼は、二度目の婚姻届を出すことになるのだ。
私が、白菜に塩をふっていると、インターフォンが鳴った。この部屋の主のお帰りだ。彼は、私がいるとわかっていれば、鍵を使わない人なのだ。
学は、帰るなり言った。
「この前、君に頼んだ取引先の社長への贈り物、先方がたいそう気に入ったみたいだ。ありがとう」
「まあ、それはよかったわ」
私は、にっこり微笑んだが、しかしながら、そこに、やましく感じる自分が登場した。
「どこのデパートから贈ってくれたの?」
そう尋ねる学に、私は少しだけどぎまぎしてしまった。何でもない質問なのに、不意をつかれたような気がして、そんな自分に対して感じる後ろめたさが全身に蔓延してきた。
「銀座のデパート」
私は、それだけ答えると、話題をかえるように「蒸し暑い夜には、まずは、ビールかしら、それともシャワー?」と、学に質問をふった。
「汗をかいたから、まずはからだをすっきりさせてくるよ」
学は、私の心のうろたえに気づかなかったようだ。私にビジネスバッグを渡すと、ご機嫌な調子でバスルームに向かった。
その晩、学が寝息をたてて眠りについたことを確認すると、私はそっと寝室から出て、リビングルームのソファでiPadを開けた。
自分が、悪いことをしているような気がして良心がとがめたけれど、優也さんとメールで繋がりたくてたまらなかった。
― 優也さん
― こんな深夜、神戸の街のあなたは何をしているのかしら。
― もしかしたら、ジャズバーにいる?
― 人生を迷わないために、バーという場所があるのなら、私も今から神戸のジャズバーに向かいたい気分。
― でも、新幹線はもうないわね(笑)
― 今の私は迷っています。
― でも、迷っているくせに、迷う気持ちを否定する自分がすぐに登場するの。
― 「木綿子さん、あなたは幸せなはずよ」って。
― 幸せって人それぞれのはず。
― だから、私の幸せは、他人のそれと違う。
― でも、私は、自分にとっての幸せというものが何なのだかわからないまま、現状の流れに沿って生きているような気がして・・・
― こんなこと、優也さんに話してごめんなさい。
― 話題をかえるわね。
― ねえ、優也さん、あの時って、お仕事で東京にいらしていたのね。
― あの時って、あなたが私の手帳を持ち帰ってしまった日。
― いつも不思議に思っていたの。
― なぜ、関西に住まうあなたが私の手帳を持ち帰ってしまったのかなって。
― あのデパートに営業にいらしてたのね。
― ってことは、私たちの出会いは、あのデパートの五階の売り場ってことなのだわ。
― デパートの売り場が出会いだなんて、ロマンティックとは言えないわね(笑)
― っていっても、優也さんとお話したわけじゃないけれど。
― ねえ・・・私たち、いつか、会える日が来るのかしら。
― 今日は、少しお酒が入ってます。
― 東京の夜は蒸し暑かったから、白ワインを飲み過ぎてしまったの。
― 余計なことを書いてしまったかも。
― でも、今日の私はそのまま送信します。
― 消さないで、直さないで、そのまま・・・
― 木綿子
私は、迷わず送信ボタンを押した。
すると、ふと、中肉中背の男性の後姿が脳裏に現れた。場所は、あのデパートの売り場。
私は、贈り物の送り先を送り状に書き込んでいる。学に言われた住所を書き込んだ私の手帳を見ながら、丁寧に書いた字で。
ふと、顔を上げると、遠くに見える男性の後姿が私の目に飛び込んだ。その人は、背筋をぴんと伸ばして、デパートの人と打ち合わせをしている風だった。
でも、それが、優也さんだったかどうかはわからない。それに、幻のように後姿が浮かぶだけで、髪の色や長さ、服装は思い出せない。グレイのスーツだったような気もするし、ツイードのジャケットだったような気もする。
(あれは、優也さんだったのかしら)
私は、細部を思い出そうとしたけれど、ぼんやりとした人の後姿しか想像できなかった。
(私たちは、いつか会えるのかしら)
そっとiPadを閉じて、鞄の中に押し込んだ。
寝室に戻ってベッドにもぐりこむと、学が「どうしたの?」と小さな声で尋ねた。
「起こしてしまってごめんなさい。今日はワインを飲み過ぎたわ。お水を飲みに行っていたの」
私は、そう答えて目を閉じたが、頭の中は、デパートでの映像でいっぱだった。
To be continued・・・ Written by 鈴乃
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