「デュバリー伯爵夫人と王妃マリー・アントワネット」飯塚信雄、文化出版局 | サーシャのひとり言

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「デュバリー伯爵夫人と王妃マリー・アントワネット〜ロココの落日」
飯塚信雄 著
文化出版局

ベルばらの影響で、ギラギラした色香でルイ15世を籠絡したイメージのデュバリー夫人ですが、あまり語られる事の多くない彼女の生い立ちや、ルイ15世崩御後ヴェルサイユを追い出されたその後の様子などが描かれており、とても面白かったです。
私のデュバリー夫人像がかなり変わった1冊。

のちのデュバリー夫人の本名はジャンヌ・べキュ。
残された肖像画を見ると気が強い、と言うよりはホワンとした癒し系な気がします。
1769年に正式に国王の公式愛妾としてヴェルサイユで盛大な認証式が行われました。
前公式愛妾はあのポンパドール侯爵夫人。こちらはパン屋さんの名前にまでなっているのに、デュバリー夫人は悪女のイメージでなんだかちょっと気の毒に・・。
ルブラン画
とにかくお肌と歯並びがきれいだったそうです。

ジャンヌ・べキュは1743年、料理女アンヌ・べキュの私生児として生まれました。
母アンヌの父親はパン職人でしたが、当時のパリでも評判の美男子だったとか。
その後、母アンヌはジャンヌらを連れてパリに出て陸軍御用商人デュムーソーの家の料理人となりその家の使用人ランソンと結婚します。
もっとも夫となったランソンはコルシカ島任務を命じられ、実際のところアンヌは主人のデュムーソーの愛人だったようです。

デュムーソーは利発で美しいジャンヌを可愛がって、修道院寄宿学校に9年間も行かせてくれたので、ジャンヌはここで読み書きや手芸、音楽、絵画などを学ぶことができました。
私はデュバリー夫人は全然学のない人かと思っていましたが、当時の寄宿料が日本円で200万以上だったとのことですので、かなりちゃんとした教育を受けていたのですね。

15歳で修道院を出たジャンヌは、美容師見習いなどを経て、パリのブティック「ラ・ビーユ」の売り子となります。
そしてジャン・デュバリー伯爵の家に引き取られ(かなり怪しげな人物で本当の伯爵であったかも?らしいです)ますが、この人物が高級娼婦の斡旋的な仕事をしていた為、ジャンヌもその世界へ。
この頃、上流社会のエチケットに親しんだようです。

やがてポンパドール侯爵夫人亡き後、メランコリーが酷くなったルイ15世に対して侍従を介してデュバリー伯爵がジャンヌを売り込んだところ、老王が本気で彼女を気に入ってしまった為、急遽伯爵に昇格させたデュバリーの弟とジャンヌを形だけ結婚させて宮廷に入れたと言うのが、公式愛妾になるまでのジャンヌの半生です。



デュバリー夫人は非常に屈託なく明るい性格だったようですね。
そんなところに老いたルイ15世は癒されたのかもしれません。
ルイ15世が天然痘で死去する直前、告解を受ける為に王から遠ざけられ、その後逮捕令状が出て尼僧院に入れられます。
はじめこそ悲嘆に暮れていたデュバリー夫人ですが、やがてその素朴な人柄に触れて尼僧院の修道女達も優しくいたわってくれるようになり、一方で世の中の風向きも変わっていきます。

(マリー・アントワネットは相変わらずデュバリー憎し!だったようですが、その様子を見たマリア・テレジアは「もうあの方も気の毒な状況なのだから、いつまでもキイキイ言うんじゃありません!」と手紙で注意しています・・)

旧知の貴族達の弁護や尼僧院長の請願書が効いて、囚われの身となって1年後、デュバリー夫人は尼僧院から解放されます。
更に1年半後には完全に自由の身となり、財産と収入もそっくり返ってきて伯爵夫人らしい平穏な生活が始まりました。
村の人々にも優しく、心を込めて施しをする夫人のもとには、ヴェルサイユの旧友の他、なんとマリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世(変装して・・。でも妹は激怒したようです)やヴォルテールも会いに来たとか・・。
少し太っても癒し系美貌は相変わらずだったようですね。

その後も恋愛話の絶えないデュバリー伯爵夫人は革命が始まっても結構呑気に過ごしていたようです。
大きな変化があったのは1791年。(もう既に国王一家はパリに移送されてます・・)
夫人が恋人ブリサック公の宴会に招かれた留守中、領地の館から大量の宝石が盗まれます。

そして不用意にも夫人は、行方不明のダイヤモンド情報求む、の張り紙をパリの街角に張り出してしまい・・・
パンをよこせと人々が叫んでいる最中に法外な値段の宝石を列挙した事で一気に夫人のイメージは悪くなりました。
その後ロンドンで泥棒が捕まった為(でも宝石は戻らず)、夫人は何回か宝石の行方を求めてロンドンに渡りますが、当地での彼女のサロンはフランスからの亡命者達の溜まり場となりイギリス社交界へも道が開けます。

時は1792年。既にヴァレンヌ逃亡は失敗、国王一家はタンプル塔へ、恋人ブリサック公の首がデュバリー夫人の館に届けられ、そして9月虐殺事件でランバル公妃も虐殺された、そんな状況下でデュバリー夫人が何度もイギリスを行ったり来たり出来たのも不思議ですが、ともかくブリサック公虐殺の1ヶ月後にデュバリー夫人は4度目のイギリスへ。

ウィンザー城で国王に拝謁し、ロンドンのサロンでは首相とも会見。
フランスからの亡命者達へデュバリー夫人は多額の義援金を贈ったり、もうこのままイギリスに居れば良いのにとしか思えませんが・・

領地の館が差し押さえにあい、保管していた宝石を取り戻す為にデュバリー夫人はフランスに戻ります。
イギリス首相に警告されても!(既にルイ16世は処刑されてます)

フランスに戻って半年後、結局デュバリー夫人は逮捕されます。(50歳ですが、また新たな恋愛中)
逮捕理由はイギリスの亡命者達に義援金を送ったこと、ルイ16世の死を悼みロンドンで喪服を着たことなどなど・・
当然、判決は死刑です。
宝石の隠し場所を話せば罪が処刑されないかもと、何もかも話しますが判決が覆る訳もなく。

マリー・アントワネットが処刑された約2ヶ月後。
荷馬車に乗せられ刑場へ向かう途中、抵抗し泣き、叫ぶデュバリー夫人。「助けて!何でもあげるから命だけは!」
2人の刑吏によって断頭台の前に抱え上げられ、それでも「ちょっと待って!」と最後の足掻きを始めるも刑は執行され50年の人生を終えます。


死刑執行人のサンソンは泣き叫ぶデュバリー夫人についてのちにこう述べたそうです。
「みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」




出自は決して立派なものとは言えませんが(もちろん出自に立派も立派でないもないのですが)、ちょっと眠そうな美貌だけではなく、明るく気さくで性格も良い人だったように感じました。
だからこそ、ルイ15世も告解を受けるために彼女を遠ざけながらも、デュバリー夫人が出発した後になってもまだ「もう一回会いたい」と呟いたり、どこへ行っても新しいコミュニティを作れたのだと思います。
(領地の村民達も最後まで彼女に悪い印象は持っていなかったようですし)

ひょんな事から、国王に売り込まれて公式愛妾になったものの、野心というより宝石やきれいな物が大好きで、いつまでも恋をしていたい普通の可愛い女性だったのかも。
毅然と断頭台に向かった人の話は時々読みますが、その反対に、道中から泣き叫んで、断頭台の周りの群衆にまで慈悲を乞うたというデュバリー夫人の様子にはとても胸が痛みました。
本来、ギロチンにかけられるなんて泣き叫ぶほど恐ろしい事の筈ですから・・。


それにしても良し悪しは別として漫画の影響って大きいですね!
デュバリー夫人、もっと目がつり上がった野卑な人かと誤解していました。ガーン