「フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝」河出文庫 | サーシャのひとり言

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河出文庫から出ている「フランツ・ヨーゼフ: ハプスブルク「最後」の皇帝」。
江村洋さんの本はカール5世のものも読んだ事があります。

正確にはオーストリア帝国最後から2番目の皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世。
(最後の皇帝はフランツ・ヨーゼフの甥の子であるカール1世ですが、フランツ・ヨーゼフの統治期間が68年間、カール1世は2年間ですから事実上帝国が瓦解したフランツ・ヨーゼフの治世がほぼラストと考えても良いかと思います。)

弟のマクシミリアン大公や妻のエリーザベト、息子のルドルフ皇太子の嵐のように劇的な人生に比較すると、ともすれば地味で派手なエピソードに欠けるフランツ・ヨーゼフ1世の生涯はこれまで殆ど知りませんでしたが、思わず高倉健さん風に「不器用ですから・・」なんて台詞が聞こえてきそうな(私見ですチュー)ただひたすらにコツコツと仕事をし続けた86年の生涯、読み終わってみるとその足取りがずっしりと胸に響くものでした。


✳️若き日のフランツ・ヨーゼフ1世。
生涯ほぼ軍服人生。王侯貴族の豪奢な衣装とは縁が無かったようです。

ムンカーチの「ハンガリーの軍服姿のフランツ・ヨーゼフ1世」ずいぶん面変わりをして、何だかすごく苦労したんでしょうね・・。
オーストリア帝国自体が約12の言葉も宗教も異なる民族から構成されていたのは今回初めて知りました。


〜(本文より)フランツ ・ヨ ーゼフは 、一日の10時間以上 、仕事を続けた 。それは18歳で帝位に就いてから86歳で生を閉じるまで不変だった 。この人ほど仕事熱心だった役人はいない 。彼は普通は朝4時に起床した 。時によると3時半のこともあった 。季節を問わず冷水で洗顔を済ますと 、歩兵隊少尉の制服を身につけた 。ふだん皇帝は私服は着用しなかった。

夕食の後にヴァ ージニアたばこをくゆらすのが 、フランツ ・ヨ ーゼフの日常生活の唯一の緊張緩和の一時だった 。朝が早い皇帝は夕方8時から8時半のうちには自室に入り 、まもなく寝込むのが慣例だった 。早寝早起きの健康優良児といったところであろうか 。〜

うーん、正にワーカホリック・・。

✳️〜(本文より)1866年はオ ーストリア帝国にとって運命の年である 。この年を境として国家は完全に従来とは異なる道を歩み始めた 。その機縁の一つは普墺戦争の敗北によるドイツからの退去であり 、もう一つはハンガリ ーとの妥協による二重帝国の成立である 。

ドイツ問題に関しては 、オ ーストリアにとってケーニヒグレーツの敗戦の持つ意味は甚大だった 。これまでの数世紀というもの 、ハプスブルク家はドイツ全体における最大の盟主だった 。少なくとも18世紀まではオ ーストリアに匹敵できるほどの強国はなかった 。18世紀後半になってプロイセンがのし上がってきたとはいっても 、あくまでもオ ーストリアが最大の国家であり 、ハプスブルク家がドイツのヘゲモニ ーを握っていた 。しかしケーニヒグレーツの戦いは 、ドイツの覇権問題に決着をつけた 。

オ ーストリアを含んだ形でのドイツの将来像を描いてきた大ドイツ主義は後退し 、これを除外した形での小ドイツ主義が勝利を収めたのである 。この結果 、オ ーストリアはドイツから完全に締め出され 、従来の西方重視の政策を東方主体に転換せざるを得なくなった 。

1866年を境として 、北方 (ドイツ )からも南方 (イタリア )からも追い払われたハプスブルク王朝がこれ以後も生き延びるためには 、中欧 ・東欧に活路を見出すしかなくなった 。〜


✳️アンドラーシ・ジュラ

王妃エリーザベトと恋愛に近い友情関係が噂されたハンガリーの名門貴族。
のちにエリーザベトの猛プッシュでオーストリアの外相に就任します。
マジャ ール人の完全な独立を目指す過激な革命家ラ ーヨシュ ・コッシュ ートとは違って 、ハプスブルク王朝との和合と穏和な形での共存を願っていました。

〜高まる民族運動の中、1867年春にはオ ーストリアとハンガリ ーは 、 「アウスグライヒ A u s g l e i c h 」 (和協 )と通称される歴史的な協定を結ぶことになった 。
アウスグライヒの結果 、ブダペストでは穏和派のアンドラ ーシとデア ークを中心としてマジャ ール人独自の内閣が形成され 、オ ーストリア帝国は二つの半ば独立した国家の集合体となった 。
ここにオーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生する。オ ーストリアとハンガリ ーは共に君主フランツ ・ヨ ーゼフを戴くことでは共通しているが 、両国に共通する外交 、軍事 、財政を除いて 、それ以外の内政に関することは完全に独立とされた 。〜




✳️ハンス・マカルト作
「1879年の祝賀パレードの為のデザイン画」
様々な同業者組合のパレードが描かれています。
ウィーン・モダン展で展示されていましたが、この1879年の祝祭とはフランツ・ヨーゼフとエリーザベトの銀婚式の祝祭です。
ハンス・マカルトが祝祭行列のすべてを立案しました。
✳️カタリーナ・シュラット

結婚当初から彼女に冷たく当たった姑のゾフィー亡き後も、エリーザベトはウィーンの宮廷には居付かずに転々と旅行を繰り返し不在がちでした。
年に数日程度しか皇帝と過ごす期間が無いエリーザベトが、フランツ・ヨーゼフにあてがった皇妃公認の女性がブルク劇場の女優カタリーナ・シュラットでした。
この辺り、頻回に心の籠もった(少なくても皇帝からの手紙は)文通をしながらもどうにもよく分からない夫婦関係・・。

ギャンブル好きで負けを繰り返すシュラットに、皇帝はずいぶんポケットマネーから援助をしたようですが(皇帝自身は使用済みの紙の裏を使うほど質素だったとか・・)それでもエリーザベトの長きに渡る不在、そして皇妃亡き後の皇帝の孤独を癒した唯一の女性であることには変わりないようです。


✳️〜(本文より)フランツ ・ヨ ーゼフは折りあるごとに 、 「我は見捨てられし者なり 。最後の息の絶えるまで戦う者なり 。名誉のうちに滅びゆく者なり 」との思いを深くしてきた 。彼はハプスブルク王朝がソルフェリ ーノやケ ーニヒグレ ーツで決定的な敗北を喫したり 、ル ードルフ皇太子の情死や愛妻エリ ーザベトの暗殺のような悲劇的事件に遭遇すると 、決まり文句のようにこの言葉を口にした 。そしてその打撃に耐えるために 、ひたすら政務に没頭した。帝国のいかなる役人にもまして仕事熱心な彼は 、人生の最後の瞬間に至るまで国務を遂行し続けた 。

(しばらく前から風邪をこじらせていた皇帝ですが、よる年並みに勝てず遂に最後の日を迎えます。)
11時半に帝位継承者カ ール大公と妃ツィタが見舞いに来ると 、皇帝はふたりに向かってこぼした 。 「早く回復したい 。仕事が多く残っている 。とても病気になどなっていられない 」それからフランツ ・ヨ ーゼフは宮廷司祭のザイトルを呼んで 、告解をすませ聖体拝領を行った 。まもなく熱は三十九度五分まで高まった 。それでも皇帝は仕事机に向かっていたが 、彼の手からは筆がこぼれ落ちた。〜

1848年12月2日から1916年11月21日まで 、68年間の長きにわたってハプスブルク王朝に君臨したフランツ ・ヨ ーゼフが第一次世界大戦の最中に逝去。86歳でした。

✳️〜(本文より)そうした波乱含みの状況のもとで 、1918年に第一次世界大戦は局を結んだ 。この年の11月 、ウィ ーンでは民衆蜂起が発生し 、荒れ狂った群衆がシェ ーンブルン宮殿に殺到し 、カ ール一世(フランツ・ヨーゼフの甥オットーの長男。すなわち孫世代)に退位を求める気配となった 。皇帝はやむなく帝位を降りる文書に署名し 、ここに650年に及ぶハプスブルク王朝はついに歴史の幕を閉じた 。カ ールとツィタは家族と共にスイスに難を避けたが 、やがて復権を目指、ハンガリ ーで王位に就こうと二度にわたって工作した 。しかしいずれも成功せず 、のちには身柄も拘束されて大西洋に浮かぶマデイラ島に流された 。カ ール一世はここで1922年4月1日、逝去した 。今日でも南国の花咲くマデイラ島のフンチャルには 、ハプスブルク家最後の皇帝の柩が置かれている 。〜

即位自体がハプスブルク家始まって以来のイレギュラーな形で始まり(3月革命の中、皇帝フェルディナント1世が退位し、本来継ぐはずの皇帝の弟カール大公を飛ばしてカールの息子で甥のフランツ・ヨーゼフが即位しました。カール大公妃ゾフィーのプッシュと、国民の不満解消に若々しい青年皇帝を、と言うことだったらしいです)、統治能力に長けていた訳でも無いにもかかわらず、帝国統治下の他民族のナショナリズムの高揚に翻弄されながらひたすら「多民族の一致団結と帝国の存続」を願ってコツコツと仕事をし続けたフランツ・ヨーゼフ1世。
地味ですが、彼自身がオーストリア帝国そのものを具現していたかのようで、その人生には読了後は圧倒された気分です。







ハプスブルク繋がりで、2年前に読んだスペイン・ハプスブルクものの本を自分リブログします。