「レンヌ・ル・シャトーの財宝伝説」その2 | サーシャのひとり言

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音楽や絵画など日々見たり聴いたりしたことの備忘録的ブログです。

その1の続き、以下こちらの本で考察され、出された結論をまとめます。

2005年に出版されたこの訳本には白黒ですがレンヌ・ル・シャトーの写真も掲載されており、かなりの力作だと思います。




始めから財宝のありかを示した羊皮紙など存在しない。

元々、レンヌ・ル・シャトーの財宝に関する記事が初めて書かれたのは、ベランジェの死後40年を経た1956年。
ベランジェ自身は羊皮紙の事も財宝の事も何も語る事なく亡くなっています。

ベランジェの死後、ベタニア荘を買い取ったコルブはホテルに改装し、客集めの為に当時から噂になっていた物語を大袈裟に語り、新聞記事になったことも拍車を掛け1950年代後半には財宝探し達が集まっていました。

一方で自分がレーダー伯の正統な後継者である事を自認していたピエール・プランタールと言う男が、メロヴィング朝ダゴベルト2世から現代のプランタール家に繋がる家系図をでっち上げる秘密文書を作る為に、ド・シャリセイという仲間と共に羊皮紙の暗号を作り出し、ベランジェの周辺の奇妙な出来事を利用しようと考えます。その時点で羊皮紙は行方不明、内容も正確に記録されていなかった(元々無かったのですから、当然ですが)ため、それを系図の証拠として使えば良いのです。

ダゴベルト2世は若くして死亡し歴史的によくわかっていない為、系図に利用するのに打ってつけでした。

1956年、プランタールはさっそく、アンリ・ロビノーという偽名を使って系図編纂の作業を開始、

実際、ド・シャリセイ自身がどのように羊皮紙文書を偽造し、暗号を作り解読したかを書いた文書も存在したそうです。

つまり、羊皮紙文書が古い教会の柱の窪みに隠されていたと言う話自体が、ベランジェの死後から作られた創作なのです。

つまりホテルの成功を望み、人々の財宝伝説の噂を誇張して客に話していたコルブの作り話に、自分がフランス王家の系統だと信じるプランタールが、彼の主張を支持するような証拠をねつ造して光を当て、レンヌ・ル・シャトーの伝説を自分の目的の為に乗っ取ったのが真実と思われます

ド・シャリセイ自身は頭の切れる落ちぶれた貴族出身で、自分の楽しみの為にパズル感覚で暗号を作ったと考えられています。




②元々財宝は存在しない
ベランジェはお金使いが荒くなってからも、終始金満家だった訳ではなく、さまざまな建築作業も資金繰りが悪化すると一旦中断したり、しばしば支払いを督促されています。
財産を相続したマリーも質素に生活し、晩年はとても貧しかったそうです。

到底、隠された財宝を見つけた彼が長年の間、少しずつ手をつけたというのは考え難く、金や骨董品を現金に換えた証拠も残っていません。

ソニエール自身は新築した自宅に有名人を招いたり社交的で魅力的な人物だったようですから、裕福な女性からの匿名の寄付もあったようです。

一方で生前のベランジェは、頻回に教区外に出かけ、郵便であちこちと連絡を取っていた事から、不正なミサの売買が指摘されていました。
教会の改修という当初の目的を果たした後も、贅沢を覚え品性が堕落したソニエールは日常生活に高価なものを取り寄せるようになり、不正な方法に手を染めたと考えられます。

残されたノートからは、聖職者として許された回数以上のミサを大規模に不正売買し大金を手にしていたことがわかります。
ミサの依頼の多くは、ミサを行なう事の許されていない女子修道院の修道女からだったそうです。









以前初めてレンヌ・ル・シャトーの伝説を読んだ時はずいぶんわくわくしたものです。
それほど昔ではない時代に取り上げられ始めた出来事が(1950年代なんて、この歳になるとつい最近の感じが・・)、カタリ派やメロヴィング朝、テンプル騎士団とも繋がりがあるかもしれないなんてそれだけで惹きつけられますよね!


でも、やはり作り物だったという・・・。
最初はやる気に燃えて荒れ果てた教会の改修をしようとした若い聖職者が、やがて贅沢な調度品や生活に関心が移り、匿名の寄付では足りずに不正に手を染める。
生前からお金の出所が色々と噂され、彼の死後、観光客を集める為に更に脚色がなされたのを、自称メロヴィング朝の子孫(真実は全く関係ない)が利用して偽の羊皮紙話が付け加わる事により妙な真実味が増し、ベストセラーやTV番組により世界的な秘宝話に発展した・・。

何事も真実には意外に謎など含まれないのかもしれません。
ちょっとガッカリ、でもよくぞここまで大きな話を作り上げる事ができたのね、と感心もしました。

ちなみにプッサンのアルカディアの羊飼いの絵の複製はベランジェの持ち物には含まれていなかったそうです。パリで複製画を購入したというのも、プランタールらが後に付け加えた挿話なのでしょう。


プッサンの絵のような墓石は確かにレンヌ・ル・シャトーにあったそうですが、地主が財宝探し達の荒らされるのに悩み1988年に墓石自体を破壊して撤去してしまいました。