「謎の解剖学者ヴェサリウス」坂井建雄 著、筑摩書房 | サーシャのひとり言

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よく読ませて頂いているブログ主様のご記事で知ったこちらの本。
元々ヴェサリウスの名前は、大学の教養課程で聞きかじったので知ってはいましたが具体的になぜファブリカがそれ程偉大なのかは考えた事もなく・・・。
偶然2年前にリンネ繋がりで訪れたスウェーデンのウプサラ大学でファブリカの企画展を見た事も手伝って、この本に興味を持ちました。

非常に面白かったです。
この本を読んでから企画展を見ていたらもっと楽しめたのに!と今更ながら残念なくらい。



モモイロオオカミろーず様、ご紹介、ありがとうございました。ニコニコ

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著者の坂井建雄さんは執筆当時、順天堂大学医学部の教授だった方。

解剖図にはその時代の人体のイメージが投影されているという導入から始まり、その人体を見る目が大きく変化した、言い換えると人体をありのままに捉える枠組みが新たに生まれた16世紀に中心的な役割を果たした人物として、まずヴェサリウスの立ち位置を明らかにします。

アンドレアス・ヴェサリウスは1514年にブリュッセルの代々の宮廷医師家系に生まれました。
パリ大学の医学部で学んだ後、イタリアのパドヴァ大学に移ったヴェサリウスは(当時のヨーロッパで医学が最も進んでいたのは北イタリア)、若干22歳で外科と解剖学の教授に抜擢されます。

そして解剖学の教授となって6年目、わずか28歳の時に出版したのが歴史的大著である「ファブリカ」と「エピトメー」なのです。

「ファブリカ」はウプサラ大学の企画展で実物を見ましたが、実に大きな本。ちょっと鞄に、とは絶対いきません!
ほぼ現在のA3判にあたり、計700ページ以上、重さ5kgという物理的にも大著です。
1542年、カール五世に献呈されました。

ヴェサリウス以前の解剖学教授は、解剖台から離れた高椅子に座り、古代ローマのガレノスらの解剖学書を読み上げ、実際の解剖は助手が執刀しました。

(ヴェサリウスの時代は、未だに二世紀頃の古代ローマの医師ガレノスの説が絶対的権威でした)

解剖はあくまで文献に書いてある事を確認するためのものであり、文献と人体の構造が食い違った時には文献の方が正しいとされるような奇妙な事がまかり通っていたのです。

これに対してヴェサリウスは、自分自身で文献を読み、解剖も行いました。
その文献に書かれた事を鵜呑みにするのではなく事実に基づいて考える姿勢、自律的な思考こそが近代医学の祖とされる所以なのでしょう。

解剖図には木版画が使われ、ヴェサリウスのスケッチを元に、画家が原画を書き、それを彫版師が原板にしました。


一方、エピトメーはファブリカの入門的要約版でフェリペ二世に献呈されました。
手頃な厚さと言う事もあり、当時はファブリカより大人気。実際に実習室に持ち込まれたり、切り抜かれたりで使い倒された為、現存する古書はファブリカよりずっと少ないと言われています。
(何だかあるあるですね)

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ところが、このファブリカ、エピトメーの出版後、ヴェサリウスはパドヴァ大学を突然辞めて神聖ローマ帝国皇帝カール五世の侍医に転身します。(ヴェサリウス家の伝統の為と思われます)

以後皇帝侍医として、皇帝やその家族の健康を見守る事になるヴェサリウスの後半生は完全に学問の世界から切り離されてしまいました。

1556年にカール五世が退位するまでの13年間、カール五世退位後は息子フェリペ二世に請われてスペイン王室に1564年49歳まで仕えます。

💎暴飲暴食で痛風だったカール五世の健康管理(さぞ苦労したでしょう)、
💎皇帝がザクセンのモーリッツ公に裏切られてインスブルックから逃亡した事件ではその少数の皇帝の随員の中にヴェサリウスの姿もありました、
💎またフランスのアンリ二世が馬上槍試合で重症を負った(のちの死亡をノストラダムスが予言)時は、皇帝がヴェサリウスを治療の為にパリに遣わせたそうです

💎そしてヴェサリウス47歳の時の大事件
フェリペ二世の長男ドン・カルロス16歳がアルカラ大学在学中に階段から転倒し生死の境を彷徨いますが、ヴェサリウスの助言による治療で一命を取り留めたとされます。

ドン・カルロスのアルカラでの大病は、シラーの本でも出てきて、この時瀕死のカルロスと元婚約者で今は父フェリペ二世の妻エリザベートが取り交わした手紙を、カルロスに横恋慕するエボリ公女が盗み出してフェリペ二世に密告すると言う話なのですが・・。
実際は、カルロスが目を付けていた王宮の管理人の娘が通りかかったので追いかけようとして階段から足を滑らせたのがホントのところのようです。ガーン
シラー、どれだけ美化すれば??という感じですよね・・・。びっくり





フェリペ二世の信頼も厚かったヴェサリウスですが、学問から離れて色々思うところはあったのではないでしょうか?

ファブリカに対して、その後の観察所見に基づいた批判的著作が出されても、保守的なスペイン医学界では解剖どころか骨格標本すら手に入らないヴェサリウスには過去の記憶以上の反論材料がありません。

やがてヴェサリウスには古巣のパドヴァ大学教授に復帰する希望が生まれたようです。
色々策を凝らして何とか1564年にスペイン宮廷を辞職してヴェニスに向かいます。
(この辞職に至った経緯には色々な話が伝わっています。ヴェサリウスが誤って死亡の診断をして解剖を始めたところまだ心臓が動いていたため、宗教裁判所に訴えられ死刑を宣告されるも王の取り成しでエルサレム巡礼で償う事になったなどなど。本当のところはわからないようですが)
 

辞職の経緯の真実はわかりませんが、スペインを離れたヴェサリウスはフランスで家族と大喧嘩をして別れ、一人イタリアに向かってパドヴァ大学の教授に再任された後、同年秋の新学期の前に旅行をしようとエルサレム巡礼に出かけます。
そして聖地からの帰路、体調を崩し地中海のザキントス島で孤独な死を遂げました。1564年、49歳でした。結局、パドヴァで再び教壇に立つ事はなく、実質的には学問の世界には戻らずに終わりました。



著者の坂井さんのまとめがわかりやすいのですが、
「ヴェサリウスの成し遂げた事は、近代医学という枠組みの核心部分を作り上げたこと、あるいは科学的なものの見方、態度を身をもって実践しそれを他の人達に見習わせたことである。」

「ファブリカの価値は、一つ一つの解剖学的な事実よりも、この本全体が体験的に教えてくれる、科学者の基本となる態度や原則なのである」




なお、ヴェサリウスの一世代前のレオナルド・ダ・ヴィンチとの比較も興味深く読めました。
レオナルド自身も解剖を行ない、その作品は絵としては非常に美しいのですが、間違った思い込みや描写が多くあり、自然観察に優れたレオナルドをしても観察史上主義に至るのは難しいことだったのがわかります。
著者がヴェサリウスにあってレオナルドに無かったものとして、教育により得られた学識である、と述べたのはその通りなだけに、レオナルドの生い立ちを思い出して寂しい気持ちになりました・・・。





ヴェサリウス自身についても面白く読めましたし、パドヴァ大学辞職後にカール五世やフェリペ二世に仕えたのも、最近その辺りの本を読んでいたので繋がりで興味深かったです。

それにしてもこの時代に現れた人びとの素晴らしさと言ったら・・・!
ファブリカの出版された年には、コペルニクスが地動説を発表、ミケランジェロは最後の審判の制作真っ最中。
ヴェサリウスの亡くなった年には、ガリレオ・ガリレイが生まれています。眩しすぎます!照れ