雲ながるる果てに | S A L O N

航空機による体当たり攻撃…いわゆる“特攻”が作戦として開始されることが決定し、昭和19年(1944年)10月25日に“敷島隊”の列機と共に米海軍の護衛空母群に突入し、「セント・ロー」を撃沈せしめたとして、その戦果が大々的に報じられた關 行男海軍大尉が“特攻第一號”とされている。

戦況の進展悪化に伴い、大勢をいくらかでも挽回せんと…いわゆる死中に活を見出すべく、当初は非常手段としての作戦計画であった“特攻”が…圧倒的優勢な米艦隊に対する日本軍の唯一無二の攻撃法となり、この残酷かつ狂信的な非常手段は、この後10ヵ月にわたり幾多の若者を死地に赴かせることとなった。
その“特攻第一號”から今日…10月25日で80年となる。

 

“特攻”にあたっては、その日の天候、そして索敵機からの敵機動部隊の位置情報などをもとに攻撃予定海面へと出撃して征くが、一旦飛び立った後は、各隊自ら…広い海原のなかに敵艦隊を見付けなければならない。
そのため敵艦と遭遇できず、燃料も底をつき始め…不幸にも…いや、幸運にも帰投した隊員などいくらでもいたそうである。
それに加え、あちこちにガタのきた機体が悲鳴を上げ…あえなく不時着の羽目になることも多々あった。
“特攻第一號”となった関大尉以下“敷島隊”も、神風特別攻撃隊の第一陣として出撃した同年10月21日…その後二度(23日・24日)にわたる出撃でも悪天候に阻まれ、予定海面に到着しても敵艦隊を見付けられず帰投を余儀なくされている。

 

因みに、“敷島隊”(関行男海軍大尉、中野磐雄海軍一等飛行兵曹(一飛曹)、永峰 肇海軍飛行兵長(飛長) ※谷 暢夫一飛曹はエンジン不調のため、直前に発進取りやめ)3機、および“朝日隊”(上野敬一一飛曹、崎田 清一飛曹、磯川質男一飛曹)3機の二隊は、それぞれルソン島のマバラカット西および東飛行場から21日午前9時に出撃しているが…その約7時間後の午後4時25分…セブ島のセブ航空基地からは“大和隊”の久納好孚海軍中尉、中瀬清久一飛曹の爆装2機および直掩機として大坪一男一飛曹の3機が第二陣となる出撃をしている。
この日、出撃前の二〇一空(第二〇一海軍航空隊)飛行長の中島 正海軍少佐(当時)による長い訓示の最中、滑走路脇に並べられた出撃を待つ零戦5機はF6Fの来襲を受け全て炎上してしまう。
急遽、予備機3機をもっての出撃となったわけであるが…
久納は、法政大學專門部を卒業後、第11期飛行專修豫備學生となったが、大学在学中から操縦訓練を受けていて、他の航空士官と比べ、その操縦技倆は抜群と評されるほどの力量の持ち主であり、離陸すると列機の集合を待たずして、F6Fが帰投していった南の方角に単機で一直線に飛んで征った。
中瀬、大坪の両名は途中で悪天候に阻まれセブ航空基地に帰還したが、ついに久納は帰還することはなかった。(享年23歳)
中島飛行長は「本人の特攻に対する熱意と性情より判断し、不良なる天候を冒し克く敵を求め体当り攻撃を決行せるものと推定」と報告している。
同年11月13日、久納の死は特攻戦死として全軍布告(布告第七十一號)され、海軍少佐に二階級特進をしている。
尚、21日の午前6時5分に突入を敢行した日本軍機(詳細不明)により濠海軍の重巡洋艦「オーストラリア」が小~中破程度の損害を被ったとの報告があり、これを久納によるものとして特攻第一號とする意見もあるが、時系列的に無理もある。
余談であるが…“特攻”が決まった晩、久納は…『月光の夏』よろしくセブ基地の士官室にあったピアノで、ベートーベンのピアノソナタ第14番「幻想曲風ソナタ(Sonata quasi una Fantasia)」…通称「月光(ソナタ)」を弾いていたとのことである。

 

 

【特攻第一號となった神風特別攻撃隊“敷島隊”の搭乗員】
一番(隊長)機:關 行男海軍大尉(死後特進:海軍中佐) 海兵(海軍兵學校)70期(享年23歳)
二番機:中野磐雄海軍一等飛行兵曹(死後特進:海軍少尉) 甲飛(甲種海󠄀軍飛行豫科練󠄀習生)10期(享年19歳)
三番機:谷 暢夫海軍一等飛行兵曹(死後特進:海軍少尉) 甲飛10期(享年20歳)
四番機:永峰 肇海軍飛行兵長(死後特進:海軍飛行兵曹長) 丙飛(丙種海󠄀軍飛行豫科練󠄀習生)15期(享年19歳) 
五番機:大黒繁男海軍上等飛行兵(死後特進:海軍飛行兵曹長) 丙飛17期(享年20歳)  

 

“敷島隊”は、関行男大尉以下、谷暢夫一飛曹、中野磐雄一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛の爆装隊5機に、二〇三空(第二〇三海軍航空隊)戰闘第三〇三飛行隊の西澤廣義飛曹長、本田慎吾上飛曹、菅川 操飛長、馬場良治飛長の直掩隊4機がについて、25日午前7時25分、マバラカット東飛行場を…四度目にして最後となる出撃をして征った。

 

午前10時40分、タクロバンの東85度、距離90浬の地点に、空母、巡洋艦、駆逐艦からなる敵艦隊を発見し、「一〇四五之ニ突撃セリ」と打電している。
発見された敵艦隊は、栗田艦隊の追撃から逃れた「キトカン・ベイ」「カリニン・ベイ」「セント・ロー」「ホワイト・プレインズ」、そして損傷によりやや遅れがちな旗艦の「ファンショー・ベイ」の護衛空母5隻と、その周囲を囲むように随行する護衛の駆逐艦4隻が輪形陣をとって航行していた。
午前10時47分、「ファンショー・ベイ」を除く護衛空母への攻撃開始。
爆装隊と直掩隊の9機の零戦は米側記録によると、レーダーにより探知され難い海面スレスレの超低空から駆逐艦の輪形陣を突破すると、一気に高度1500~1800mまで急上昇し、直後、逆落としに敵空母めがけて突入したとされている。
午前10時49分に雲上から40度の角度を以って護衛空母「キトカン・ベイ」への突入を敢行し、上空で一回転した後、艦橋をかすめて飛行甲板外側部の通路に命中した零戦が関大尉の一番機であるとする説がある。
ただ、爆弾は直撃せずに海面で爆発したため、軽微な損傷を与えたに過ぎなかった。
護衛空母「カリニン・ベイ」は、突入してくる3機の零戦を確認…1機は右舷後方から前部エレベーター付近に命中し、もう1機は後部エレベーター付近に命中した。
この2機が誰の乗機であるかはわかっていないが、このどちらかが関機であるとする説もある。
もう1機は艦首をかすめ去った後、対空砲火により撃墜されているが、この機は直掩隊で唯一生還しなかった管川飛長機であるとされている。(※米軍側は、この管川飛長機を含めた計6機を“特攻機”と認識)
護衛空母「ホワイト・プレインズ」は、上空に機影を確認した直後、零戦2機による突入を受けた。

艦尾方向から突入を敢行した機は、対空砲火により翼を破損し操縦不能となって僅かに後方の海面に墜落。
「ホワイト・プレインズ」は11人の死傷者を出したものの、艦自体は甲板への軽微な損傷を負ったにとどまった。
この僚機の突入を見届けたもう一機の零戦は離脱し、その突入目標を護衛空母「セント・ロー」に変更し、午前10時51分に飛行甲板に突入した。
爆弾は飛行甲板を貫通して爆発、右舷格納庫内に火災が発生し、それによりガソリンに引火、さらに魚雷および爆弾が誘爆したため計6度の爆発により炎に包まれ大爆発を起こし、午前11時23分に「セント・ロー」は沈没した。
既記の如く、通説ではこの突入機が関機とされているが、どうも永峰飛長の四番機である可能性がある。

 



この“特攻第一號”の10日前の同月15日…“特攻の魁”として逝った将官がいた。
それが有馬正文海軍少将(死後特進により海軍中将)である。

 

若い特攻隊員を送り出した上官・指揮官たちのなかには「お前たちだけを死なせはしない、自分も後から続く」などと言っておきながら、それを体現した者は僅かであり、以前に『最後の特攻隊』の項でも紹介させていただいたが…宇垣 纏海軍中将と大西瀧治郎海軍中将くらいのものである。

それどころか、戦時中に“特攻”論者であった者たちすら、その責任の矛先を大西だけに押しつけんが如く、戦後は我関せずを決め込んだ者もいる。

ただし宇垣に関しては、自分が行くと言えば“我も、我も”となるのは事理明白であり、あのような状況下において、未来ある若い命をわざわざ道連れにしてまで敢行する必要があったのかは、当方的には甚だ疑問である。

敵に意地を見せたと言えば聞こえは良いが、体当たりをするわけでもなく、単なるパフォーマンス的に…まさに“犬死”に付き合わせただけである。

大西の如く、己独りで信義を果たせばよかったものを、己自身では命を絶つことが出来なかったがために、中津留達雄海軍大尉以下17名もの尊い命の犠牲の上にそれを為しただけのことである。

 

有馬も宇垣同様に、己独りで操縦をして突っ込んだわけではないが…

この後、“特攻”という愚策を強いなければならない将として…

山本五十六の語録(男の修行)にもある如く、“やってみせ”ねば“人は動かじ”をまさに実行し、常日頃から“戦争は老人から死ぬべきだ”とも言っており、それを体現した稀有な将官である。

 


有馬は、巡洋戦艦、水上母艦、海防艦など様々な艦種を乗り継ぎ、また航空兵力の有効性に注目した後は航空士官へ転属し、海軍航空隊の司令などを歴任…昭和17年(1942年)5月25日付で航空母艦「翔鶴」の艦長に就任している。
昭和18年(1943年)5月1日付で海軍少将に昇級し、翌昭和19年(1944年)4月9日付で第二十六航空戰隊司令官に任官。
この時期の戦勢を鑑みた有馬は、海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で戦局を打開するのは不可能であり、大西中将の押す“特攻”を採用するならば、搭乗員たちの士気が高いこの機を逃してはならないとの考えのもと…この日(同年10月15日)、幹部連を前に“体当たり攻撃”の必要性を説き、そのうえで、若い士官や兵隊たちを特攻に送り出すのなら上級指揮官自らがまず模範を示すべく魁となって逝くべきだと、志願者を募ったが幹部連の誰一人として名乗りを上げる者はいなかった。
すると、温厚な人柄で知られる有馬の口調が一転し、「誰もおらんのか!よし、それなら私が乗ろう」と怒鳴ると、参謀や副官が止めるのも聞かず…クラーク(※フィリピンの首都マニラがあるルソン島の中央に位置する)の飛行場から台湾東方の敵機動部隊への攻撃に向かう第七六一海軍航空隊(通称「龍部隊」)の一式陸攻(一式陸上攻撃機)に同乗し、出撃して征った。

勿論、この行動が“特攻とは似て非なるもの”という指摘もある。
つまり有馬の同乗した機を含めたこの時の攻撃目的は、敵艦への体当たりなどではなく、あくまでも台湾東方の敵機動部隊への雷撃作戦であった。


この行動に出る前1ヵ月ほどの間に一航艦(第一航空艦隊)に拘わる不祥事が相次ぐ。
その一つである、同年9月9日に起こした海軍最大の不祥事ともされる『ダバオ誤報事件』…別称『ダバオ水鳥事件』を受け、一航艦所属の二〇一空は急遽、セブ基地に戦闘機178機を集結させていた。
同月12日午前9時、レイテ湾東方にあるスルアン島の見張所は米艦載機約160機(※第15、第19、第2戦闘機隊などの艦戦(F6F)80機、艦爆80機)の大編隊が西に向かうのを発見、ただちに各基地宛に緊急電が打電されたが、なぜかこの報告はセブ基地には届かず、警戒配備が解かれたままのところに不意を突かれたかたちで、上空哨戒隊の4機が発進直後に第一波の波状攻撃を受けるという有様だった。
何とか空襲の合間を縫って零戦37機が逐次発進し、来襲した艦載機を迎撃したが、高度をとり編隊をまとめらないまま劣勢の状態で空戦せざるを得ず、各機苦戦を強いられた。
空戦による被害としては、自爆9機、被弾大破による不時着7機、着陸時大破7機、落下傘降下2機、未帰還16機。
また地上で撃破された航空機の被害は、大破炎上25機(零戦18機/艦爆7機)、中・小破28機(うち零戦22機)の計53機。
搭乗員の戦死29名、負傷者3名。
(商船2.7万㌧を含む艦船被害(沈没24隻、大破4隻)も被っている。)

尚、中・小破の零戦は、翌13日早朝までに16機が徹夜で修理され、無傷だった零戦12機とともに、その日のうちにマニラのニコルス基地に避退させた。
結局、13日の段階でセブ基地における可働可能な零戦は57機になっていた。

有馬は、このセブ地区上空における米艦載機との迎撃戦…いわゆる『セブ事件』に対して非常な責任を感じていたこともあり、その責任の処し方としての“同乗”だったのかもしれないが、雷撃作戦とはいえ、その時点での戦勢にあっては生還すること自体が如何に難しいことであるかを承知のうえで、有馬は自身の遺体が敵軍に回収された時のことを想定し、階級章を外し、双眼鏡に刻字された“司令官”という文字をも削り取るなど、死を覚悟した上での出撃であったことは言うまでもない。

確かに、将たるものが指揮を放棄して軽々に死することの判断には賛否が分かれるところではあるが、数多責任を取らない将のなかで、死を強いる将・指揮官たちに向け一石を投じる意味合いが強かったのではないだろうか。(残念ながら、あまり効果はなかった。)

有馬の乗った一式陸攻は、“特攻”どころか“雷撃”も叶わぬうちに、米機動部隊のかなり前方において迎撃機によって撃墜されたものと思われる。(享年49歳)

この有馬による決死の行動は、後に“特攻の魁”と評され…
当時の新聞でも、「神風隊の先駆 有馬中将(※死後特進後の階級)の遺訓 襟章を捥ぎ取って決然空母へ突入 身を以て示す必勝の道(昭和20年1月17日朝日新聞/著:従軍作家・山岡荘八)」などと報じられた。

 

不謹慎な例えをすることを先にお詫びをしておく。
あなたが高速道路を100㎞を超えるスピードで走っているとしよう。
数百メートル先にコンクリート製の車線分岐部が見えてきた。
あなたはアクセルペダルをさらに踏み込み…
さらに速度を上げ…
何の躊躇いもなく…いや、躊躇ってもよい…
ただ、目の前に迫るコンクリート製の障害物に、そのまま真っ直ぐに突っ込んでいくことが出来るだろうか?
比較にはならないが…
“特攻”とは、この様なことをしなくてはならなかったのである。
だが、特攻隊として飛び立ち、敵艦に体当たりを試みるも、戦果は想定以上に上がらなかった。
処々にガタが来ているポンコツな飛行機に乗せ、それもまだ技量未熟なうちに最前線に送り込み…そのうえ、熟練者でも難儀な程に重たい爆弾を抱えて、どうして戦果を上げろというのか。
その多くは、雨あられと掃射される弾丸、砲弾によって敵艦に辿り着くどころか、その遥か手前で海の藻屑と消えていった。

航空機による体当たり攻撃だけでなく、回天(人間魚雷)・震洋(爆装艇)・マルレ(四式肉薄攻撃艇)・人間機雷・戦車特攻・空挺特攻など様々な兵器による“特攻”作戦での戦没者数(推定)は、海軍が約4,146名、陸軍が約2,225名の計約6,371名。
そのうち、参考資料により数に違いはあるものの、有力とされる正規の“航空特攻”に限定した戦没者数(※現時点における特攻隊戦没者慰霊顕彰会による(推定)内訳)は、海軍が約4,146名、陸軍が約1,697名の計約5,843名とされている。
これだけ多くの人命を投入し得られた戦果は以下の如くであった。


つまり、敵艦船に対し戦闘不能レベル以上の損害を与えた戦果に限っていえば、約30名以上もの尊い命を犠牲にして、やっと1隻…それも米軍にとって大勢に影響のない艦種がその殆どであった。


特攻部隊の隊員は“必死必殺”、“十死零生”が前提であり、通常の部隊の将兵たちとは確かに違うが、航空部隊における“戦死率”という点に注目した興味深い比較がある。


昭和20年(1945年)2月5日付で開隊した一航艦所属の二〇五空(第二〇五海軍航空隊)は、同年3月28日に、来るべき沖縄戦に備え石垣島飛行場、台湾北東部の宜蘭飛行場に派遣隊を前進させた。
その石垣島派遣隊は特攻専門部隊となる“大義隊”を編成している。
志願ではなく「特攻大義隊員を命ず」との辞令により特攻隊員となった103名の搭乗員たちは、沖縄方面へ特攻出撃を繰り返すが、終戦までの特攻による戦死者は35名で、戦死率は約34%であった。
因みに、同年6月7日に8機をもって宮古島沖の敵船団への突入を敢行したの後は、一航艦解散もあり、台湾(高雄市)の高雄警備府第二十九航空戰隊に転籍(撤退)しているが、乗るべき機体が得られず、これが“大義隊”としての最後の出撃となった。

最後の視察となった際に山本五十六の乗機を護衛にあたっていたことでも知られる二〇四空(第二〇四海軍航空隊)における“戦死率”を見てみると…
昭和18年(1943年)6月までに配属された搭乗員101名のうち、76名が戦死し、一旦内地に帰還できた25名も、うち13名がその後の戦いで戦死しており、辛くも終戦を迎えられたのは12名のみだったとのことであり、ラバウルまでの戦死率が約75%、その後、二五三空(第二五三海軍航空隊)に編入されてマリアナ諸島防衛に従事し、終戦までの戦死者数を合わせると、戦死率は実に約88%にも上るとのことである。
その二〇四空の戰闘第三〇三飛行隊は、「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という“特攻反対”の信念の持ち主であり、上層部からは国賊とさえ呼ばれた岡嶋清熊海軍少佐が飛行隊長であったこともあり、邀撃・迎撃・護衛・哨戒などの任務にあたった。(※特攻には甲飛10期生3名のみ)
それでも搭乗員89名のうち38名が敵機との空戦で戦死、その戦死率は約43%にも上っている。
つまり、皮肉なことに通常任務に従事した戦三〇三飛の戦死率の方が高いのである。
(※岡嶋が同年7月15日付で第五十三航空戰隊参謀に異動となり、後任として蔵田 脩海軍大尉が飛行隊長を引き継いでいる。)

特攻隊以外の航空隊についての零戦搭乗員の戦友会であった『零戦搭乗員会』の調査によれば、“搭乗員が最前線に出てから戦死するまでの平均出撃回数は8回、平均生存期間は3ヵ月”としている。
勿論、初陣で戦死した搭乗員も少なくなかったが、真珠湾攻撃にも参加したような熟練・熟達の搭乗員でさえも、終戦までに約80%以上が戦没しているとのことであり、出撃回数を重ね、生還するだけでも大変な事であり…ましてや戦果を挙げて帰還することが如何に至難の業であったかがうかがえる。

いずれにせよ、ミッドウェー海戦における大敗北をうけ、軍上層部が躍起になって挽回を図るなかで、威信・意地に拘り過ぎて…その後、終戦に至るまで、その無意味・無益なプライドは結局捨てきれず、冷静な判断・適宜な分析を見て見ぬふりをしてきたツケがその後の泥沼のような…つまり、むやみな戦力の消耗は、己の継戦能力を磨り潰し、己で己の首を絞めるが如き事態へとつながっていく。

 

 

今回は、家族を憂い、愛する者を憂い、故郷を憂い、祖国を憂い…特攻隊員として死んでいかねばならなかった若者たちの苦悩と葛藤を描いた、戦後間もない時期に製作された作品を紹介させていただこうと思う。

 

第13期の海軍飛行專修豫備學生を中心とした遺書、遺詠、遺文など450通余りが纏められた、昭和27年(1952年)刊行の「雲ながるる果てに-戦歿飛行豫備學生の手記-」を基に、その翌年の昭和和28年(1953年)に家城巳代治が監督、そして八木保太郎、直居欽哉らと共に脚本を書きあげ、製作されたのが今回紹介させていただく同名映画『雲ながるる果てに』である。

 

雲ながるる果てに』(1953年)

【キャスト】
大瀧中尉:鶴田浩二
深見中尉:木村 功
松井中尉:高原駿雄
笠原中尉:沼田曜一
岡村中尉:金子信雄
北中尉:清村耕二
田中中尉:織本順吉
山本中尉:沼崎 勲
野口中尉:西田昭市
加藤中尉:田中明夫

上島上飛曹:西村 晃

村山大尉(第一飛行隊長):原 保美
倉石中佐(第五航空艦隊参謀):岡田英次
金子大佐(司令):加藤 嘉
戸田中佐(飛行長):神田 隆
芸者・富代:利根はる恵
秋田の妻・町子:朝霧鏡子
瀬川道子:山岡比佐乃
深見の母:山田五十鈴…他

 

当方のブログでは、もうお馴染みとなっている鶴田浩二が主演のこの『雲ながるる果てに』は、過去に出演した作品のリストを見る限りでは、数ある鶴田の出演作のなかで自身初の戦争映画となる。
この作品が製作された昭和28年(1953年)といえば、年初から鶴田自身に拘わる衝撃的な事件(鶴田浩二襲撃事件)もあった年である。
おそらく、そのすぐ後あたりから撮影が始まったのではないかと思うが…
戦後8年が経過したとはいえ、当時の日本はまだまだ戦後復興期の最中であった。
逆を言えば、戦時中を経験、知る者が、その大半だったこともあり…勿論、この映画における出演者、製作スタッフも同様であるため…戦時中当時の雰囲気・言葉使い・仕草・時代感などというものが違和感なく自然に描かれているように思われる。

 

木村 功は戦時中、開戦一周年を記念し、国威称揚を目的として海軍省が企画した昭和17年(1942年)製作の『ハワイ・マレー沖海戰』に倉田三飛曹役として出演をしており、これが自身のデビュー作となる。
その後、昭和19年(1944年)に召集され、鶴田同様、終戦まで海軍に兵籍をおいている。

今作では、木村をはじめ…岡田英次、西村 晃、高原駿雄、金子信雄、織本順吉、清村耕次、梅津 栄などの「青年俳優クラブ(のち劇団青俳)」の参加メンバーが多く主要な役所で出演している。

 


オープニングは白い雲の流るる晴れわたった、昭和20年4月の本土南端の静かな風景から始まり、それらの風景をバックに、大瀧中尉が父母に宛てた手紙文の朗読(鶴田の声のみ)で始まる。
「お父さん、お母さん。九州南端のこの前線基地に移ってから、まだ半月しか経ちませんが、既に多くの戦友や部下が戦死しました。敵はまさに沖縄に上陸しています。しかし、私たち神風特別攻撃隊のある限り、この日本の本土を敵の泥足で汚すようなことは決してさせません。その特攻隊士官の大部分は私たち学徒出身の者です。私たちは全国の学徒から選ばれた名誉を担い、命令一下勇躍飛び立つ日を待っています。お父さん、人生僅か五十年とは昔のこと、今の私たちには二十年にしてそれ以上はおつりです。いつでも立派に死ぬ覚悟ができています。お母さん、毎日お母さんのことを思わない日はありません。一度病気でもしてお母さんにゆっくり看病してもらいたいと思いますよ。しかし、私はとても元気で、死ぬまでは死にそうにありません。お父さん、お母さん、長期戦はこれからです。しかし、最後まで勝利を信じて頑張ってください。では、お元気で。」

 

劇中では“本土南端”というザックリとした表現で場所の特定はなく、部隊や登場人物なども架空の設定ではあるが…

因みに、金子(司令)部隊の搭乗員たちの宿舎として間借りをしている国民学校の表札に“作部(?)國民學校裏門”と書かれているので、 “作部”という地にある“金子部隊”という設定ということだと思われる。

 

検索をしてみたが、九州には「作部」という町や村は…少なくとも現時点では存在しないようであり、おそらくは架空の地名だと思われる。

ただ、劇中の最後に自身のことを紹介するくだりにおいて、“第三御楯隊”の隊員としているのだが、この“第三御楯隊”というのは当時、実際にあった部隊の呼称である。

鹿児島県霧島市国分広瀬に嘗てあった國分飛行場(第一國分基地)からは400名余りが沖縄方面へ飛び立って征った。

菊水作戦の発動に伴い、第二五二海軍航空隊に編入された戦闘第三一三飛行隊、攻撃第三飛行隊により結成された“第三御楯隊”も、ここから沖縄戦に参加している。

 

昭和20年4月某日、小鳥の囀る麗らかな日差しのなか、訓練の合間に滑走路わきの木陰のそこここでうたた寝をする隊員たち。

ひとり目を覚まし、大きく伸びをした秋田中尉(田中和彦)は、小便でもしようかと立ち上がり歩きかけた。

かすかなプロペラ音に気付き…ハッとして音のする方向に目をやると…敵さんの来襲である。

隊員たちは、敵機からの空襲、機銃掃射をかわしながら飛行場に向け駆け出す。

秋田は“廻せ、廻せ”と叫び、一散に駆け出し、迎撃に飛び立つも帰らぬ人となってしまった。

その際、深見は左腕を負傷する。

大瀧は、深見を機関銃陣地に引き入れ、敵機めがけて機関銃を連射した。

 

国民学校教諭の瀬川道子(山岡比佐乃)は深見に心を寄せ、叶わぬ恋と知りながら深見もまた同様に瀬川に想いを寄せていた。

 

突然、乳飲み子(やすこ)とともに宿舎を訪れた秋田の妻・町子(朝霧鏡子)…勿論、夫が戦死したことなど知る由もなく、同僚たちはその死を隠し、明るくふるまうのだが…笠原中尉(沼田曜一)は黙っていられず、ついに切り出してしまう。

夫の死を知った町子は泣き崩れた。

 

(前列:左から)山本中尉(沼崎 勲)、秋田中尉(田中和彦)の妻・町子(朝霧鏡子)、大瀧中尉(鶴田浩二)、北中尉(清村耕二)

(後列:左から)笠原中尉(沼田曜一)、野口中尉(西田昭市)、深見中尉(木村 功)、田中中尉(織本順吉)、松井中尉(高原駿雄)、岡村中尉(金子信雄)

 

加藤 嘉は、(旧制)慶應義塾高等部(專門部)を中退後、戦前・戦中はプロレタリアートに傾倒し、演劇活動などを行っていたようであるが、昭和18年(1943年)に応召され、横須賀海兵團に入隊し、終戦まで海軍経理學校の警衛分隊に兵籍をおいていたとのことである。

その加藤が演じた金子司令は劇中、海軍予備学生として海軍少尉に任官したばかりの大瀧たちを前に「お前たちも知っている通り、先月サイパンが落ち、今や比島(フィリピン)奪還のため敵の大部隊が押し寄せている。もしこの一戦に敗れるなら、祖国日本は壊滅の危機に瀕するのである。今はただ、お前たちの純真一途なる祖国愛によって、ここに奇跡を起こしてもらうより他はない。その奇跡とは…お前たちの肉体である。各自の飛行機を完全爆装し、機もろとも敵の艦船に突入してもらうのだ。死んで勝つ…すなわち必死必殺である。今や日本の運命はお前たちの双肩に掛かっている。重ねて言う、日本国の興亡はお前たちの心ひとつにある…わかってくれ…」と訓示をする。

 

日々訓練の続くなか、山本中尉(沼崎 勲)は戸田飛行長(神田 隆)の叱咤を真に受け、降下の角度を深く取り過ぎ、乗機は空中分解を起こして墜落してしまう。

山本を葬むる煙を川辺で見つめながら、深見は大瀧に思いの丈を打ち明ける。

深見「貴様、この特攻隊をどう思うんだ。このやり方が納得できるのか。特攻隊員は必ず死ぬんだ。これは、もう戦術じゃない。」

大瀧「必死だよ…必死必殺だ!今、日本は必死の時なんだ。深見、戦争は理屈じゃないぞ。生命の燃焼だ。人間の根源的な情熱なんだ。“悠久の大義”に生きる。個人の生死を超越した民族的な情熱への自己統一なんだ。元来、俺たちの命は天皇陛下からお預かりしているんだ。深見…貴様、女に惚れて命が惜しくなったのか!」

深見「それとこれとは違う!」

大瀧「違いはせん!」

深見「大瀧、俺は何もかも貴様に言ってしまう…だが怖いんだ…」

大瀧「深見、貴様…変わったぞ。」

深見「俺はこの手をやられた時、どうも、もしかしたら自分だけは生き残れるかもしれないと思ったんだ。あれから俺の腰がふらついてきた。瀬川さんに対する愛情も否定はしない。だが、俺の悩みはそこじゃないんだ…そこじゃないんだ…。大瀧…貴様、“悠久の大義”で死ねるのか?本当に“悠久の大義”で死ねるのか?」

大瀧「馬鹿!!貴様…貴様は…怪我をしてなければ殴りつけてやるんだぞ…」

…そう言い捨て、大瀧はその場を足早に去る。

 

ようやく雨がやみ…皆、いざ出撃かと思われたが…

第一飛行隊の松山隊長(原 保美)より、状況の変化によりその日の出撃機数が減少され、村山隊からは松井中尉(高原駿雄)と笠原中尉(沼田曜一)の分隊のみの出撃と告げられた。

だが松井はいつものように前夜に宿舎を抜け出し、懇ろの富代(利根はる恵)のところからまだ戻っていない。
大瀧は「松井の代わりに私をやらせてください。」と申し出る。
だが、隊長は「な~んだ、あいつはまた抜け出したのか…しょうがない奴だ…な~に、間に合うように帰ってくるよ、あいつのことだ。」と平然としている。

 

松井は、富代の寝顔を愛おしく見つめ、心のなかで別れを告げると一散に宿舎に向けて駆け出した。

何とか間に合った松井に、隊長は「心残りはないか?」と問いかけ、松井も「ありません!」と返答する。

そして急ぎ搭乗服に着替え…「戦争の無い国行って待ってるよ」と深見に言い残し、宿舎の窓を飛び越え駆け出して征った。

 

大瀧のもとに…明朝、父(石島房太郎)と母(原 緋紗子)、そして従妹の“ヨッちゃん”ことヨシコ(徳永街子)が面会に訪れるという便りがあり、大瀧は大はしゃぎをする。

ところが翌未明、倉石参謀(岡田英次)が五航艦(第五航空艦隊)司令部よりの作戦命令伝達のため金子司令のもとを訪れ、事態は一変する。

午前4時少し前…“総員起こし”の号令がかかり、講堂に集合した隊員たちは、金子司令より沖縄方面敵機動部隊に対する可動機全機をもっての特攻命令が下ったことが伝えらた。

1時間後には宿舎を出発して飛行場に集合…各機、五〇番(500㎏)爆装を施しての緊急出撃である。

 

昨日までの喜びも空しく、家族との面会が既の所で叶わなくなった大瀧は悲しみに身もだえ、「会いたい、会いたい」と泣き叫ぶ。

ふっと我に返り…

至誠に悖る勿かりしか(真心に反する点はなかったか)

言行に恥る勿かりしか(言動に恥ずかしい点はなかったか)

氣力に缺くる勿かりしか(精神力は十分であったか)

努力に憾み勿かりしか(十分に努力したか)

不精に亘る勿かりしか(最後まで十分に取り組んだか)

…という”海軍五省”を唱和し、自らを鼓舞すると、迷いを振り切らんとして川に飛び込み一散に泳ぐ大瀧。

それを木陰から見ていた深見は、大瀧そして他の隊員たちもまた自分と同じなのだと気付かされ、皆と共に逝くことを決意し、部隊本部に駆け込み上官たちに懇願する。

 

「俺は、俺だけが一人で悩んでいると思ったんだ。だけど、皆も…皆がそれぞれの気持ちで苦しんでいることが分かったんだ。俺は君たちを死なして、俺だけが生き残ろうなどと思っちゃいない。俺は貴様たちと一緒に死にたいんだ。ただそれだけだ。」

皆が残れと説得するも、深見の気持ちはもう変わることはなかった。

大瀧と深見は共に泣きながら抱擁し…そして皆も泣き…皆で「同期の櫻」を唄った。

 

急遽、大瀧と同じ基地に移動となった…予備学生の訓練期間中、苦楽を共にした第三飛行隊の加藤中尉(田中明夫)との再会も束の間…共に本日出撃となった。
その加藤が駆け寄り…「大瀧、ゆっくり話す暇もなかったな」と声をかける。
大瀧は「これからは、ずぅ~と一緒だ」といい、お互い固い握手を交わし二人は別れる。

 

出撃に際し、戸田飛行長は大瀧たち特攻隊員を前に「今や、まさに皇国の必勝を信じ、お前たちの一命を捧げる時が来た。お前たちは生きながら既に“神”である。何らの欲望もないことと思うが…しかし、本日の戦果については必ず陛下の御耳に達するようにするから安心して征ってくれ。」と訓示をする。

 

 

因みに、これと、先に記した金子司令の訓示は…

昭和19年10月20日に、大西が初の“特攻隊(特別攻撃隊)”として編成された…関大尉をはじめとする敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の四部隊の隊員たち24名を前に訓示をした内容をアレンジして引用されている。

【大西瀧次郎海軍中将の訓示】

「日本は正に危機である。しかも、この危機を救い得る者は、大臣でも大将でも軍令部總長でもない、勿論、自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億國民に代わり、皆にお願いする。どうか、成功を祈る。皆は、既に神である。神であるから欲望はないであろう…が、あるとすれば、それは自分の体当たりが、無駄ではなかったか、どうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りに就くのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見届けて必ず上聞に達するようにするから、そこは、安心して征ってくれ…しっかり頼む。」と訓示の後、涙ぐみながら隊員一人一人と固い握手を交わした。

 


大西が長官の一航艦(第一航空艦隊)と福留 繁海軍中将が長官のニ航艦(第二航空艦隊)を統合して連合基地航空隊が編成され、その両将が一緒に特攻隊員たちを送り出したことがあった。
その見送りを受け、辛くも生還を得た隊員の一人は「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て“頼んだぞ”と。それに対して福留中将は、握手もおざなりで、隊員と目を合わさないんですから」と語っている。

 

この日の特攻による各搭乗機からのモールス信号による打電報告を無線室で待つ金子司令、倉石参謀、戸田飛行長だが、大瀧たちの必死の特攻も虚しく、やはり思った程の戦果は上げられなかった。
倉石「思ったよりいかんな。」
戸田「まだまだ技量未熟だ!」
倉石「な~に、特攻隊はいくらでもある。」

 

そしてラストのシーンもオープニング同様に、白い雲の流るる晴れわたった空をバックに、大瀧の声のみによる父母そして従妹に宛てた手紙文の朗読で終演となる。

 

「お父さん、お母さん、ヨッちゃん…いよいよあと一時間の命です。最後の筆を執ります。お父さん、お母さん、二十五年のご自愛を心からお礼申し上げます。僕の大好きな人、懐かしい故郷の山河、そして平和な日本…それを思い浮かべながら今死んでいきます。お父さん、身体に十分気を付けてください。月に一度は山田先生の診察を受けるように…これだけは是非お願いします。お母さん…優しいお母さん。お母さんに泣くなというのは無理かもしれませんが、どうか泣かないでくださいね。お母さん…お母さん…お母さん、何度でもこう呼びたい気持ちでいっぱいです。よっちゃん…林檎の頬っぺただ。思い出すのは楽しいことばかりだった。両親のことを頼みます。では皆さん、どうかいつまでもいつまでも長生きしてください。征って参ります。昭和二十年四月十六日 神風特別攻撃隊第三御楯隊 海軍中尉 大瀧正男 身長 五尺6寸(≒170㎝) 体重 十七貫五百(≒66㎏) きわめて健康」

 

“きわめて健康”な若者たちが死んでいかねばならない時代だった。
彼らは…
雲ながるる果てに、どのような日本を夢見て…
雲ながるる果てに、どのような日本を託して…
逝ったのだろうか…

世界に目を向ければ、今も…この瞬間も…

戦火の中で死んでいく若者たちがいる。
日本は平和である。
今の若い者だけでなく…
嘗て自分が若者だった頃…
それよりも少し前の若者たちでさえ…
米国の思惑通り…律儀に骨抜きにされ…

そんな後世の日本をみて…
彼らは己の死が無駄ではなかったと思ってくれるだろうか…

 

海ゆかば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
顧り見はせじ