最後の特攻隊 | S A L O N

76年前の八月十五日…正午に放送された天皇陛下(昭和天皇)の終戦の詔勅により、昭和6年(1931年)9月に始まった満州事変から、ほぼ14年間の長きにわたり続いた戦争は日本のポツダム宣言受諾をもって…“日本が負けた”“戦争が終わった”ことが日本国民に告げられた。

 

昭和二十年八月十五日 大東亜戦争終結ニ関スル詔書

 

だが、この日の夕刻、大分海軍航空隊の基地を飛び立った11機の特攻機があった。

11機(23名が分乗)のうち3機が不時着、8機が突入…未帰還となっている。

詳細は、突入8機のうち2機が沖縄伊平屋島の米軍基地施設直前で進路を変え、畑に墜落炎上…

あとの6機もまた、米艦にまさに突入する直前にやはり進路を変え、海上に機体を激突させた。

この“最後の特攻?”を隊長として率いたのが、第七〇一航空隊・第一〇三艦上爆撃分隊の隊長であった中津留達雄海軍大尉である。

そして中津留の隊長機に同乗したのが、第五航空艦隊総司令官の宇垣 纏(まとめ)海軍中将である。

 

15日朝、いつものように特攻の出撃命令が下され、中津留は自らも含め、予定された数機の特攻隊の編成を黒板に書いていたが、玉音放送により事態は一変する。

宇垣は、その時の胸中を次のように認めている。

ラヂオの状況悪く、畏れ多くも其の内容を明かにするを得ざりしも、大体は拝察して誠に恐懼之以上の事なし。親任を受けたる股肱の軍人として、本日此の悲運に会す。慚愧之に如くものなし。嗚呼!參謀長に続ひて、城島十二航空司令官に再考を求められたるも、余の出撃の決意翻すに能わず。未だ停命令にも接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ、特攻の精神に生きんとするに於て、いまや考慮の余地なかりしなり。

 

午後3時、その隊員たちを前に、第五航空艦隊司令長官の宇垣海軍中将が訓示を行った。

そのなかで宇垣は…

「本日、我が国はポツダム宣言を受諾した。小官は幾多の特攻隊員を犠牲にしてきて誠に遺憾に堪えない。これから沖縄に最後の殴り込みを掛けるから、諸君、着いて行ってくれないか…」という懇願にも似た訓示だったという。

 

その後、宇垣を囲んで別盃が交わされたが、我も行くと参加を希望する者が増え…当初、艦上爆撃機「彗星」5機をもっての突入予定が、最終的には11機編成となった。

 

特攻出撃直前の宇垣と搭乗した艦上爆撃機「彗星」四三型

 

そして午後5時、階級章を剝ぎ取った宇垣は、艦上爆撃機「彗星」四三型(後部複座型:3名搭乗可能)の隊長機(中津留・遠藤)の最後部座席に搭乗し、他の隊員たちとともに沖縄に向け出撃して行った。

 

因みに、出発の直前…中津留は、自機のエンジンに異常音を感じ…

自分の乗る機には、決死の覚悟を決めた宇垣を同乗させるため、万が一にも不時着などという失敗は許されない。

そのため、『永遠の0』の宮部のように(…というか、こちらがモデルかもしれないが)…他の者に愛機を譲り、別の機に乗り換えたというのである。

案の定、中津留の乗るはずだった機はエンジントラブルを起こし、途中で不時着したとのことである。

 

以前も紹介したように、宇垣は聯合艦隊司令長官・山本五十六の參謀長として…1943年(昭和18年)4月18日に、山本と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃されている。

山本搭乗機、宇垣搭乗機ともに撃墜されたが宇垣は九死に一生を得て、山本の遺骨とともに戦艦「武蔵」で内地に帰還した。

後に、山本の短刀を形見として譲り受け…最後の搭乗の折は、その短刀を携え乗機している。

沖縄への機上、宇垣は以下のような“決別の辞”を電文として打っている…

過去半歳にわたる麾下各部隊の奮にかかわらず、驕敵を撃砕し神州護持の大任を果すこと能わざりしは本職不敏の致すところなり。 本職は皇國無窮と天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、部隊隊員が桜花と散りし沖縄に進攻、皇國武人の本領を発揮し驕敵米艦に突入撃沈す。 指揮下各部隊は本職の意を体し、来るべき凡ゆる苦難を克服し、精強なる國軍を再建し、皇國を萬世無窮ならしめよ。天皇陛下萬歳。昭和二十年八月十五日一九二四」(享年56歳)

 

伊平屋島周辺の洋上には煌々と明りを灯した無数の米艦船があるものの、日本の無条件降伏による戦勝の祝いが其処此処で催され、対空砲火を受けることもなく、祝宴に酔いしれる様子がくっきりと見て取れる上空にまで達することが出来たということである。

思いもよらぬ敵機来襲に慌てふためく米兵たちの鼻を掠め、午後7時30分、上記の如く散華した。

 

海軍中将 宇垣 纏・第五航空艦隊司令長官(岡山県出身/海兵40期・海大22期)
【第七〇一海軍航空隊】
海軍大尉 中津留達雄(大分県出身/海兵70期)
海軍中尉 伊藤幸彦(宮城県出身/海兵73期)
海軍中尉 北見武夫(新潟県出身/海兵73期)
海軍中尉 池田武徳(福岡県出身/予学13期)
海軍中尉 内海 進(岩手県出身/予学13期)
海軍少尉 磯村 堅(山口県出身/予学(兵科)1期)
海軍飛行兵曹長 遠藤秋章(愛媛県出身/乙飛9期)
海軍上等飛行兵曹 大木正夫(福島県出身/乙飛17期)
海軍上等飛行兵曹 山川代夫(山形県出身/丙飛?期)
海軍上等飛行兵曹 山田勇夫(千葉県出身/甲飛11期)
海軍上等飛行兵曹 渡辺 操(千葉県出身/甲飛11期)
海軍上等飛行兵曹 後藤高男(福岡県出身/丙飛?期)
海軍一等飛行兵曹 中島英男(愛知県出身/乙飛18期)
海軍一等飛行兵曹 藤崎孝良(鹿児島県出身/丙飛?期)
海軍一等飛行兵曹 吉田 利(滋賀県出身/乙飛18期)
海軍一等飛行兵曹 日高 保(鹿児島県出身/乙飛18期)※九州南方海域への不時着により殉職
海軍二等飛行兵曹 松永茂男(福岡県出身/特乙飛1期)

宇垣を含む23名のうち、8機17名が死亡。

3機がエンジ不調で着水…その際、6名中1名死亡…5名が救助されている。

翌16日早朝…伊平屋島の岩礁に激突している機体をを米軍側が調査…3名の遺体を収容。

そのなかに宇垣と思われる…短刀を所持した遺体があったという。

 

この時点ではまだ停戦命令が発せられていなかったということもあり、突入した搭乗員たちは戦死と認められ特進(但し一階級)しているが、宇垣は進級されていない。

 

艦上爆撃機「彗星」四三型(D4Y4)

 

 

中津留達雄は、1922年(大正11年)に大分縣津久見町(現:津久見市)に生まれでいる。

セメント会社勤務の父と、教員の母との間に生まれた一人息子。

少年時代から文武ともに成績優秀…1938年(昭和13年)、県立臼杵中学から一人だけ難関の海軍兵学校に合格している。

海軍兵学校のなかでも、長身で端整な顔立ちから中津留には女学生のファンも多かったようである。

士官となった後も、部下に優しく、体格もよく、おまけにハンサム…まさに“美丈夫”という言葉がぴったりだったと評されている。

その後、宇佐海軍航空隊(大分県)において教官として後進パイロットの養成に努めている。

ここでもまた…優しく、親身に部下を気遣い、艦爆の急降下や、編隊、滑走の方法を微に細にわたり指導し、大声を出したり、暴力を振るったりすることのない教官だったそうである。

 

この宇佐海軍航空隊の時代に、基地に慰問袋が送られ、たまたま中津留が受け取った慰問袋の送り主は、基地から家も近い女性であったらしい。

そこで、義理堅い中津留はお礼に訪ねたそうである。

その女性が何とも麗しい女性で…中津留は一目惚れし、求婚。

それが後に、妻となる保子さんとの馴れ初めだったそうである。

結婚後、一旦…美保海軍航空隊(鳥取県)に転属となるも…故郷の大分では妻・保子が長女・鈴子を無事出産している。

中津留の上官だった江間 保海軍少佐による粋な図らいで…昭和20年8月初旬に故郷大分の大分海軍航空隊に転属となっている。

そして、8月15日の終戦を向かえる。

二週間程の短い期間ではあったものの、その間に親子三人のささやかな時間も持てたわけではあるが…現代(いま)をのうのうと生きる者にとっては、その心中を推し量ることは難しいことである。(享年23歳)

戦後、江間は自分のこの短慮な図らいが、中津留を死に至らしめる結果になってしまったのではないかと心を痛め続けたということである。

 

最後の特攻隊』(1970年)

 

かつて特攻隊員として出撃したが、一人生きて帰投してしまった過去を持つ宗方大尉。

今は、特攻機を途中で撃墜されることのないように戦場まで送り届ける護衛部隊…直掩隊の隊長として、特攻隊員たちを日々見送っている。

その宗方の生き様、葛藤…彼を取り巻く人間模様、そして死に様を描いた…自らも戦時中、直掩隊の隊員であった直居欽哉が書き下ろした脚本を基に1970年に製作された『最後の特攻隊』。
その宗方も、終戦翌日の16日未明、爆音を蹴って死んでいった戦友たちの許へと一人飛び立ち、朝焼雲のなかに消えていく。

映画の冒頭…「この物語は宇垣 纏海軍中将とはなんら関係ありません」と前置きがされているように、大分ストーリー・設定などは違うものの、俳優陣は…その宗方大尉役に鶴田浩二、特別攻撃隊“菊水隊”指揮官・矢代中尉役に高倉健…その部下たちとして、梅宮辰夫、菅原文太、千葉真一、伊吹吾郎、渡瀬恒彦、その他、若山富三郎、笠 知衆、藤純子など、当時の東映オールスター共演…さらに小池朝雄、渡辺篤史、室田日出男、大木 実など名バイプレイヤー陣も脇を固め、これでもか!というくらい豪華な顔ぶれの映画となっている。

ただ内容的には、やはり出演者の顔ぶれからも、“任侠映画”的な、義理と人情…男の筋道の通し方…というところが本筋であり、そこに母子愛、兄弟愛などを絡めてはいるが…多少、盛り上がりに欠ける…よく言えば“淡々と”した展開となってしまっているように思う。

戦争映画の見所の一つでもある、交戦シーンなども、現代のように、CGVFXなどといった技法が駆使されリアルな映像が目の当たりに出来るような時代ではなかったこともあり…その部分でも中途半端さ観は否めず…

これだけ豪華な俳優陣を揃えたにも関わらず、戦争映画としても、鶴田・高倉共演映画としても思ったほど評価されていない点はそのあたりにあるのかもしれない。

 

ただ、鶴田の第一種軍装姿は、いつ見ても様になっている!

 

鶴田浩二、高倉 健という二大スター共演も見逃せないところではあるが、最後の別れの場面…上官である飛行長・辺見中佐役の小池朝雄とのシーンもなかなかに良い。

 

 

因みに、全編モノクロによる映画と思いきや、最後の朝焼雲のシーンのみカラーとなるという演出が施されている。

その効果の程は、私如きにはあまり理解はできないのだが…

 

役者・鶴田浩二というと…時代劇にも多数出演しているが、やはり任侠映画のトップスターという印象をお持ちの方も多いことと思うが、個人的にあまり任侠モノが好きではないこともあり…というよりも、私が映画などを、ちゃんと見られるような年頃になった時には、まだビデオデッキすらなかった時代であり、レンタルで映画…ましてやネットで手軽に映画を見るということは到底できず…
勿論、映画館に直に足を運び、お気に入りの映画を観るということもないわけではなかったが…大方の方もそうだとは思うが、淀川長治や水野晴郎の解説でもお馴染みな“○曜洋画劇場”や”○曜ロードショー”など、TVで与えられたプログラムをお茶の間で楽しむというのが映画の見方であった。
当然、ビデオデッキもないので録画はできず、見逃したらおしまいである。
だから、映画というよりは、やはりTVドラマの方が馴染み易かったわけである。
そのため、鶴田にしてもTVドラマで見る…NHK土曜ドラマ『男たちの旅路』(1976~1982年)での吉岡晋太郎(ガードマン/司令補)役、遺作となってしまった…やはりNHKドラマ人間模様『シャツの店』(1986年)での磯島周吉役や、フジテレビ月9ドラマ『大空港』(1978年~1980年)での加賀弘之(警視)役など、愚直で、戦争の痕(特攻崩れ)を拭えずにいる戦中派世代の中年男性像を好演した鶴田の方が私のなかでは印象に残っている。

鶴田は戦時中、大井海軍航空隊(静岡)で整備科予備士官として、「天号作戦」「菊水作戦」発動にともない出撃していく八洲隊の機体を整備し、彼らを見送ったという。

自らを特攻隊の出身、特攻崩れだと公言して問題にもなったものの一切弁明はしなかったというが、当時は、機を操縦して実際に突っ込む者も、その機を整備し見送る者も、立場は違えど気持ちは一緒だったのだと思う。

そうした思いから、戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも多額の寄付金をし、また講演活動などを通して戦争で死んでいった者たちへの熱い思いを語り継ぐことをライフワークともしていたようである。

そうした本人の並々ならる思いもあるからであろう…鶴田出演作の映画は、戦争映画抜きには語れない。

 

 

冒頭にも書いたように、8月15日は終戦の日であり…正午ちょうどに始まった玉音放送によって、日本の戦争は終を向かえたことが伝えられた。

余談だが、ラジオから流れる天皇陛下の御言葉は、文言・言葉使いも難しいが、それ以上に電波の状態、ラジオ自体の感度も宜しくなかった当時は、その御言葉が何を言われているのか、あまり…というか、ほとんど聴き取れなかったということではあるが、時勢の状況から、“戦争に負けたんだな”ということは、皆わかったようである。

 

話を戻し…その玉音放送を阻止せんと、天皇陛下自らの肉声が録音された…いわゆる“玉音盤”をめぐり、抗戦派の陸軍省、近衛(第一)師團の參謀将校らが中心となり蹶起したクーデター未遂事件…いわゆる“宮城事件(八・一五事件)"が15日未明から早朝にかけて起きている。

 

そこに至る顛末を描いた映画は、大宅壮一/半藤一利著『日本のいちばん長い日-運命の八月十五日』を原作とした1967年版および2015年版の同名映画『日本のいちばん長い日』…1954年製作の『日本敗れず』、1962年製作の『八月十五日の動乱』などがある。

 

日本のいちばん長い日』(1967年、2015年)

『日本のいちばん長い日』に関しては、2015年版は多少、主人公である阿南大将役の役所のイメージ(山本五十六の時と同様な描き方)をフィーチャーし過ぎている観もあるが、両年版ともに概ね時系列的にも、登場人物的にも、史実に即した展開となっている。

 

日本敗れず』(1954年) 

『日本敗れず』は、まだ戦後10年足らずということもあってか、当時の関係者などもご存命といういうことにも配慮してなのか、主演の早川雪洲が演じる陸軍大臣は阿南ではなく川浪となっているなど、出演者の役名は全て変名が使われているものの、その顛末は、それほど逸脱した展開にはなってはいないのに対し…

 

『八月十五日の動乱』は、軍人役ではなく総理大臣秘書官・中島浩役として主演を務めた鶴田と、中島の義弟であり、クーデターのメンバーでもある川崎一郎大尉役の江原真二郎という架空の登場人物の、時局に対する相反した思いと行動を主軸にしたストーリー展開となっており、前3作に比してフィクション性が高い。

 

 

また主要登場人物も、陸軍大臣、総理大臣など…その役職名のみにとどまっている。

 

因みに、天皇役は…1967年版では、当時は裕仁天皇が御在位中ということもあり、昭和天皇役の(八代目)松本幸四郎も特別出演としてクレジットされ、その描き方にも配慮がなされている。

時代が遡るとその傾向はさらに増し、『八月十五日の動乱』『日本敗れず』では役者を立てず、そこにいる体で話しかけるにとどめている。

 

明仁天皇に代わっていた2015年版では、タイトルの副題にも“THE EMPEROR IN AUGUST”が付けられているように、昭和天皇は前面に出され、本木雅弘が雰囲気、口調など、なかなかに研究したのではないかと思えるような好演をしている。

 

さて、これら4作品において、主要な役どころである陸軍大臣役は、古い順に、早川雪州、山形 勲、三船敏郎、そして役所広司が演じているが…

 

 

そのモデルは、勿論、阿南惟幾陸軍大将である。

阿南は、劇中での如く…陛下へのお詫びと、陸軍大臣として全陸軍の責任を一身に負い、そして、その志が痛いほどわかるが故に、血気に逸るクーデター派の拠り所ともなる自分が死ぬことで思い止まってくれるこを期待して、自刃というかたちでの身の処し方を選択している。

8月15日 午前5時半 自刃、7時10分 絶命 (享年58歳)

 

遺書 
一死以て大罪を謝し奉る 

昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 

神州不滅を確信しつつ


辞世の句
大君の深き恵に 浴みし身は 言ひ遺こすへき 片言もなし 

昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 惟幾

 


 

※阿南は、正式には“あなみ”と読むが、昭和天皇が“あなん”とお呼びになられたことから、通称“あなん”とも呼ばれるようになったということである。

 

 

阿南の他、主だった高位階級者で“自決”した者といえば、既記した宇垣…

 

 

小磯内閣における…阿南の前任陸軍大臣であり、太平洋戦争開戦時の參謀總長、教育總監の陸軍三長官を全て歴任し、元帥にまで昇りつめた杉山 元元帥陸軍大将は、阿南亡き後の敗戦に伴う国内の混乱収拾の手筈を進めた後、自らの逮捕ギリギリの9月12日に、第一總軍司令部・司令官室に於いて、胸に4発の銃弾を撃ち込み自決。(享年65歳)


第十二方面軍司令官兼東部軍管區司令官だった田中静壱陸軍大将も、叛乱将校たちの短慮軽率なる行動…宮城事件、その9日後(8月24日)に起きた川口放送所占拠事件の鎮圧に当たり、その責任と、無事に終戦への筋道を立てたのを見届け、その晩、司令官自室に於いて拳銃自決。(享年57歳)

 

そして、もう一人…“特攻の父”と呼ばれ、特攻の精神を完遂すれば必ずや勝機は訪れると信じ…いや、信じ抜こうと己に言い聞かせていたからか…ガチガチの徹底抗戦論者と思われがちな大西瀧治郎海軍中将であるが、戦時中、同様に特攻を命じた指揮官たちと違い、不思議な程に命じられた部下たちから恨み辛みを買うことがなかったのだという。
そうした毀誉褒貶が激しい人物像ではあるが、大西が海軍第一航空艦隊長官として神風特別攻撃隊の編成に拘わった時期に、大西の副官となった門司親徳(元)海軍主計少佐は戦後…「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか」と語っている。
確かに、“神風特別攻撃隊”の編成決定を受け、命令書の起案を作成したのも、最初の特攻…関 行男海軍大尉(死後、特進により海軍中佐に昇進)を指揮官とする敷島隊を見送ったのも大西だった。
軍令部次長の大西とともに徹底抗戦を訴えた、戦時中最後の軍令部總長の豊田副武海軍大将は、「大西が特攻々撃を始めたので、この特攻々撃の創始者だということになっておる。それは大西の隊で始めたのだから、大西がそれをやらしたことには間違いないのだが、決して大西が一人で発案して、それを全部強制したのではない」と語っている。
大西以外にも、軍令部第二部部長の黒島亀人海軍少将をはじめ、海軍幹部のなかで“必死必殺”の特攻を構想・推進していた者はいるが、戦後、己が果たしたであろう役割については語らなかった。
既出の門司が考察するように「開戦も自然ならば、特攻も、終戦も自然な時代の流れであった」のかもしれない。
結局は、陸軍も負けじと特攻戦術に重点を置き、航空特攻のみならず…水上・水中特攻と、体当たりできるものなら何でも的な流れになっていく。
特攻隊員たちを送り出し続けた指揮官・上官たちは、決まり文句の如く、「自分も後から続く」などと公言しながら、いざ戦争が終わるとなると、わが身の保身に走った者がほとんどだった。

大西は、そんな口先ばかりの者たちのようなことはできなかった。

8月16日未明(午前2時から3時頃)、渋谷南平台町の軍令部次官宿舎にて、一人“介錯無し”による割腹自決を図った。
異変に気付いた官舎の使用人が発見し、通報…
だが、大西は延命処置を拒み、同日夕刻、息を引き取った。

遺書には「自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝し、一般青壮年に対しては軽挙妄動を慎み、日本民族の福祉と世界人類の和平の為に尽くすよう」旨の内容が認められていた。(享年54歳)

 

因みに、自決将兵は527名を数えたというが、大将5名(すべて陸軍)、中将11名、少将6名、大佐16名と、将官・高級将校による比率は、そのうち僅か7%であった。

 

あゝ決戦航空隊』(1974年)

 

その大西の苦渋の晩年を、鶴田浩二主演で描いたのが1974年製作の『あゝ決戦航空隊』である。

俳優陣は、小林 旭、松方弘樹、北大路欣也、菅原文太、黒沢年男、梅宮辰夫、山城新伍、伊吹吾郎、渡瀬恒彦、池部良、大木実、江原真二郎など、こちらも豪華な顔ぶれとなっている。

その他、森山周一郎、川谷拓三、金子信雄、室田日出男、安藤 昇などが脇を固め、女性陣も、大西の妻・淑恵役に中村玉緒、檀ふみなどが出演している。

因みに、淑恵役は、当初、『最後の特攻隊』でも妻・志津子役を演じた藤 純子に白羽の矢を立てていたようだが、出演交渉は不調に終わり、中村となっている。

そして、異色とも思える西城秀樹の出演は、若い世代(特に女性)層にアピールするためのキャスティングだったようで、その目論見通り話題となった。

当時は、戦争映画出演には不可避とされていた丸刈り頭も、ファンからの哀訴により、長髪を飛行帽とマフラーで隠すにとどめ、脱帽シーンはない。

これが、後の木村拓哉が長髪(一纏めに結ったりもするのだが…)のまま特攻隊員を演じて話題となった『君を忘れない』(1995年)への布石となったのかもしれない

 

鶴田の、この映画に対する意気込みは並々ならぬものだったようで、「30年近い俳優生活を賭けて勝負する…その内面の苦悩を浮き彫りにしたい」などと新聞のインタビューで決意を述べたという。

ただ、本作が鶴田にとって最後の戦争映画出演作となってしまった。

 

 

因みに、本編の最後、鶴田演じる大西が割腹自決を為すシーンは、渋谷区南平台町の東急株式会社・本社ビルの裏手に、当時はまだあった軍令部次官宿舎の建物において撮影が行われた。
(本編最後でも紹介あり)