ワルキューレ | S A L O N

“運命の日”の二日前…1944年7月18日、予備軍参謀長官であったクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク(伯爵)陸軍参謀大佐は、東プロイセンに新たに編成する2個師団についての概要報告を、直に総統(ヒトラー)にするよう、東プロイセンのラステンブルク郊外にある総統大本営(FHQ)…通称“狼の巣(Wolfschanze)”での7月20日の会議への出席を上官の予備軍司令官フリードリッヒ・フロム陸軍上級大将に命じられた。
その数日前の7月11日、15日にもシュタウフェンベルクはヒトラーとの接見を果たしてはいたのだが、暗殺を実行するには至らなかった。
そして舞い込んできた三度目のチャンスとなる“運命の日”…1944年7月20日は、“三度目の正直”となるのであろうか…

 

 

シュタウフェンベルクは1907年11月15日、ヴュルテンベルク公国の国王ヴィルヘルムⅡ世の侍従長の三男(双胎児として生まれるも兄のコンラートは翌日死亡)としてシュトゥットガルトに生まれている。
シュタウフェンベルク家も名門貴族の出で、母方の血縁はプロイセン陸軍兵站総監アウグスト・フォン・グナイゼナウ陸軍元帥の曾孫にあたる。
開戦後は参謀本部編成課長などを経て北アフリカ戦線チュニジア駐屯の第10装甲師団作戦参謀として任官するも、1943年4月7日に左眼球摘出、右手首と左手の薬指・小指を切断するという重傷を負い本国に送還される。
復帰後は国内予備軍司令部附参謀将校として陸軍参謀本部に転属し、1944年7月1日付で陸軍参謀大佐に昇進。

予備軍参謀長官という願ってもない軍職に任官し、ヒトラーとの接見もし易い立場となっていた。


1944年7月15日…暗殺計画実行の5日前に、同地“狼の巣”においてヒトラーと接見した際のシュタウフェンベルク(左端“S”)。
右端は国防軍最高司令部(OKW)総長のヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥
ヒトラーと握手を交わしている人物は国家元帥副官カール・ハインリヒ・ボーデンシャッツ空軍航空兵科大将(兼航空省次官)、奥の顔だけが覗いている人物(左から二人目)は総統附海軍副官カール・イェスコ・フォン・プットカマー海軍少将


これまでにわかっているだけで42件にも及ぶヒトラー暗殺未遂事件。

そのなかでも最も規模的に大きく、また最も知られているのが、この通算41件目となる、シュタウフェンベルクらを中心に行われた1944年7月20日のクーデター計画“ヴァルキューレ(Walküre)(※)である。

因みに、この事件以外を含め、1944年の7月だけでも他に3件の未遂事件があったという。

(※ドイツ語のWalküre、英語のValkyrieともに、文字表記をするならば“ヴァルキューレ”とした方が、それぞれの発音に近いのだろうが、日本語表記の場合は“ワルキューレ”が一般的であり、以下はこの読み方で表記する。)

 

ここでの“ワルキューレ”とは、戦時における一般市民、強制収容所の収容者および捕虜の暴動鎮圧に対処するため1941年12月に立案され、そのための国内予備軍の結集と動員に関する命令の作戦名「ワルキューレ作戦(Operation Walküre)」のことで、北欧神話に登場する、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女神…古ノルド語のvalkyrjaのドイツ語訳となるWalküreに因んで命名された。
その概要は、国内予備軍がベルリンおよび他の主要都市、重要な軍管区において武装占拠行動を取れるものとしており、またそのために必要な使用可能な全ての軍の部隊、武器・弾薬等を数時間以内に準備・調達が出来るものとしている。
この国内の治安維持に関する要件などを、クーデターに利用できると考えた反ヒトラー派は、命令の立案・修正に携われる立場にあった予備軍参謀長官のシュタウフェンベルクを中心に、クーデターを起こした際に運用し易いように事前に適宜変更・修正を加え、また作戦発動の権限も国内予備軍司令官にのみに与えるなど決行に向けて準備を進めた。

 

この事件の顛末に関しては、これまでに数多くの書籍や映画、テレビ映画やドキュメンタリー番組等でも取り上げられている。

 

ワルキューレ(Valkyrie)』(2008年)

2008年には、ブライアン・シンガーが監督、そして映画『ミッション:インポッシブル』シリーズで、トム・クルーズとタッグを組むクリストファー・マッカリー(※ネイサン・アレクサンダーと共著)が脚本を手掛け、何と言っても、そのトム・クルーズが主役のシュタウフェンベルク役を演じたことで話題となった米独合作映画『ワルキューレ(Valkyrie)』が製作されている。

 

因みに、映画自体の評価としては…数ある“賞”はあるものの…賞を受け難いサイエンスフィクション・ファンタジー・ホラー作品にもしかるべき評価を…ということで設立された第35回サターン賞の映画賞部門のみではあったが、作品自体がアクション/アドベンチャー/スリラー映画賞(当時)、トムが主演男優賞、フリードリヒ・オルブリヒト歩兵科大将役のビル・ナイが助演男優賞、ニーナ(シュタウフェンベルクの妻)役のカリス・ファン・ハウテンが助演女優賞、ブライアン・シンガーが監督賞、その他…音楽賞(ジョン・オットマン)、衣装デザイン賞(ジョアンナ・ジョンストン)の7部門にエントリーされたものの、残念ながら、どれも受賞には至らなかった。

 

シュタウフェンベルクのご子孫にあたるフランツ・フォン・シュタウフェンベルク氏からは、身内としての欲目もあってか「良いスリラー映画だと思う」旨の、少々辛辣で手厳しい評価となったようではあるが、トム・クルーズという大スターが演じたことで、それまでも歴史好き、ミリオタうちでは周知の事件ではあったものの、言う程にはメジャーではなかったこの事件を一気にメジャーにしたと言っても過言ではないだろう。

 

下の画像をご覧になり、頷けるという方もおられるかもしれないが…トムは、シュタウフェンベルクの横顔に自身が似ているということもあり、この役に惹かれ、かなりの思い入れをもって役作りに励んだようで、本人に近い雰囲気を醸し出すような努力が窺われる。

 

 

ただ、個人的な意見で恐縮だが、シュタウフェンベルク本人の写真を見るにつけ、やはり2004年10月10日に長い闘病生活に終止符を打ち、惜しまれつつ亡くなられた4代目“スーパーマン”…出来得れば、『MONSIGNOR(邦題:バチカンの嵐)』(1982年)で見られるようなクリストファー・リーヴにこそ、このシュタウフェンベルク役を演じていただきたかったものである。

さらに、フランツ氏の不満材料の一つでもあったトムの低身長(実は170㎝以下なのではとの説も…)も、リーヴ(193㎝)ならば、シュタウフェンベルク(191㎝)と見紛うばかりで払拭されたのではないかと…

 

 

劇中でも、事件の経過に関しては、ある程度忠実に描かれていると思うが、事件後の関係者等による聴取・証言などから概ねわかっている運命の日“1944年7月20日”の出来事を、あらためて時系列的にご覧頂こうと思う。
多少の時間的誤差、脚色等もあるものとは思うが、その点は何卒ご理解頂きたい。
 

05:00 シュタウフェンベルク起床
07:30 霧による視界不良の影響で予定時刻より少し遅れて、ヴェルナー・フォン・ハエフテ ン予備役陸軍中尉を伴いベルリン郊外のラングスドルフ空港を離陸。
10:15 ラステスブルク飛行場に到着。
11:30 “狼の巣”に到着。
11:40 ブーレ陸軍大将、タッデン陸軍中将、レスラー陸軍中佐とともに兵舎に入りカイテル陸軍元帥と打ち合わせを行なう。
その際、作戦会議開始が当初予定の13:00から12:30に早まったことを聞かされる。
…第一の不運であった。

準備の時間は当初1時間以上 はあるものと想定していた。
12:12 そこでシュタウフェンベルクは「この(不自由な)身体なので、汗をかいたシャツを着替えたい」と申し出て、総司令部作戦室に向かう一行を待たせて、補佐官のヨーン陸軍少佐の部屋を借り爆弾のセットに取り掛かる。
シュタウフェンベルクは、この計画のために1個につき900gの爆薬が入った英国製の爆弾2個を用意していた。
酸の入ったアンプルを割ると、その酸が安全装置であるワイヤーを徐々に溶かし、10~20分後にはワイヤーが完全に溶けて撃針を作動させ発火させるという仕組みの信管であった。
シュタウフェンベルクが一個目の爆弾のアンプルを工具で割り、補佐官のハエフテンに間違いなく酸が滲み出てきているかの確認を求めたその時…突然ドアがノックされ、「総統がお見えになります…お急ぎ下さい!」と伝令がわずかにドアを開け、声を掛けてきた。
とっさに爆弾を隠したが2人は動揺し、二個目の爆弾のセットを諦めた。

ここでシュタウフェンベルクらは、その極度の緊張状態からか平時ではあり得ないような大きな過ちを犯してしまう。
たとえ二個目の爆弾をセット出来なかったとしても、それもそのまま一緒に鞄に入れておけば、セットが為された爆弾と相俟って…少なくとも一個だけの場合よりは爆発の威力が増したものと思われる。
しかし、シュタウフェンベルクはセットが済んだ一個のみを鞄に入れ、未セット分はハエフテンに預けたままにしてしまう。
…第二の不運であった。



信管の模式図


更なる不運は会議室の場所である。
当初、地下の掩蔽壕で行なう予定であったが、地下の工事と重なったことに加え、当日の蒸し暑さから空調の不備な地下よりも窓のある兵舎の方がよいであろうという理由で地上の会議室に急遽変更となった。
結果的に、窓が…それも全てが開け放たれていたことで爆発のエネルギーは外に逃げ威力は激減してしまったのである。
…第三の不運であった。

12:15 ヒトラーが自室を出たと告げられ、作戦室外に待機していた将官・将校たちが会議室への入室を始める。
12:30 作戦室内にはピリピリとした重苦しい空気が張り詰め会議が始まった。
「ルーマニアの状況は?」… ヒトラーが切り出し、陸軍参謀本部作戦部長兼陸軍参謀本部諸部代理のアドルフ・ホイジンガー陸軍中将が戦況の報告を始めた。
12:35 シュタウフェンベルクが作戦室に入る。
シュタウフェンベルクはカイテルの補佐官に鞄を渡す際に「片側の耳が聞こえ難いので総統のそばにして欲しい」と申し出る。
そして、ヒトラーの右側から3人目…ギュンター・コルテン空軍大将(空軍参謀総長)とハインツ・ブラント陸軍参謀大佐(第一参謀本部附・ホイジンガー代理)の間に通され、また当初その鞄もヒトラー側の机の脚元に置かれた。(下図参照)
既に時間的にはにいつ爆発してもおかしくない状態になっていた。
12:40 シュタウフェンベルクは漸くエーリッヒ・フェルギーベル陸軍通信科大将からの緊急の電話が入ったとして呼び出され、何とか建物から離れることが出来た。
12:41 補佐官がシュタウフェンベルクを探しに出ている。
それと時を同じくしてブラントが机の下の鞄につまずいてしまう。
ブラントはそれを元の位置には戻さず、ヒトラーと反対側の机の脚元に移動させてしまった。
…第四の不運であった。


12:42 「今、ペイプス湖から軍を引けば最悪の事態を招くことになります…」
この議事録に記された最後の言葉をホイジンガーが発した直後に爆発したものと思われる。

計画では、信号部隊司令官および国防軍最高司令部通信部門長官であったフェルギーベル陸軍大将がヒトラーの死亡を確認し次第、作戦成功をベルリンで待つ同志に伝え、その後FHQの通信網を遮断して孤立無縁な状態にし、その連絡を受け取ったベルリンでは全管区に宛て「ヒトラーは死んだ、国家の支配権は軍が掌握した」との声明を出すとともに、“ワルキューレ作戦(Operation Walküre)”を発動する手筈になっていた。
シュタウフェンベルクは、この爆発の状況から察し、当然ヒトラーの暗殺に成功したものと確信、フェルギーベルに後を任せラステスブルクからベルリンへ急ぎ飛んだ。


この時、作戦室内には24名がいたが、11名が受傷…うち4名は数日以内に死亡している。
しかし、ヒトラーは一時的に収縮期血圧が72mmHgにまで低下するショック状態を呈し、右腕にかなりの腫脹がみられ、肢にはテーブルの破片が突き刺さり、額が切れ、右の鼓膜が破れていたとはいうものの、奇跡とも思える生還により高揚気味で、自身の強運を再認識したことで一層活力を取り戻したかのようであったと側近は語っている。
ヒトラーが軽症だった要因としてブラントによる頑丈な机の脚の反対側への鞄(爆弾)の移動もあるが、爆発時の彼の姿勢もその要因だったのではとの指摘もされている。
つまり、地図の中央を覗き込 むように前屈みになったことで爆風に飛ばされたテーブルが皮肉にもヒトラーに激突するどころか爆風から保護する役割を果たす結果になったとみられる。
…これが第五の不運であった。



HAdolf Hitler/Führer (○)
2:Adolf Heusinger, Generalleutnant/Chef der  Operationsabteilung des Generalstabes des Heeres und Stellvertreter des Chefs des Generalstabes des Heeres (◎)
3:Günther Korten, General der Flieger/Chef des Generalstabes der Luftwaffe (♰)
4:Heinz Brandt, Oberst im Generalstab/Erster (♰) Generalstabsoffizier; Heusingers Stellvertreter
5:Karl-Heinrich Bodenschatz, General der Flieger/Verbindungsoffizier des Oberbefehlshabers der Luftwaffe im FHQ (◎)
6:Heinz Waizenegger, Oberstleutnant im Generalstab/Oberstleutnant d.G. Heinz Waizenegger: Adjutant Keitels
7:Rudolf Schmundt, Generalleutnant/Chefadjutant der Wehrmacht bei Hitler und Chef des Heerespersonalamtes und Adjutant des Oberbefehlshaber des Heeres (♰)
8:Heinrich Borgmann, Oberstleutnant/Adjutant Hitlers (◎)
9:Walther Buhle, General der Infanterie/Chef des Heeresstabes beim OKW
10:Karl-Jesco von Puttkammer, Konteradmiral/Marineadjutant Hitlers (○)
11:Heinrich Berger/Stenograf (♰)
12:Heinz Aßmann, Kapitän zur See/Admiralstabsoffizier im Wehrmachtführungsstab (○)
13:Ernst John von Freyend, Oberstleutnant im Generalstab/Adjutant Keitels
14:Walter Scherff, Generalmajor/Sonderbeauftragter Hitlers für die militarische Geschichtsschreibung (○)
15:Otto Günsche, SS-Hauptsturmführer/Adjutant Hitlers
16:Hans-Erich Konteradmiral Voß, Konteradmiral/Vertreter des Oberbefehlshabers der Kriegsmarine im FHQ
17:Nicolaus von Below, Oberst im Generalstab/Luftwaffenadjutant Hitlers
18:Heinz Buchholz oder Kurt Hagen oder Fritz-Ernst Hagen?/Stenograf(※氏名不確定)
19:Hermann Fegelein, SS-Gruppenführer/Vertreter der Waffen-SS im FHQ
20:Herbert. Büchs, Generalmajor/Adjutant Jodls
21:Franz Edler von Sonnleithner/Vertreter des Auswartigen Amtes im FHQ
22:Walter Warlimont, General der Artillerie/Chef der Abteilung Landesverteidigung im Wehrmachtführungsstabe
23:Alfred Jodl, Generaloberst/Chef des Wehrmachtführungsstabes im OKW
24:Wilhelm Keitel, Generalfeldmarschall/Chef des OKW
SClaus Graf Schenk von Stauffenberg/Chef des Stabes beim Befehlshaber des Ersatzheeres


※ ( )内:♰は死亡者、◎は重傷者、○は受傷者

(注)
FHQ:Führerhauptquartier(総統大本営)
OKW:Oberkommando der Wehrmacht(国防軍最高司令部)

 

 

13:00 フェルギーベルはヒトラーの生存を確認すると慌てふためき、匿名で交換手に「大変なことが起きた」とだけ伝言を残している。
ベルリンではその伝言の出所に確証がもてず混乱し、シュタウフェンベルクの到着を待つという何ともお粗末な行動をとってしまう。
この後手後手も失敗を助長する要因となった。
例えヒトラーが存命だったとしても、事前の計画通りに迅速に対処することで、このクーデターを切っ掛けにした大規模な反乱を起こせたかもしれない。

13:30 ヒトラーは平静を取り戻し、この後の予定を当初の予定通りに行なうように命じる。
この段階では犯行についての詳細は判明しておらず、その炎の色から英国製の爆弾が使われたことが分っている程度で、英国の諜報部員による仕業説、英軍機による爆弾の投下説などが浮上していた。
13:45 ヒトラー、カイテルからの中間報告を受ける。
ここに至って1名の行方不明者…シュタウフェンベルクの存在が注目されている。
15:00 ヒトラー、ムッソリーニとの会談準備に取り掛かる。

 

現場となった会議室の内部を視察するムッソリーニに、当時の様子を説明をするヒトラー

15:40 シュタウフェンベルク、ラングスドルフ空港に到着。
16:30 シュタウフェンベルク、ベルリン・ベンドラー街の陸軍参謀本部に到着。
16:40 ルートヴィヒ・ベック(元陸軍上級大将・元陸軍参謀本部総長)は、事ここに至って漸く“ワルキューレ作戦”発令。

17:30 ムッソリーニとの会談を無事済ませたヒトラーは、殊のほか上機嫌で、反ヒトラー派が出した声明文を見てもなお不気味なほどに冷静であったという。


18:00 臨時政府軍、ベルリンとパリに戒厳令発令
18:35 ベルリン警護大隊“Großdeutschland”のオットー・エルンスト・レーマー陸軍少佐が宣伝省施設とゲッベルス宣伝相宅の確保および逮捕に向かう。
しかし、ゲッベルス宅の電話線が切断されていなかったため、ゲッベルスはFHQに電話することが出来、レーマーに電話口に出たヒトラーと話をさせる。
ヒトラーは「私は無事だ…国防軍最高司令官として君にベルリンの秩序回復を命じる…手段は君に任せる…逆らう者は撃ち殺しても構わない!」と…その場でレーマーを“陸軍大佐”に特進させ、反ヒトラー派を容赦なく鎮圧するための全権を与えた。
それにより、陸軍参謀本部に置かれた臨時政府軍本部は鎮圧向かった部隊に包囲された。

23:00 フロムはクーデター関係者の逮捕を命じる。
00:15 即決裁判後、ベック元陸軍上級大将は自決、フリードリッヒ・オルブリヒト陸軍歩兵科大将アルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィンハイム陸軍参謀大佐、ハエフテン予備役陸軍中尉、そしてシュタウフェンベルクの4名は陸軍参謀本部の中庭において銃殺された。


フロムは、もともとクーデター計画には日和見的な立場をとっており、カイテルからのヒトラー生存の電話を受けるや態度を硬化させたため、シュタウフェンベルクらによって軟禁されていたが、鎮圧部隊により解放されると、自らにも追求の手が及ぶことを恐れたのか否かは分からないが、シュタウフェンベルクらの身柄の確保から1時間という異例の速さでの銃殺を断行した。

 

だが、この恣意的な手際の良い処断が、疑心暗鬼に駆られたヒトラーには反って逆効果だった。
その日(21日)のうちに国内予備軍司令官兼陸軍補充局長の職を解任され、逮捕された。
9月14日付で軍籍を除籍となり、その後の裁判では軍人としてではなく、一般市民として人民法廷により国家反逆罪の罪で裁判が行われた。
裁判のなかで、フロムの直接の関与は立証されなかったものの、“敵前での不覚悟”により、死刑が宣告された。
1945年3月12日、フロムは「命令により私は死するが、私は常にドイツにとっての最善だけを願っていた。」との言葉を残し、ブランデンブルク刑務所で銃殺刑に処せられている。(享年56歳)

この後も反体制派の追求は続き、政治家や党関係者…民間人にまで及ぶ約5000名の計画関与者が逮捕または強制収容所などに送られることになる。
シュタウフェンベルクら4名の他、翌21日中に処刑された38名を含めた約200名がベルリンのプレッツェンジー刑務所などでピアノ線による絞首刑という悲惨な死を遂げている。
またヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将を含む6名が自決した。
この暗殺未遂に対するヒト ラーの追求は終戦直前の1945年4月まで続けられることになる。

因みに、エルヴィン・ロンメル陸軍元帥もこの事件に関与していたとされたものの、国民からの圧倒的な人気に配慮して、ロンメルには10月14日に自決(青酸カリによる服毒自殺)が強要された。
その死因は、3ヵ月程前(7月17日)のカナダ空軍第602飛行隊所属のスピットファイアによる機銃掃射を受けた際の頭部への受傷が元での塞栓が原因と発表され、4日後の10月18日にウルムで国葬が行われた。
但し、暗殺未遂事件との関与は一切公表されることはなかった。
国葬の際に、ヒトラーの弔辞を代読したルントシュテット陸軍元帥が差し出した腕を拒んだことはロンメル夫人ルシーのささやかな抵抗だったのであろう。


歴史において“もしも”を語ることは妥当ではないが…もしも、このクーデターが成功していたら、この後の9ヶ月間におよぶ不毛な戦いはなかったのかもしれないが…はたして、どうだったのであろうか?
ただ犠牲者の数が、それまでの5年間をも上回ることになる最後半の9ヶ月間の闘いの幕引きが少しでも早まっていたならば、それだけの犠牲者・人命が失われることはなかったであろう。

シュタウフェンベルクの最後の言葉は「神聖なるドイツ万歳!」であったという。
また彼の遺骸は21日に火葬され、ベルリン郊外に散骨されたということである。
彼は生前、妻にこう語っていたという…
「失敗すれば国家に反逆したと言われるが、何もしなければ良心に背くことになる。」
(享年36歳)

 

 

映画『ワルキューレ』に関連した話題をもう一つ…
この映画で、主演のトム・クルーズが劇中で実際に着用した制帽…いわゆる“プロップ”がオークションに出品されていた。

 


勿論、プロップメーカーもしくは専門業者に発注された“複製品”ではあるが、なかなかの出来で…特にフォルムが良い。
開始価格は500ポンドからスタートして、落札価格は2,000ポンド…日本円にして298,500円(2018/9/20当時)相当。
これにバイヤーズ・プレミアムという手数料460ポンドと税金350ポンド(英国内でのVAT(付加価値税)17.5%)も加算されることになるので、結果的には2,810ポンド(419,390円)。
それに送料、更には通関手数料、関税、保険なども最終的には加算されるかもしれない。
勿論、トム自身が劇中のシーンで実際に着用したプロップなどは滅多に手に入らぬものであり、ファンからすれば垂涎のお宝なのは言うまでもない。

 


物の価値などというものは、そうしたものであり…これが高いか安いかは、人それぞれの感覚である。
ただまぁ、当方が所有している…着用者は誰であるかまでは分からないが、戦時中の実際の陸軍参謀科将校の“実物品”なら優に二つは買えてしまう…(苦笑)