友の旅立ち | 多趣味なpegaの日々のつれづれ話

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現在の趣味は、ジョギング(トレイルランニング)、観劇、囲碁、ママさんバレー^^; 本当は、スキーやスカイダイビングやゴスペルを歌ったりもしたい(けど時間もお金もない)。そんな多趣味なpegaの日々のできごを、つれづれと書いていきます。

なかなか書けずにいたんだけど、3月9日に、高校時代からの友が旅立った。

中学も一緒だったけど、そのときは「知り合い」程度。なんせ、友は女性ながらに生徒会長というみんなの人気者でしたから。


それが、ちょっとしたきっかけから、高校時代の、ほとんどの時間を一緒に過ごす友となった。


大学も推薦で、早々と決めたし、結婚も早かった。ところが、不妊に悩み、いつまにやら離婚。その後、世界一周の旅に出かけたり、東京で劇団に入ったり、、、と、波乱万丈の人生…だったのかな?

たま~~~に、実家に戻ってきたときに、ランチしたりしてたんだけど、あるとき、髪の毛がなかった。そんなものは、見た瞬間わかる。「出家した」と言ってくれという願いもむなしく、乳がんだと彼女は告げた。38歳だった。


5センチの中期で、10年生存率は50%を切っていると言っていた。化学療法でがんを小さくして、乳房温存で手術を受けたらしい。その後、術後放射線療法を受けていたはずだった。


が、途中でやめたらしい。


よほど西洋医学の治療がつらかったんだろうとは思うけど、彼女は、「がんは治る」という言葉を信じ、「自然治癒力を高める」生き方を選んだ。純粋で真っ直ぐな彼女は、玄米菜食など、ありとあらゆる方法で、免疫力を高めようとした。明るく笑って生きようとした。必死で。


せめて、再発の有無を確かめる受診くらいはしていてほしかったんだけど、レントゲン検査すら「体に毒」と受けないんだもの。まったく病院には行ってなかったらしい。


そして、再発。肺や骨への転移。

一番つらかったのは、首にできた腫瘍で、神経が圧迫されて、右手が動かなくなったことのようだ。


最後は、首の腫瘍が気道を圧迫して、、、ということだったらしい。

放射線療法を最後まで受けていたら…。
再発を早く見つけて、そのたびに治療を受けていたら…。
もしかしたら、あと5~10年は生きれたんじゃないか、と思う。


でも、彼女はそういう生き方を選ばなかった。


葬儀は、家族葬だったけど、自宅に会いにいくことはできた。彼女の母が「やれやれです」と言っていた。自分の子どもの介護をするのは、ご両親にはどれほどつらかったことか、と思い知らされる言葉だった。


彼女はもうすぐ49歳になるはずだった。10年よりは少し長く生きたことになる。


私は、彼女に対して「説得力を持つ言葉をなにひとつ」持たなかった。そのことが悔しくて悔しくて、この10年の間に、何度も泣いた。


でも、共通の先輩が、かなりの説得力をもって、彼女に話したにもかかわらず、ダメだったと言っているのを聞いて、


「そうだった。彼女は、自分で決めたら、動かない人だった」と妙に納得できた。


そのおかげで、思ったよりは取り乱さずにすんだ。もっと落ち込んだりするかと思ったんだけど、す~~~~~っと受け止めることができた。


これから、こういうことが増えていくんだろうなとも思った。人生は一度きり。我慢はできる限り減らして、自分の心のままに生きて行こうと、心の底から思う。

わが友へ

バイバイ。

あなたに会えて良かったよ。

いつか、あっちの世界で、またランチに行こうね。