世界報道写真展2024 | サボリ通信

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大村幸太郎ブログ

ご挨拶が遅れましたが本年もどうぞよろしくお願いいたします。
旧正月中ということで遅ればせながらご挨拶とさせていただきます

スタートは昨年のネタになりますが世界報道写真展から  日本の正月はとうに過ぎましたが中国では今がお正月。 日本での当たり前、私たちの当たり前は実はそうでもない。世界から見ると
いや、日本の中でも焦点を絞れば見えてくる別世界があるのかもしれない。  それは社会の問題、課題でもあり、私たちも無関係ではないのです。
 それを言葉ではなく音楽でもなく、写真で伝える。それが世界報道写真展です。

 

 

 

 

 

 

 

京都展は京都新聞社・地下印刷工場跡にて開催

 

 

 

 

 



以降は僕が気になった写真をピックアップしました。
 

                                       

 

 



石油さえあればその国は幸せ。というわけでもない 

 

写真に写る家族は諦めなのか、もしくはあえて楽しもうとしているのか 彼らの胸中は分からない、が、そんなどんよりした空気が迫る炎によって混沌さを漂わせている。 
 国の情勢を伝え、そこに生きる人々の心情までも一枚で表現していると思う。 一目見て凄いと思った。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

採取しつくした石油採掘跡で遊ぶ少年。 こんな未来少年コナンのような世界が現実にあるなんて   そして何故この写真に美しさを感じてしまうのだろう










 

 

 

 

 

 

 







 

 


余命宣告を受けたジウアーは死に向き合い家族に向き合い、そして自分に向き合う。 写真とは何だろうか?そんな事を考えさせられる作品。
 写真は記録であり、遺品であり、行為でもある。 一つの儀式ともとらえられるこれらの記録は写真というジャンルだけに留まっていない。  残った家族が見る先は彼女が死して与えた”未来”が写っているのかもしれない








哀しみという形があるならば

 





まるで絵画のようだ。しかしこれは写真。争いが作り出した現実のものだ。 写真や表現、芸術は社会と繋がっている、そうでなければならない。そして何てことかその社会との繋がりがこの美しさをも感じる写真を写してしまった。僕はこの写真は作品だと思った。
 しかしもしこの写真の人たちと同じ立場にいたとしたら僕は真っ向からこの写真を否定し拒否するだろう。








 

 

 

 

 

 

 

 


写真は感じるものでもある。社会やあなたが抱えていることに共鳴してくれる一つのツールでもあるのだ。 









 どんなものもアートや表現となりうる今の世の中に”これは作品だ”と呼べるものはいくつあるだろうか。 翻って僕が作るものに何が残るのだろうか

 



社会との繋がりこそがはじめて作品を生み出す。そのことを忘れずにこれからも僕は作品を作るだろう。 

2025 -年の初めに

 

 

text/30/jan/2025