忘れられない味というのがあります。
前にブログにも書かせていただいた話なので、もう、くどい− と思われるかもしれないですが東日本大地震から10年経った今、なにかを文章に残しておきたくなりました。
あれは2011年の暮れ12月29日、僕は岩手県宮古市まで車を走らせていました。
2011年のその年に東北の被災地の一つを訪れたかった。
仕事をしながらボランティアセンターとやり取りをして、なんとか一箇所募集している知らせをいただき直ぐにホテルを予約し、29日に車を走らせていた。
父親が体調を崩し始めたのはその少し前の頃だった。
検査入院を繰り返してその度にケロッと帰ってきてくれていたのだけれど、今回はどうもそうもいかないらしい、癌という病は今回は帰らせてくれなかったようだ。
僕はまたケロッと帰ってきてくれるものだと思っていたから、ああこれは年末は家を空けるべきじゃないと、そんな事が頭によぎった。
父は染房を営んでいる、僕も弟子として働いている。 たとえ病から回復するにしても当分は僕一人で工房を運営しなければならない。不安ばかりであったが、家にいても父の容体が回復するわけでもなく、僕は変更なく東北へ行こうと思った、というかそこから逃げたかったのだ。
悲痛が悲痛を呼ぶように、震災のあとへ車を走らせる。 何もかもを失った人たちの中に入り何を見ようとしていたのだろう?もっと悲惨な人たちの中に入って紛らわせたかったのか。 少なくとも僕はボランティア-という目的ではなかった。
現地へ着いてまずした仕事は−泥かき。
一軒を一日中朝からやって、それでも終わらなかった。若い地元のリーダーの方が壁面を指差し、ここまで水が来たんです。と教えてくれた。この言葉も何十回と言ってるのだと思う。ボランティアの中から、写真撮っていいですか−と声がかかってリーダーの許可を得れたら撮っていいという事になっている −壁など撮ってどうするんだろう。、と黙って見ていたら、リーダーから、−ゴミ捨てに行くので軽トラ助手席お願いします− と声をかけてもらい一緒にゴミ捨て場へ
写真を− と聞かれたリーダーは、いいですよーと軽いフリをしてでも疲れていて、悲しみがあったのはわかった
ビルほどのゴミの山というのを初めてみた。 それは小学校などの社会見学なんかで見るゴミ処理場とかデザインされたものなんかじゃなくて、例えば怪獣がやってきてそのあとの瓦礫の山に何とか通れる道がある、それなのだ。その中を軽トラで走り、迷路のような道とも言えない道を慣れた運転でリーダーは指定の箇所まで走らせ、二人でゴミを降ろした。
一体どこを走っているのか。 、あれは本当に気がおかしくなる。砂漠でどれだけ歩いても目的地が見えてこない、そんな感覚であった。
人々は一見明るく話していたり、ワイワイしていてもなんか空気はずっと哀しみが空の上から降り注いで漂っている感じがした、
銭湯でとびきり熱い風呂へ入っても、ファスト牛丼屋で食べていても、スーパーへ行っても、ドラックストアへ行っても、普通に生活をしているのに何か生暖かいようなじんわりした哀しみが町に付き纏っている。雪が降り積もって寒い土地なのにじんわりぬめっとしたまとわりつくような哀しみがどこにもあった。
せめて寒くてキンッと痛いような哀しみを。そう感じたのは僕にも少しの不安を持ち合わせていたからかもしれない。
大晦日の31日は、ボランティアセンターを解放し、餅つきや映画上映会などの準備から始まり、夕方から住民の方をむかえるイベントの日だった。 しかし時間になってもなかなか人が来ない。驚くほど来ない
スタッフがなんとか盛り上がりをみせるように何というか、僕ら他府県から来ているボランティアにも気をつかうようにイベントはすすみ終了していった。
明けて元旦、この日は仮設住宅へ出向いて一日そこに居てください。−という仕事だった。
この仕事に当てられたのは、昨日のイベントで一人の地元の方と長々と話をしていたからだと思う、聞いたり話したりするのは不安が少し和らぐもの。そうした相手役に向いていると思われたのかもしれない。
なんて事はない、僕自身も不安を減らしたくて話をしていただけなのだ。
どこの町にも住宅地の真ん中にでかい公園があったりする。そこの半分ほどに仮設住宅が長屋のように軒を連ねていた。
車を止め事務所まで公園内を一人で歩く。毎日誰かがこうしてどこかの仮設住宅地の事務所を訪れ、困り事がないか聞いたりお話したりする、その役目が今日の仕事なのだ
考えてみれば、こんな重大な任務を僕が引き受けていいのだろうか?
ふっ、と一軒のドアが開き住民の方が外に出ようとされていた、
-おはようございます!、と挨拶をするとスッとしめて家に入られた。
そうだ、よく分からないボランティアに挨拶なんかする気にもならない気持ちは分かる。今日は元旦で、というか最も悲惨な元旦なのだ。
事務所は仮設住宅と同じ作りで端にあり、カギを開けて僕は中に入った。ものすごく寒く簡素でサッシとプラスチックで作られたような、装飾や温もりはない。 コタツが真ん中にひとつあって、その前にテレビ。奥に小さな台所、その奥にトイレとお風呂。コンパクトながらも確かに全ての家事や風呂などは済ませられるが、しかし。被害を受けて初めてここに来た時は嬉しいのだろうかそれとも哀しいのだろうか。
コタツの上に置いてある引き継ぎのノートをめくりながら午前中は過ごすことにする。一日ここに居てください16時になったら本部まで帰ってきてください。という決まりだった。
9時から待機して丁度10時ごろ、優しそうなおばちゃんがお隣から来られて、−今日のボランティアさんはどちらから〜?−と、もの凄く優しい声で声をかけてくれた。
−京都です と答えると、
ああ、京都は初めてね、遠いところをご苦労様ね〜、とねぎらってくれて
そこから−仕事は何だ、結婚はしているのか、子供はいるか-、などなど、やんや話が盛り上がってふっ、と−私は家を津波に流されるまでこの仕事していたのよ〜、とおばちゃんも自身の話をしてくれた。
途中からおやじさんも来て、夫婦で大変だった事、これからの事、仕事が見つかった事などなど色々話してくださった。
お昼頃になって、−あ、ご飯食べてくるね〜 と戻られて、何というか年末から今日まで終始漂っていた生暖かい哀しみは少し消えていて、正月の朝らしいシンとしたあの清々しさがそこにあることに気づきました。
持参したカップヌードルシーフードを食べていたら、おばちゃんが戻ってきて、あ、お昼あったのね。
といいながらお盆に何やら旨そうなものを持って来てくれた。 そんな、ご馳走になるなどとんでも…、
と言いたいところだったがそのお盆の上にのってあるものが見たこともない食べ物で、焼き餅が供えてあるのはわかるのだけれど、何やらその横にカスタード色のペースト状のものがあるのだ。
−お昼、、食べていたら、余計だったかしら、 なんて仰ったような気がしましたが、−いえ、直ぐに食べます。とカップラーメンを掻き込み、目の前にあるそのお盆をまじまじ眺めた。
それはね、くるみ-なのよ。くるみを潰してクリームにしたものなの−
という甘美なる囁きに耐えられず、焼き餅をそのクリームにつけて食べると、ふんわり甘く芳ばしく、香り高く、それはそれはめちゃくちゃ美味しい食べ物でした。
芳ばしくて、滋味深くてバクバクバクバク食べていたら、ふいに泣き出しそうになりました。 いや、多分四分の一くらいは泣いていたかもしれない。 暖かくて包まれるようでその土地の味ってあるけど、初めて宮古市という町がわかったような気がします。
−お正月はこれなのよ、くるみは裏山で採るのよ。、 と教えてくれて 避難先だから住んでいた土地は実はここではないのかもしれないけれど、宮古市の味とは僕にとってはあのくるみ餅だ。
お腹が満たされてゆくにつれ、何故こんなよそ者にご馳走してくれるんだろう。。とか、なんでこんなに優しいんだろう、、とか考えていたけれど、半泣きで食べる僕におばちゃんは何も言わず一言もいわず、僕をみていただろう、、と思う。顔を上げられないから
間がもたないから、美味しい、美味しいとただただ言いながら何か途中からしょっぱいような甘いようなお餅を僕は食べ尽くしていたのだった。
食後、しばらくすると元気な小3、4くらいの女の子が部屋に飛び込んできた。 さっそく仲良くなろうとそれなり得意なマンガ絵を描いて見せたりしながら姑息に頑張っていたけれど全く受けず。テレビを見ながら他愛もない話をする午後となる。
ピロロ、ピロロとテレビから緊急地震速報が流れる。
うん、まだ余震はある油断は出来んな、なんて思っていたら、女の子はしきりに震度や場所を伺っている。何度も確認をとり、安全が確認されもとに戻った。
なんていうか声をかけられない。大丈夫、震度も低いよ、とかそんなんじゃなく、声をかけられない、かけてはいけないのだ。
決定的なものをそこで感じ、入ってはいけないものがあることにも気づいた。
気分を変えるために外に出てその子とボール遊びをする。 なるほどマンガが受けなかったわけだ、この子はスポーツのが好きなのだ。
お互いに離れてボールを上や下や色々投げたりしていたらその子がふいに、−私学校でバレー下手なんだ、と言ってきた
よし、じゃあ教えてあげる、で今日の午後からの仕事が決まった。
その子は渋っていたけれど、どう考えても上手くなりたいと悩んでいたので半ば強引にも構え-から教えていった。
昔、学生のヒマがありまくる頃、僕は夜半地元の友達たちと熟女目当て…もといバレーボールが上手くなりたくてママさんバレーに毎週通っていたことがあってしかしおっさんのコーチもそこにいて鬼サーブなど受けていたものなのだから、素人であったけれどキツい球を回避すべく下手ながらボールを受けていた。そのうちにテクニックを教えてくれて胸より少し上の辺りで手を三角形の形にして構える、我々の通称ピンクフロイドの−狂気の構えのおかげもありある程度のボールは拾えるようになっていた、
この特訓の日々は今日のこの日の為にあったのだ。
ボールを近くから投げて慣らしながらその内にその子はボールをほとんど返せるようになっていった、そして最後のほうにはだいぶ遠くからのボールも受けれるようになっていた。あれはもの凄く嬉しかった。
嬉しかったのはバレーが上手くなった事じゃなくて、-私バレー下手なんだ、って普通の小学生のみんなが悩む普通のことで悩んでいた事がめちゃくちゃ嬉しかった、それも真剣に、切実に笑
小学生の悩みはそうでいい、そうでなきゃいけない。そこまでにしておいてくれ頼む神様にはそう願いっぱなしだ現在も
遊んであげたのか、遊んでもらったか分からないまま、−16時が近づいて、おばちゃんが寄ってきて −お兄ちゃんもう帰らなきゃいけないのよー、とその子に伝え。、 女の子が、−明日は?
ときいて、
−明日は帰るねん と答えた
おばちゃんがそれを見ていて、その子もへんに聞き分けがよくて、みんなで部屋に戻ってお茶とお菓子を食べて荷物持とうとしたら台所に僕の食べたカップヌードルシーフードが綺麗に洗ってあって、逆さまに置いてあった。
明くる日、京都に向かう道すがら、−なんで人はあんなに哀しい目に遭っても、なんであんなにも優しくできるのだろうかずっと考えていた。 それが東北という国の人情だと思っていた。
でも10年経って今日やっとわかった、あのおばちゃんは最初から僕が哀しみと不安を抱えてここへやって来ていることを分かっていたのだ、だから何も触れないように、ただ包むように僕をもてなしてくれたのだ。
僕の父親はそれから半月も経たない内に亡くなった。
海に向かってひたすら手を合わせい祈りを捧げている方に出会った、瓦礫の中に真新しい家が一軒たっている姿をみた、堂々と大漁旗が掲げられた漁船があった
あの時から、僕も再生されたのだと思います。 そんな10年だったのです。 思い通りにいかない事はめちゃくちゃあるけれど、あのくるみ餅の味は今も舌の上に鮮明に残っている。残っているよ
それが僕にものを作らせるパワーになっています。
必ず作るあんな風に何も言わずただ包みこんでくれる作品を