そのお店は、完全予約制でメニューはコース料理のみだった。
コースはお任せのみだが、毎回違うメニューを出してくれる。また、料理の味はもちろん、見た目もとっても素晴らしい。
マスターから特に話しかけられるでもなく、お客さんは数組しか入れない。居心地も非常にいい。
私は、そのお店が1番好きで、行くたびに感動していたし、そのお店がいかに素晴らしいかを色々な人に話した。
そこでおいしい料理を食べるたびに、
「あぁ生きててよかったなぁ。」
と思えた。
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そこのお店から遠いところに引っ越すことになった。
これまでみたいに気軽に行けなくなってしまうので、予約を取れるだけ取った。
予約を取りづらいお店なので、行きすぎて迷惑だろうなぁと思いつつ、多い時には3日に2回行った。
毎日でも行きたいくらい、本当に素晴らしいお店だった。
一緒に行った人も、みんなそのお店と料理を褒めてくれた。
私の大好きなそこが褒められると、何だか自分が褒められるようで、私まで嬉しくなった。
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マスターには、引っ越すことは一切言わなかった。
しかし、あと残りの予約が1回、となった時、マスターから電話がかかってきた。
「ごめんなさい、突然。
会話の内容が聞こえてきていて、もしかして、と思い気になって電話させていただきました。
遠くに行かれてしまうんですか?」
私は、引っ越す予定だということ、次にお店に行くのが最後だということ、そして、これまでの感謝を伝えた。
マスターは、
「そうですか。とても寂しいです。
次回も、精一杯おもてなしをさせていただきますね。」
と言った。
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いよいよ、最後の予約の日になった。
いつも通り、1品1品素晴らしい食事を楽しんで、残り一品となった時、マスターが私に言いにきた。
「あぁ。終わってしまいますね。」
しんみりしたのが苦手な私は、いつも通り「全部とってもおいしいです!」とだけ言った。
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コースの最後のメニューも食べ終わり、幸せいっぱいの気持ちでお会計をお願いすると、マスターが言った。
「今日のお会計は結構です。」
マスターは続けた。
「私からの餞別です。
これまで贔屓にしていただき、本当にありがとうございました。」
何度も払います、払わせてください、と言ったけれど、マスターは受け入れなかった。
かわりに、
「また食べにいらしてくださいね。
どうかお体に気をつけて。」
と言った。
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たくさんいわゆる「いいお店」には行くのだけど、今のところ、あのお店を超えるお店に出会える気はしない。
そして、またあのお店に行くのを楽しみに、今日を過ごしている。