Re3:Nickさんへ”これぞ真理『予定論』!!” -- み旨成就への”真の父母様”の決意 | peaceのブログ

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「天の父母様聖会」とは、政治、宗教、経済、学術、メディアなどのの壁を超えたコミュニティーです。
人類の父母である神様の元に人類が一つの家族となり、平和世界の建設という理念を掲げているのが、「天の父母様聖会」です。

リブログ記事、自称ルポライターtomy4509からにくい Nickさんへのコメントのペーストです。

 

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存在しない「独生女論」、そして、それをすり替えた言葉として『喧嘩をする「父母異相論」』を持ち出されたにくい Nickさんでしたが、前回記事のコメントNo.6、自称ルポライターtomy4509をもう一度お読みになってあなたがされているお父様み言の改ざん歪曲に気付かれ、真の父母様(お母様の胎内)に戻られますことをお祈りします。

https://ameblo.jp/ucjapan-membet/entry-12852589901.html

ーーーーーーーーーーーーーーー>以下コメントペースト

コメントNo.6

>にくい Nickくんさん

み言選集の506巻からです。
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先生はいい加減に生きないんですね。
オモニがしようというままにしないんだね。

(アボジもしようというままにしないんだね。)
神様がしようという通りするんです。
オモニが神様がしようという通り、すべてのことが出来ていないので、オモニ(一人だけ)を前に立てることができないんだね。
嫌だとしてもオモニも【父母様】を前に立てておいて、こうしよう、ああしようとしないとダメです、(神様を他所において)自分たちだけで、こうしよう、ああしようとしたら原則が狂ってしまうんだね。
ーーーーー<

2005.09.05に語られた「個人主義と家庭主義」という題目からも結論付けられるものでした。

お母様一人、また、お父様一人といった個人主義ではダメだ、【家庭主義】とはどういうことでしょうか?

(同記事)コメントNo.3より
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>peace

アボジが自分のことを父母様と呼ぶんですね。
そのような使い方をされたアボジであったわけです。
そのように使われてきたアボジであり、
ここでも文脈からも明らかなわけですよ。

にくい Nickくん 2024-05-18 02:25:52

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このような発想は喧嘩をする「父母異相論」からのもの、父と母は違うという「個人主義」者らが騙ることです。

お父様がお母様に「顧命宣布」された時のみ言も参考にしてください。
https://ameblo.jp/peace-tomy4509/entry-12827392945.html
ーーーーー>
『ファミリー』1990.8月号のP.27、P.32のお父様のみ言からですが、

P.27
このような条件を中心として、すべてが完全に終わったのです。もしも先生がいなくても、お母様一人になってもみ旨には何の支障もありません。今まで歴史上では女性は天と地を代表した立場に立つことは出来ませんでした。しかし初めて父母の愛を中心とした一体的理想でもって、お母様を中心とした女性全体解放圏を地上で宣布したのが今朝の式だったのです。
P.29~
愛は時空を超越しているからです。そのような真の愛の意識を皆体験しなければなりません。その真の愛の属性は三つあるのです。相続権と同参権と同位権です。
P.31
​​ですから、先生が一人でいても父母の代身であり、お母様が一人でいても父母の代身なのです。​​
P.32
きょうの題目は、「父母の日と私」ですが、その贈り物が何かというと、今先生が語った内容なのです。先生が第一の教主であれば、お母様が第二の教主なのです。第二の教主は何かというと、祭司長なのです。もしお母様が宣教本部に行ったとしても、「なぜお父様は来られないのですか」などと聞いてはなりません。


(1990年3月27日、ベルベディアにて)
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peace 2024-05-18 06:44:15

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あなたは「予定論」を出されて何を臆しているのですか?
神様のみ旨が成就することでしょうか?
それはサタンの思惑にハマったあなたです。


お母様自叙伝P.114~も読まれたでしょう。小羊の婚宴に臨んでのお母様のみ旨成就に対する決意です。それは今も同じです。そのお母様「独生女」と一つとならずして【何時】その神様のみ旨成就が為されますか。【今でしょ!】。
この地上で、一代で全てを終わらせようとされる真の父母様の決意、原理講論P.428にも記されています。
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 それゆえに、イエスは初臨のときに、彼のために召命された第一イスラエル選民を捨てられ、キリスト教信徒たちを第二イスラエルとして立て、新しい霊的な摂理路程を歩むほかはなかったのと同様に、再臨のときにも、キリスト教信徒たちが不信に陥るならば、彼らを捨てて新しく第三イスラエルを立て、実体的な摂理路程を成就していくほかはない。さらにまた、イエスは再臨のときも初臨のときと同じく、彼の道をまっすぐにするために洗礼ヨハネの使命(ヨハネ一・23)を担ってくるはずの先駆者たちが、その使命を全うし得ないときには、再臨主御自身が、再び洗礼ヨハネの立場で、第三次世界的カナン復帰摂理のための「信仰基台」を実体的に造成しなければならないので、苦難の道を歩まれなければならないようになるのである。
 
しかし、再臨主はいくら険しい苦難の道を歩まれるといっても、初臨のときのように、復帰摂理の目的を完遂できないで、亡くなられるということはない。その理由は、神が人類の真の父母を立てることによって(前編第七章第四節(一)(1))、創造目的を完遂なさろうとする摂理は、アダムからイエスを経て再臨主に至るまで三度を数え、この三度目である再臨のときには、必ず、その摂理が成就されるようになっているからであり、その上、後編第四章第七節に論述されているように、イエス以後二〇〇〇年間の霊的な復帰摂理によって、彼が働き得る社会を造成するために、民主主義時代をつくっておかれたからである。イエスは、初臨のときには、ユダヤ教の反逆者であるとみなされて亡くなられたのであったが、彼が再臨なさる民主主義社会においては、たとえ、彼が異端者として追われることがあるとしても、それによって死の立場にまで追いこまれるようなことはないのである。
-----<原理講論P.428

「メシヤ=再臨主=真の父母」を信じていきましょう。

 

 

 

peace 2024-05-18 23:53:15