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統一原理を愛して

私は文鮮明先生、統一原理に出会って神様を感じることができました。このブログをきっかけに統一原理を通して、日々の生活で皆さんが神様を感じていけたら幸いです!!


復帰摂理の観点から神の心情について書いていきます。今日はアダム家庭について、文鮮明先生のみ言を引用します。

統一思想要綱の教育論から抜粋します。
P352,353

① アダムの家庭における神の心情

「 希望の中でアダムとエバを創造された神は限りない希望と喜びでいっぱいであったが、アダムとエバが堕落したので限りなく悲しまれた。そこでアダムの家庭を救うために、アダムとエバの子供であるカインとアベルに献祭をさせたのであるが、そのとき神は彼らが献祭に成功するだろうという大きな希望をもって臨まれたのである。

 神は全知全能であるからアダムとエバや、カインとアベルが失敗するということは、初めから分かっていたのではなかろうか。そうであるならば、神が嘆き悲しむというようなことがありえるだろうか。そのように考える人がいるかもしれない。しかし、そうではない。

 神はたとえ人間が堕落することもありうる可能性を知っていたとしても、神は心情の神であり、希望の神であるために、堕落しないことを願う心が堕落の可能性を予知する心に対して、比較できないくらい強かったのである。

 献祭においても同じである。献祭にかけた神の期待は大変大きく、希望は強かったために、献祭の失敗の可能性に対する予知は完全に忘れてしまっていたのと同じであった。ここに心情と理性の違いがあるのである。心情の衝動力は理性を圧倒するほど強力なのである。

 そのようにアダムとエバの時も、カインとアベルの時も、神は成功のみを願う、期待と希望の神であった。ところがアダムとエバも、カインとアベルも失敗してしまった。その悲しみは例えようもなく大きかった。ここに指摘することは、神はその悲しみを外に表されなかったという事実である。それはそうした場面ごとに、サタンが共にいて注視していたからである。もし神が悲しみを表したとしたら、悲しみでぬれたその姿はサタンにとって、威信も権威もなく、神らしくない、みすぼらしい姿として映るだけだからである。それゆえ神はただ黙して、顔を伏せて、わき上がる悲しみを抑えながら、悲壮な面持ちでその場を立ち去られたのである。
これが、草創期に文先生が明らかにされたアダム家庭における神の心情である。」






明日に続く・・・・


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今日は、復帰摂理の内容に関することで、私の神体験を書いていきます。



P316 第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理(一)信仰基台 (1) 信仰基台を復帰する中心人物

「また、神が一番愛するアベルの身代わりであったハム(彼らはみな次子として「実体献祭」の中心であった)を、サタンに奪われたので、・・・・・・・・」

ノア家庭が生きていた当時、神様はハムを一番愛していた。これを踏まえて、次に抜粋した原理講論の箇所を読んでいただければと思います。


P313,314 第二節 ノアの家庭を中心とする復帰摂理(三)ノアの家庭が見せてくれた教訓 から抜粋。原文とは色が異なります。

「また、ノアの家庭を中心とした摂理は、み旨成就に対する神の予定の在り方と、人間の責任分担の遂行いかんで神がどのような態度をとられるか、ということを私たちに見せてくださったのである。ノアの家庭は、神が一六〇〇年間もかかって求めてこられたのであり、また、ノアが箱舟をつくって四十日の洪水により、全人類を犠牲にしてまで立てた家庭であることを、我々はよく知っている。しかし、ハムの小さな過ちによってサタンが侵入するようになると、神は復帰摂理の対象であったその家庭全部を惜しみなく捨てられ、その結果、ノアの家庭を中心とする摂理は、失敗に帰してしまったのである。また、ノアの家庭を中心とする摂理は、人間に対する神の予定がどのようなものであるかを我々に見せてくださった。神はノアを信仰の祖に立てようと、長い期間を通じて苦労して探し求めてこられたにもかかわらず、その家庭が、いったん、責任分担を全うできなくなったときには、それを惜しみなく捨て、その代わりとしてアブラハムを選ばれたという事実を、我々は忘れてはならないのである。


当時、神様が一番愛していたのがハムでした。しかし、ハムが小さな過ちによって、ノア家庭を中心として復帰摂理を進めることができなくなると、神様はハムを惜しみなく捨てられました。全人類を救うために、最も愛するものを捨てられるのが神様でした。


いつものところから抜粋します。

原理講論 緒論
復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。


将来、生まれてくる私を導くために、神様は、もっとも愛するハムを惜しみなく捨てました。ハムの失敗により、ノア家庭を通して復帰摂理を進めることができなくなると、堕落した人類を、将来生まれてくる私を復帰し導くために、祝福2世はお親を復帰し、親を通して導くために、決断しました。

私を導くために、もっとも愛するハムを惜しみなく捨てたのです。

この原理講論の箇所には、神様の心情が詰まっています。


この箇所を読んでもあまり神様の心情が頭で分かっても、心情で分かったという方はあまりいないかもしれません。何ども何ども、原理講論を読んで追い求めていけば、必ず分かります。みずからつかみ取らなければなりません。


皆さん、原理講論を何ども読みましょう\(^_^=^_^)/



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原理講論

後編 第1章復帰期第摂理時代 第1節 アダムの家庭を中心とする復帰摂理 

(三)アダムの家庭におけるメシヤのための基台とその喪失

アダムの家庭が「メシヤのための基台」をつくるためには、アダム自身がまず「象徴献祭」をして、「信仰基台」を立てなければならなかった。それにもかかわらず、既に述べたように、アダムが献祭をなし得なかった理由は、アダムが献祭をすれば、その供え物には、神とサタンという二人の主人が対応するようになり、非原理的立場に立つようになるからである。なお、そのほかにも、ここには心情的な面におけるいま一つの理由があった。堕落したアダムは、事実上、神の心情に対して千秋万代にわたって消えることのない深い悲しみを刻みこんだ罪悪の張本人であった。それゆえに、彼は、神が直接に対応して復帰摂理をされる心情的な対象となることができなかったのである。

 

 

アダム家庭の中心人物は??

 

アベルが供え物を捧げたのでアベルだと思っている人も多いと思いますが、原理講論をよく読むとアダムとしっかり書いてありますね。

しかし、供え物を捧げたのはアベルです。アダムは堕落したことにより、神様に千秋万代にわたって消えることのない深い悲しみを刻みました。なので、神様が復帰摂理を進めるにあたって、アダムは神様の心情的な対象になりませんでした。

神様は千秋万代にわたって消えることのない深い悲しみを刻み込まれましたが、神様はすぐさまアベルとカインを通して復帰摂理を進めていきました。

なぜ、神様は深い悲しみを抱いたにもかかわらず、直ぐに復帰摂理を進めたのでしょうか?

 

それは、

緒論

復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。

 

私を創造目的を完成させるために、私を創造本然の人間に復帰していく神様の摂理。

神様は私(このブログの読者)を導くために、千秋万代に消えることのない深い悲しみを刻み来れても、復帰摂理を進めました。神様はアダムを通して復帰摂理を進められませんでしたが、知恵を使ってアベルとカインを通して復帰摂理を進めました。

深い悲しみにくれる中、復帰摂理を進められたのは、将来、誕生される私を導くために決断されました。祝福2世で生まれた人も、伝道された1世も、このような神様の深い悲しみを刻みこまれた中での決断の上にいるのです。

 

 

明日に続く!!!

 

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原理講論

後編 緒論

復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。

 

 

原理講論、後編の最初の一文。

復帰摂理の定義が書いてあります。堕落した人間ところに、祝福を受けた人も、祝福2世も自分の名前を入れて読んでください。

私を創造目的を完成させるために、私を創造本然の人間に復帰していく神様の摂理。

アダムとエバの堕落以後、アダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭、モーセ路程、イエス路程、この復帰摂理を神様が進めてこられたのは、私を導くため。そして、1世は伝道され、2世は親が伝道され祝福を受けて生まれてきました。そのように神様が私を導いてくださいました。

これから、復帰摂理で私を導いてこられた神様の心情に触れていきたいと思います。

原理講論を読み進めるうえで、決して他人事、物語のように読まないでください。この復帰摂理は、神様が私を導いてくださいました。

 

明日に続く!!!

 

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以前、陽性と陰性の二性性相の相対的関係についてとことん書きました。今日は、続き、性相と形状の二性性相の相対的関係について書いていきます。


性相は目に見えませんが、ある形を持っています。形状は、見ることのできない性相がそのごとくに現れたものです。水を例に考えていきたいと思います。空気の中にも水蒸気として水があると思います。もちろん、濃度が薄いため、その水は目に見えません。しかし、その濃度が濃くなれば、水として目に見えます。


昨日の続きです。「性相が形状化する」こと。
 
見えない心が体として見えてくるように、見えない心が、手相、行動、仕草、表情など、現れてきます。毎年、夏に甲子園がありますね。甲子園に行ったことがある兄弟が言ってました。気持ちで負けると、プレーに出てきて負けると。甲子園には魔物がいると良く言いますが、私の心の中にいるのではないでしょうか!?私の心(慢心、油断、過度の緊張など)がエラーなどプレーに現れる。まさに、性相が形状化というのは原理的だと言ってました。


意識が変われば、行動もかわり、習慣も変わる。み言を訓読し、意識が変わっていけば、み言の実践へつながっていくのではないでしょうか。そして、実践を続ければまさに神様に出会い、人生が変わる。訓読は大切とよく言われますが、改めて大切だと感じます。


今日の本番はこれからです。

形状から性相がともなってくる。

なんのことか!?例えば、感謝できないことがあっても、感謝感謝と言葉を言っているとそのような思いがともなってくる。

み言を実践する。気持ちが伴ってみ言を実践できたら良いですが、たとえ気持ちが伴っていなくてもみ言を信じて実践すると、そのみ言の実体となる。そしたら、そのみ言を通して神様の心情を体恤していきます。
言動を変えることを通して人生が変わる。み言を実践することに対して、気持ちが伴ってやることにこしたことはないですが、たとえ気持ちが伴ってなくてもみ言を信じて実践してみる。そこにはとてつもない価値がつまってます。
訓読などで気になったみ言があれば、覚えて、日々の生活の中で意識しながら生活し見ましょう。


感謝、ありがとう、などプラスの言葉を発する。み言を信じて実践すること。これらを意識して信仰生活を頑張りましょう\(^_^=^_^)/ ♪



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