統一原理を愛して -4ページ目

統一原理を愛して

私は文鮮明先生、統一原理に出会って神様を感じることができました。このブログをきっかけに統一原理を通して、日々の生活で皆さんが神様を感じていけたら幸いです!!


今日は、復帰摂理の内容に関することで、私の神体験を書いていきます。



P316 第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理(一)信仰基台 (1) 信仰基台を復帰する中心人物

「また、神が一番愛するアベルの身代わりであったハム(彼らはみな次子として「実体献祭」の中心であった)を、サタンに奪われたので、・・・・・・・・」

ノア家庭が生きていた当時、神様はハムを一番愛していた。これを踏まえて、次に抜粋した原理講論の箇所を読んでいただければと思います。


P313,314 第二節 ノアの家庭を中心とする復帰摂理(三)ノアの家庭が見せてくれた教訓 から抜粋。原文とは色が異なります。

「また、ノアの家庭を中心とした摂理は、み旨成就に対する神の予定の在り方と、人間の責任分担の遂行いかんで神がどのような態度をとられるか、ということを私たちに見せてくださったのである。ノアの家庭は、神が一六〇〇年間もかかって求めてこられたのであり、また、ノアが箱舟をつくって四十日の洪水により、全人類を犠牲にしてまで立てた家庭であることを、我々はよく知っている。しかし、ハムの小さな過ちによってサタンが侵入するようになると、神は復帰摂理の対象であったその家庭全部を惜しみなく捨てられ、その結果、ノアの家庭を中心とする摂理は、失敗に帰してしまったのである。また、ノアの家庭を中心とする摂理は、人間に対する神の予定がどのようなものであるかを我々に見せてくださった。神はノアを信仰の祖に立てようと、長い期間を通じて苦労して探し求めてこられたにもかかわらず、その家庭が、いったん、責任分担を全うできなくなったときには、それを惜しみなく捨て、その代わりとしてアブラハムを選ばれたという事実を、我々は忘れてはならないのである。


当時、神様が一番愛していたのがハムでした。しかし、ハムが小さな過ちによって、ノア家庭を中心として復帰摂理を進めることができなくなると、神様はハムを惜しみなく捨てられました。全人類を救うために、最も愛するものを捨てられるのが神様でした。どれほど、神様が私たち人類を救うことに切実か、愛しているのかを私は痛烈に感じました。私は、アダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭など復帰摂理に関する箇所を何ども読んでいく中で、神様の心情を感じることができ、これが私の神体験の一つです。

この箇所を読んでもあまり神様の心情が頭で分かっても、心情で分かったという方はあまりいないかもしれません。でも、大丈夫です。何ども何ども、原理講論を読んで、追い求めていけば、必ず分かります。今日の箇所以外でも、神様の心情は書いてあります。ほかの箇所で神体験することもあるはずです。


皆さん、原理講論を何ども読みましょう\(^_^=^_^)/



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復帰摂理の観点から神の心情について書いていきます。

原理講論  後編 緒論
復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。

※堕落人間のところを「私」と置き換えて、原理講論を読み進めて下さい。復帰摂理の中の1つ1つの出来事は、私を導くための神様の摂理です。


今日はイエス路程について、文鮮明先生のみ言を引用します。。

統一思想要綱の教育論から抜粋します。
P357,358

「旧約聖書に予言されていたように(イザヤ書九・六)、イエスは地上にメシヤとして来られた。全地がもろ手を挙げて歓迎しなければならない救い主であったにもかかわらず、彼は幼い時から排斥された。家族がイエスを追い出し、ユダヤ教がイエスを不信し、結局、イスラエル民族がイエスを追い出したのである。どこにも行くところがないイエスであった。

 イエスは三年間の公生涯路程を含めて三十三年間、寂しい孤独な生涯を送られた。「きつねは穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(ルカ九・五八)といわれ、その孤独な心情を吐露された。そしてエルサレムの城を眺めて涙を流しながら、「場内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」(ルカ一九・四四)といって、イスラエル民族を叱責されたのである。

 ある時には、ガリラヤの浜辺をさまよいながら、選民ではないサマリヤの女に話しかけたりして寂しさを粉らせたり(ヨハネ四・七―二六)、ユダヤ人の指導者たちより取税人や遊女たちが先に天国に入るであろうといって(マタイ二一・三一)、救い主である自分を追いやる教団に対して寂しさを告白されたのであった。そのとき、神もイエスと共に、孤独な道を歩まれたのであった。

 そしてついに十字架にかけられた、神のひとり子イエスの悲惨な姿を見られる神の心情は、いかなるものであったのだろうか。あまりにも悲惨な姿を見るに忍びず、そして十字架からイエスを下ろすことのできない事情を嘆きながら、神は顔をそむけられた。イエスの十字架を見ておられる神の苦しみは、イエスの苦しみ以上であったのである。」



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原理講論  後編 緒論
復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。

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今日はモーセ路程について、文鮮明先生のみ言を引用します。


統一思想要綱の教育論から抜粋します。
P355~357

「エジプトの王子として育てられたモーセは、同胞であるイスラエル民族の受けている苦痛の現場を目撃したあと、神のみ旨に従って彼らをカナンの地へ復帰させようとして、千辛万苦ののちに、彼らを荒野に導いたのであった。しかしイスラエル民族は困難にぶつかるたびに指導者であるモーセに反逆した。モーセがシナイ山で四十日間の断食を行ったのち、二枚の石板を受けて山から降りて見ると、イスラエル民族は金の子牛を造って拝んでいた。モーセは、そのような神を冒瀆(ぼうとく)する不信の行為を見て激しく怒り、石板を投げつけて壊してしまったのである。そのとき神は「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、私をとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」(出エジプト記三二・九―一〇)といわれた。

 そのとき、モーセの心情はいかなるものであったのだろうか。イスラエル民族の不信をしかって、「この民族を滅ぼしつくそう」という神の怒りに直面して、瞬間的に彼の民族愛、愛国の心情がほとばしったのである。そして彼はいかなる困難があろうとも、この民族を生かしたいと思い、できれば彼らとともにカナンの地に入ろうとしたのである。そこで彼は神にすがりついて、「どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し……」(出エジプト記三二・一二)といいながら、民族を救おうと哀願したのである。神はモーセのそのような民族愛の訴えの祈りを受け入れて、ついにイスラエルを滅ぼすことを思いとどまられたのであった。

 ところが四十年間、荒野を流浪したあと、カデシバルネアに到着した時、イスラエル民族は「ここは食べるものもない」と再びモーセを恨んだのであった。その時、モーセは不信するイスラエル民族に対する怒りから、一度打つべき岩を二度打ってしまった。これは神のみ旨に反することであった。そしてその後、神はモーセをピスガの頂きに呼んで、イスラエル民族が入って行くカナンの地を見せながら、「あなたはカナンの地に入ることはできない」(申命記三二・五二)と告げられたのであった。八十歳の老いた体を駆って、四十日間の断食を二回も行ったモーセ、不信の民族を抱えて四十年間もシンの荒野で苦労をしてきたモーセであった。事実上、出エジプトの主役であったモーセをカナンの地へ導き入れたい神であったが、サタンの讒訴のために、やむを得ず目前にあるその地を見せながら彼を見捨てるしかなかった。そこに神の深い悲しみと痛みと切なさがあったのである。」






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原理講論  後編 緒論
復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。

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今日はアブラハム家庭について、文鮮明先生のみ言を引用します。

統一思想要綱の教育論から抜粋します。
P354,355

③ アブラハム家庭における神の心情

 その後、四百年を経て神はアブラハムを探し立てた。アブラハムの路程において一番深刻だったのは、アブラハムが百歳の時に得た、ひとり子イサクを供え物として捧げる時であった。鳩と羊と雌牛を捧げる象徴献祭に失敗したアブラハムに対して、神は息子のイサクを供え物として捧げよと命令された。そのとき、人倫に従って子を生かすべきか、天命に従って子を捧げるべきか、人倫か天倫か、アブラハムは苦しんだのである。イサクを捧げる代わりに、自分自身を供え物にして、イサクを生かしたいというのがアブラハムの心情であった。けれども彼は結局、神の命令に従ってイサクを供え物として捧げようとしたのである。人倫を断ち切り、天倫に従うことを決意したのである。モリヤ山に向かって行く三日間の期間は、アブラハムにとっては、天倫か、人倫か、いずれかを選ばなくてはならない苦悩の時であった。そのとき神は遠くからただ眺めていたのではなかった。「子を捧げよ」という厳しい命令を発してからは、アブラハムの苦しむ姿を見ながら神はアブラハムと共に、否それ以上に苦しまれたのである。

 アブラハムはモリヤ山で最愛のわが子イサクを祭物として捧げようと、刀を取って殺そうとした時、神は慌ててアブラハムがイサクを殺すのをやめさせ、「あなたが神を恐れる者であることを今知った」(創世記二二・一二)といわれた。

 そのとき、アブラハムの神のみ旨に対する心情と、神に対する絶対的な信仰と従順と忠誠は、すでに彼をしてイサクを殺したという立場に立たせたのである。したがってイサクを殺さなくても殺したのと同じ条件が成立したのである。それで神はアブラハムにイサクを殺すのをやめさせ、その代わりに雄羊を燔祭として捧げさせた。「あなたが神を恐れる者であることを今知った」というみ言の中には、象徴献祭に失敗したアブラハムに対する神の悔しさと、イサク献祭において見られたアブラハムの忠誠に対する神の喜びが、共に含まれていたのである。




明日に続く・・・・


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復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。

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今日はノア家庭について、文鮮明先生のみ言を引用します。

統一思想要綱の教育論から抜粋します。
P353,354

② ノア家庭における神の心情

 アダムの家庭を離れた神は、千六百年という長い間、荒野の道を歩きながら、地上の協力者を探してさまよわれた。その間、人間はみな神に背を向けるばかりで、誰も神を迎える者がいなかった。したがって地上には、神が宿ることのできる一軒の家もなければ、立つことのできる一寸の土地もなく、相対することのできる一人の人間もいなかった。文字どおり天涯孤独な哀れな身の上となって、寂しい道を歩まれたのである。そういう中で、ついに神は一人の協力者、ノアに出会ったのである。その時の神の喜びは例えようもなかった。しかし神は摂理的な事情のために、愛するノアに対して厳しい命令を与えなければならなかった。それが、まさに方舟を造れという命令であった。神の命令を受けたノアは、人々からあらゆる嘲笑と蔑視を受けながら、あらゆる精誠を尽くして、百二十年間、方舟を造ったのである。

 ノアは神の前に立てられた僕であり、義人であっただけで、神の子ではなかった。しかし、たとえ僕であっても、神はそのようなノアに出会ったことを、それほどまで喜び、神自ら、僕の立場に下りてノアと共に苦労の道を歩まれたのであった。

 ところが洪水審判を経たあとに、ノアの子ハムが責任分担を果たさなかったために、洪水審判で生き残ったただ一つの家庭であるノアの家庭にサタンが侵入する結果となってしまった。そのとき神は胸が張り裂けるような痛みと悲しみを感じながら、再び悄然(しょうぜん)としてノアの家庭を立ち去られたのであった。




明日に続く・・・・


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